霊媒体質春日井くん 第二話 しまった。またやってしまった。
満月に照らされた歩道橋の真ん中で立ち尽くし、春日井甲洋は己の迂闊さを呪った。
季節柄、至る所で怖い話を耳にする。バイト先も例に漏れず、休憩室で同僚たちが最近仕入れてきた怖い話を披露し合っていた。「怖い話は霊を呼ぶ、そういう場からは速やかに立ち去れ」と総士から耳にタコができるほど言われているので、いつも適当に言い訳をしてさっさと帰っていた。だが、話題に上がっていたのがアパートのすぐ近くにある歩道橋だったため、思わず足を止めてしまったのだ。
「雨の夜にその歩道橋を通ると、全身ずぶ濡れの女にあの世に連れてかれるんだって」
何でもその幽霊は、大雨が降る夜に足を滑らせ、歩道橋から落ちてしまったらしい。
可哀想だな、というのが率直な感想だった。その子(年上かもしれないけれど)は死んでから今までずっと独りで、暗いところを彷徨っているのか。しかも自分が命を落とした場所を。そんなの、あまりにもつらすぎる。
そこまで考えて、はたと我に返る。いけない、つい霊の境遇に思いを馳せてしまった。「人ならざる者に対して不用意に心を傾けるな」とこれまた総士から常々言われているのに。
このまま話を聞き続けるのは良くない。頭を振って思考を切り替え、バイト先を後にした。
そして今、甲洋は件の歩道橋にいる。
聞いた話を忘れようと頭の中にある思い出のアルバムを開きながら歩いていたら、いつの間にかここにいた。我ながらアホ過ぎる。これじゃ来主のことをどうこう言えないじゃないか…。
だが。同僚は雨の夜と言っていた。今日は快晴、空には満月が輝いている。よし、問題ない。さっさと渡りきろう。そう思って足を踏み出した時だった。
ピチャ ピチャ
何かが滴る音が聞こえ、踏み出した足を止める。繰り返すが今日は快晴だ。間違ってもこんな、ずぶ濡れの何かから水が滴るような音が聞こえるなんてありえない。いや、どうだろう。俺がバイトしてる間に通り雨でもあったのかな。…地面が濡れてないからそれもありえないんだけど。何よりこの悪寒が異常事態を明確に知らせている。ああくそ、ここまで感じることが出来るならいっそ視えた方が楽なのに!
そうこうしている内にも気配が目の前まで迫っている。全身が金縛りにあったように動かない。
嫌だ、怖い、怖い―――!
「こーよ!」
聴き慣れた声。次いで軽い衝撃とぬくもり。途端に自由になった首でおそるおそる胸元を見ると、ふわふわとしたくせっ毛が目に飛び込んでくる。
「……く、るす……?」
抱き着いてきた同居人であり恋人でもある来主操が、猫のように胸元にすり寄ってくる。それを認識しただけで膨れ上がっていた恐怖心が霧散した。
「えへへ、遅かったから迎えにきちゃった! 何してるの?」
「いや……え?」
恐怖心は消え去ったが悪寒は依然消えていない。
「…"いる"…だろ?」
「? なんにも」
「そんなはず…」
視えないが霊に憑かれやすい甲洋にとってこの悪寒は防衛本能にも等しい。今まで外れたことなど一度もない。それなのに操に視みえないとは、一体どういうことだろうか。困惑していると、何かに思い当たった操が「あ!」と声をあげる。
「甲洋、勘違いしてるでしょ~。最近噂になってるのは別の歩道橋だよ」
「そう…なのか?」
「そうなの。だから"ここには何もいない"よ」
ふにゃっと、まるでわたがしのような柔らかな笑みを操が浮かべる。甲洋を安心させたいときに操がする顔。気付けば、悪寒は収まっていた。
なんだ、自分の感覚はこんなにも当てにならないものだったのか。
「先帰っててよ。ちょっと用事済ませてくるから」
「え? でも…」
「電子レンジで卵爆発させちゃってさ~。買ってくるから掃除しといて?」
「………」
一瞬でもこいつに救われたと思った俺が馬鹿だった。
「……帰ったらお説教からだな」
ため息混じりにそう言うと「わかってるって」と絶対分かってない返答が飛んでくる。それにまたため息を吐いて、甲洋は家路を急いだ。
「…まったく。ホーント、甲洋ってお人よしだよねぇ。そんなだから憑かれちゃんだよ」
くすっと笑って操は"ソレ"に目を向け、びくっと半歩下がった相手に肩を竦めた。
「だけど、いくら甲洋がキミに同情してたからって、ルール違反は良くないよ。"雨の日"って決めたなら守らなきゃ」
真っ直ぐ、射貫くような視線で刺す。人間ならざるモノにだけ見せる、操の防衛手段のひとつ。
「でもそのおかげで、俺の言霊でもキミの存在を薄められた。だからまぁ、結果オーライかな?」
目の前の存在が揺らいでいく。土地と状況に縛られる相手だからこそ、思い込みであれ"いない"という状況をつくれば操でも対処が可能なのだ。
「これからはルールを守りなよ。ああでも、甲洋のことは諦めて」
拒絶の意思を視線と言霊の双方に込め、しかし口元には笑みを浮かべて操は言い放った。
「甲洋は、俺のだから」