君へ贈る、(甲翔) 休日の都内は予想以上の混雑ぶりだった。
「すごい人だな…羽佐間、大丈夫か?」
「うん。ありがとう」
肩口辺りから聞こえてくる繊細な声。か細く、けれど芯のある言葉が返ってくることに安堵して、甲洋は脳内に叩き込んだ地図を頼りに目的地へと歩き出した。
―――時を遡ること一年。
緑が多くなってしまった季節の中で、尚も桃色の花を咲かせていた大きな桜の木の下でのひととき。
甲洋は、積りに積もった想いを初恋の相手へと告げた。一生胸に秘め続けるつもりだったそれは、表面張力で辛うじて零れずにいたコップの水が一定の量に達した瞬間堰を切ったように溢れ出すかの如く、些細なきっかけで止めどなく胸の奥から溢れ出してしまったのだ。
勝ち目のない勝負はしない主義だった。本当にどうかしていたと思う。こんな、誰が見ても明らかな負け戦を、なんて思っていた甲洋の耳に届いた、声。
『よろしく、お願いします』
予想外の言葉に弾かれたように顔を上げると、目の前の少女――羽佐間翔子は、舞い散る桜よりもはるかに美しい笑みを浮かべていた。
あれから、もうすぐでちょうど一年。
誰かと付き合うなんて初めてで、何もかもが手探りだった。そんな状態で一年間も関係が続くなんてまるで奇跡のようだ。だから、甲洋はとてもはしゃいでいた。周りにバレないよう必死にひた隠してきたが、今日という日を心の底から楽しみにしていた。
ただ、そのことを翔子にすら言うべきかどうか悩んでいた。
『何の日か覚えてる?』
何度も聞こうと思って、今に至るまで聞けていない言葉。付き合って一周年、そんなことを記念日扱いするなんて、と思われたらどうしよう。そもそも翔子が覚えていなかったら? 優しい彼女のことだ、きっと気を遣わせてしまう。でも、どうせならその日は翔子と過ごしたい。
悩んだ末、いつも通り、ごく自然にデートに誘ってみた。さして間を置かずに返ってきた『わかったわ』の文字に少しだけ期待する。もしかして、翔子もこの日のことを覚えていてバイトを入れてなかったのかな、とか。
自惚れ過ぎかもしれない。夢を見ている自覚はある。それでも、本人に確認しない限り、甲洋にとってはそれが事実であり続ける。
それだけで、十分だ。
そして迎えた今日という日。待ち合わせ場所に来た翔子はそれはもう可愛らしかった。春らしいライトグリーンのカーディガンにワインレッドのロングスカート、胸元にレースがついたブラウス。よく見たらカーディガンの袖にはリボンがついている。翔子は普段からおしゃれだが、今日はまた一段と可愛い気がする。
まさか、本当に覚えてくれているのだろうか。それでいつもより―――
「……春日井くん?」
控えめに名を呼ばれてはっとする。翔子が心配そうな表情で顔を覗き込んでいた。
「大丈夫?」
「平気だよ。ごめんな、羽佐間」
君に見惚れていただけだよとはさすがに言えないので笑って誤魔化した。
「なら、いいの」
翔子はほっとしたように笑う。その笑みひとつで胸があたたかくなる。
傍にいるだけで安らぎをくれる人。それが、甲洋にとっての翔子だった。果たして自分は彼女に何を返せているのだろうか。脳裏を掠めた不安を見て見ぬふりして、甲洋は本日の最終目的地へと歩を進めた。
「わあ…! 素敵なレストランね」
「夜景が綺麗だって少し前にSNSで話題になってたんだ。気に入ってくれた?」
「ええ。ありがとう、春日井くん」
ホテルの最上階に位置するレストラン、その窓際の席で夜景に目を輝かせている翔子は実年齢より少し幼く見えて可愛かった。
彼女のどこに惚れたのかと聞かれたら、甲洋は迷わず『笑顔』と答える。この笑顔を見るためなら何だって頑張れる。見栄でも冗談でもなく、そう思った。
ディナーを食べ終え、食器を下げてもらったテーブルの上に、甲洋は包装された小箱を置いた。シャンパンを飲んでいた翔子は不思議そうに目を瞬かせ、グラスを置いてから小箱にそっと触れる。
「これ……」
「プレゼントだよ」
「!」
小箱から顔を上げた翔子がとても嬉しそうな顔をしていることに安堵する。これなら言っても大丈夫かもしれない。
「あ、あの……今日、さ……」
「一周年、でしょ?」
「え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。混乱する甲洋を余所に翔子は小箱のリボンを解いていく。
中身は時計だった。前にデートをした時、そろそろ買い換えたいという話になって、一緒に時計屋を見て回った。その際に翔子が気に入っていたデザインのものを買ってきたのだ。
箱を開けた翔子はすぐさまそれに気付いたのだろう。幸せそうに微笑むと静かに時計を付け替えた。
