霊媒体質春日井くん 第三話『無事か?』
開口一番に飛んできた疑問に首を傾げると、今度は受話器の向こうから小さなため息が聞こえてきた。ついでに舌打ちも聞こえた気がするのだが気のせいだろうか。
『甲洋の奴、まだ帰っていないのだな』
「今日は飲み会で遅くなるって言ってたよ」
『だからって遅すぎるだろう』
呆れを含んだ言葉に時計を見ると21時――歩く幽霊ほいほいである甲洋の門限の時刻だった。
「しょうがないんじゃない? 甲洋が飲み会に参加するの珍しいし」
『………そうか。お前は初めてかもしれないな』
「え?」
『いや、何でもない。……健闘を祈る』
そんな会話を総士と交わしたのが2時間前。いくら何でも遅いので迎えに行こうと立ち上がったところで、狙ったかのようにチャイムが鳴った。用意しておいた片栗粉の袋を引っ掴んで扉に近づく。今日は一体何人ほいほいしてきたのかと、半ばわくわくとした心持ちで鍵を開けた。
「おかえり、こうよぅわあ!?」
扉を開けた瞬間、突如ずっしりと重力がかかりその場に崩れ落ちる。何が起きたのか分からず混乱していると、耳元で聞き慣れた声がした。
「くるす、ただいまぁ」
聞き慣れた声。だがそこに含まれる響きは今まで一度も聞いたことがないほど甘くて、声の主が誰なのか分からなくなる。
「こ……甲洋……?」
確認するように名を呼べば耳元で「ん~」と甘えた声がする。え、なに。ドッキリかなにか?
「甲洋、来主が潰れてる」
これまた聞き慣れた声がしたと思ったら重力がふっとなくなった。呆然としたまま見上げると、子どものようにこちらに手を伸ばす甲洋とその首根っこを掴んでいる一騎が視界に入る。甲洋の顔は見たことないほどに真っ赤だった。
「悪いな、来主。怪我してないか?」
「う、うん…。甲洋どうしたの?」
「あー…ちょっとな…」
困ったように笑う一騎の手から逃れようとじたばたしている甲洋はまるで子猫のようだ。意味を為さない言葉を発しながら操の方に手を伸ばしてくる。え、かわいい。
応えるように手を伸ばせば、顔を輝かせた甲洋が一騎の手を振りほどいて操の胸に飛び込んできた。そのまま甘えるようにすり寄って来る。これは本当に甲洋なのだろうか。夢でも見ているような気分になる。
「えっと、任せて大丈夫か?」
「うん。一騎こそ、こんな時間に一人で帰って平気?」
「そこまで総士が来てるんだ」
なるほど、どうりで霊がいないわけだ。甲洋が飲んでいる店は総士にも伝えていたので迎えに行ってくれたのだろう。しかし、何故甲洋と同じ歩く幽霊ほいほいである一騎も一緒なのだろう。これではほいほい率が倍になってしまっただろうに。
「泊ってけば?」
「それはちょっと……」
苦笑した一騎が操の腕の中におさまっている甲洋に目を向ける。どういう視線なのだろうかそれは。
「まあ来主なら大丈夫だよ」
愛らしい笑顔でそう言った一騎は「おやすみ」と付け加えると操の言葉も聞かずに出ていった。大丈夫って何なのだろう。頭の中に浮かんだ疑問をどうしたものかと考えていたら、唇にふにっと何かが押し当てられた。それが甲洋の唇だと理解するのに時間は要らなかったが、現実を受け止めるのに数秒を要した。
「ん…!?」
思考が停止する。除霊目的以外で甲洋からキスをされたことなど一度もなかった。
甲洋のスタンスは基本的に『仕方なく来主に付き合ってやっている』というものだ。それが照れ隠しだということは操も分かっている。「建前が必要な人間だっているんだよ」と、付き合い始めた頃に真っ赤な顔をした甲洋に言われたから。
だからこそ、目の前で起きていることに理解が追い付かなかった。
そっと唇が離れ、再び軽く押し当てられる。それを幾度か繰り返したかと思えば、ぐっと熱い舌が操の唇を割って口内に入ってくる。さすがにびっくりして肩を押すと、意外にもあっさりと顔が離れた。
「甲洋、飲みすぎ。とにかく着替え……」
その先は続かなかった。甲洋が、あまりにも寂しそうな顔で見つめてきていたから。どうしていいのか分からず、とりあえず抱きしめて背中を撫でる。しばらくそうしていたらぎゅっと抱きしめ返された。
「くるす」
「…っ」
「くるす…」
甘えたような声で名を呼ばれる。それがなんだかくすぐったくて返答に困っていたら、吐息混じりに再び名を呼ばれた。
「くるす、きすして」
「へ?」
何を言われたのか理解が出来ない。いつだって付き合わせているのは、求めているのは操の方で、甲洋は仕方なくそれに応えているだけ。それが自分たちのスタンスだったのに。
「くるす……」
上気した頬と、とろんと潤んだ目。普段は見せない顔にただでさえドキドキしてしまうのに、三度甘えた声で名を呼ばれたら許容オーバーだった。
思考を放棄してそっと口付ける。甲洋が幸せそうに笑ったので、なんだかもうどうでもよくなってしまった。
「あーーーーーー」
地を這うような声で目が覚めた。窓の外は大分明るい。休日だからと随分とぐっすり眠ってしまっていたようだ。
「おはよ、こうよう」
隣で頭を抱えている甲洋に声をかけると面白いくらいぴたっと動きが止まった。ぐぎぎと音を立てて首を動かし、こちらを向く様が何とも愛らしい。
「来主……俺、昨日……」
「甲洋ってキス大好きだったんだねぇ」
笑顔で先手を打つと甲洋が布団に崩れ落ちた。こんなに分かりやすい甲洋はなかなかレアだ。
「総士に聞いたよ。酔うとキス魔になるんだって」
「やめて……それ以上何も言わないで……」
「仕方ないなあ」
面白いからもう少しからかいたかったのだけど、と心の中で笑ってから、手を伸ばして項垂れている頭を抱き込む。
「ね。キスだけじゃ足りないよ、こぉよ」
耳元に口を寄せ、昨日の甲洋以上に甘えた声で名を呼んでみた。ぴくっと跳ねた甲洋がため息をひとつこぼして操の背中に手を回す。
「……昨日のこと、一騎や総士に言わないでね」
「はぁい」
提示された交換条件に笑顔で返事をして、操はそっと目を閉じた。