「覚えていてくれてありがとう」
「同じ言葉を返すよ。今日のこと、覚えててくれて嬉しい。ありがとう、羽佐間」
あんなに一人でぐるぐると悩んでいたのが馬鹿らしくなる。もっと翔子のことを──翔子に好かれているということを信じてもいいのかもしれない。
「あのね、わたしからも、プレゼントがあるの」
「えっ、羽佐間から?」
記念日を覚えていてくれただけでもこんなに幸せなのに、更にプレゼントまでなんて。幸福が死因になるのなら間違いなく死んでいた。どうしよう、嬉しい。
「……喜んでもらえるか、わからないんだけど……」
言い出してから視線を泳がせる様がなんとも可愛らしい。羽佐間でもそんな風に緊張するんだな。そんな風に、想ってくれるんだな。
心が満たされていくのを感じながら、緩む頬を叱咤して翔子を安心させるために微笑みを浮かべる。
「羽佐間からもらえるものは何でも嬉しいよ」
「……じゃあ……」
目を閉じた翔子は、少ししてからゆっくりと瞼を持ち上げると、澄んだ瞳に甲洋をしっかりと映して口を開いた。
「―――甲洋くん」
時が止まる感覚。
その瞬間、甲洋の世界から羽佐間翔子という存在以外の全てが消え失せた。
込み上げてくるものがある。目頭が熱い。ああ、自分は今、泣いているかもしれない。
彼女にはかっこいいところだけを見せていたいのに。だめだ、全く敵わない。
「………ありがとう、羽佐間」
何とか涙が零れるのを堪え翔子に向き直る。すると、翔子は頬を僅かに赤らめ、上目遣いで見つめてきた。
「……甲洋くんは、呼んでくれないの?」
「……いいの?」
聞き返してからしまったと思った。案の定、翔子は赤く染まった頬をぷくっと膨らませる。
「よくなかったら、お付き合いなんて、してないよ」
「………じゃあ」
初恋なんて叶わないと思っていた。叶わなくてもいい、綺麗な思い出として一生大事に抱えていよう。そう思っていたのだ。一年前の、今日までは。
あの日、桜の木の下で勇気を出した自分へ惜しみ無い拍手を送りながら、甲洋は口を開いた。
「これからもよろしく―――翔子」
***
「春日井くんが喜びそうなものかぁ」
大学のカフェテラスで紅茶を飲んでいた真矢はうーんと軽い唸り声を上げた。
「難しいなあ」
「羽佐間からのプレゼントなら何でも喜ぶんじゃないか?」
一騎はコーヒーに落としたミルクをマドラーで溶かしながら不思議そうに首を傾げる。それを受けた翔子が「だから困ってるの」と小さく呟いたので今度は反対側に首を傾げた。そんな一騎に苦笑した真矢が補足をする。
「何でも喜んでくれるから、毎回悩んじゃうんだよね」
「そうなの……」
何でも喜んでくれるなら何でもいいんじゃないか、とはさすがに言えず、乳白色の液体をストローでずずっと吸い上げる。まだ苦い。甲洋に「ブラックが飲めないならミルク足してみたら?」と言われて試してみたがこれでも飲めそうにない。このあとは空きコマだし、甲洋を呼んで飲んでもらおう。
そんなことを考えていたら真矢の方を向いていた翔子が一騎へと向き直った。真剣な瞳からどれほど翔子が甲洋を想っているかが伝わってきて、親友のことながら心がぽかぽかした。
「男の子が欲しいものって、よく分からなくて……一騎くんなら、何が欲しい?」
「そうだなあ……」
自分の欲しいものを思い浮かべかけた一騎だったが、翔子の言葉を反芻してあることを思い付いた。
「お、何か思いついた?」
すかさず真矢が食い付いてくる。翔子からのそわそわとした視線を受けながら一騎は笑う。
「"それ"でいいんじゃないか?」
「それ?」
二人の声が重なった。一騎は空を見ながら脳内で言葉を整理し、まとまったところで不思議そうに顔を見合わせる真矢と翔子の方を見る。
「羽佐間、甲洋のこと苗字で呼んでるんだろ? あいつ、苗字より名前の方が好きだから、名前で呼んでやったら喜ぶと思う」
「なるほどねぇ」
「そんなことで、プレゼントになるかな……?」
納得しつつも翔子は不安そうな顔をする。形に残らないものであること、ましてや名前を呼ぶだけだなんて、そんな些細なことでいいのだろうか。
俯く翔子の背を真矢がとん、と叩いた。親友の迷いを振り払うように、背中を押すように、優しく。
「大丈夫だよ、翔子。一騎くんが言うなら間違いないって」
「言い過ぎだぞ、遠見。他にもっといい案があるかもしれないし……」
慌てたように言い募る一騎を手で制し、真矢はいたずらっぽくウィンクをした。
「春日井くんのことを一番分かってるのは一騎くんだよぉ」
「……そうか」
そうだといいな、と心の中で呟いて、一騎は親友を呼び出すメッセージを打ちはじめた。