華胥の箱庭 1一章 青天の霹靂
1
外の世界が知りたい。そう願ったのは他でもない僕だった。
金色に輝く化け物へと姿を変えた人たち。初めて間近で見た巨大な機体。何も無かった外の世界。目の前で砕け散った妹。全ては瞼の裏にこびりついて離れない景色だ。
『これが真実だ、総士』
耳の奥で冷たい声がする。真壁一騎。僕を利用して乙姫を殺した男。
殺してやる。いつか絶対に、この手であいつを殺してやる。
◇ ◇ ◇
「総士ー? 起きてるー?」
階下から聞こえてきた声で意識が浮上する。この半月で見慣れてしまった天井を眺めること五秒。深呼吸をしてから身体を起こし、ぐっと伸びをしてカーテンを開ける。射し込んでくる朝日を全身で浴びると、胸の中に渦巻いていた負の感情が少しだけ和らいだ気がした。
家族、居場所、これまで信じてきた世界の全てを失ってから半月が経った。
「……着替えるか」
敢えて思考を口に出して身体を動かす。そうしないと折角薄れた激情に呑まれそうだった。
クローゼットを開ける。開くたびに中身が増えている気がするそこは、居候であるはずの総士の物で埋め尽くされている。この家に住んでいるのは女性だけなので、総士のためだけに調達してきてくれているのだ。
「総士ってばー!」
「っ、起きてる! 今着替えてるところだ!」
再度呼びかけてきた声に思わず大声を出してしまったが、返ってきたのは「ご飯冷めちゃうから急いでね」なんて呑気な言葉だったので拍子抜けしてしまった。とは言えこれ以上急かされるのは御免なので、一番近くにあった爽やかなライトグリーンのTシャツを取り手早く着替える。初めて見るものだが相変わらずサイズがぴったりでちょっとだけ怖い。誰にも身長を伝えてなんかいないし、ましてや一緒に服を買いに行ったりもしてないのに、どうやって総士の身体に合う服を選んでくるのだろう。寝ている間に身体測定でもされてるんじゃないだろうか。浮かんだ考えを即座に否定する。そういうことをする人たちには見えなかった。もしかしたら目視だけで身長を測れる人物がいるのかもしれない。
「総士ー? まだー?」
沈みかけた思考が三度目の声に引き上げられる。これ以上待たせたら部屋まで来そうな気がしたので、リビングへと急ぐことにした。
「あ、やっときた。遅いよ総士!」
「君がせっかち過ぎるだけじゃないのか」
「そんなことないもん!」
顔を洗ってからリビングへと向かうと、同い年くらい――本人曰く総士より年上らしい――の少女、日野美羽が声をかけてきた。朝から元気がいいことだと半ば感心しながら見渡した食卓はすでに配膳が済んでいて、確かに遅かったなと反省する。それを感じ取ったのか、呆れたような顔をしていたはずの美羽が笑顔を浮かべて総士の椅子を引いた。
「早く食べよう?」
「……ありがとう」
大人しく席についた総士に満足したのか、嬉しそうに笑った美羽もまた席につく。出会ったときから思っていることだが、何故彼女は何かにつけてやたらと構ってくるのだろう。マリスだってここまでお節介ではなかった。
「………」
自然と浮かんだ親友の顔が掻き消える。心の内に冷え切った重石が落とされたような感覚がして、無意識にTシャツの胸元を手でくしゃりと握り締めた。
今頃どうしているのだろう。島が壊されて無事でいるのだろうか。総士のことを心配してはいないだろうか。あんな、化け物たちの中に、いて―――
「総士?」
―――化け物だったのは、あの場にいた人たちだけか? 他の人たちは? マリスは違うという確証が、どこにある?
頭の奥に鈍い痛みが生じ、じわじわと全体に広がって段々と思考すら儘ならなくなってくる。それ以上考えるなと本能が警告を出しているような、そんな感覚。
「総士くん」
静かな声に名を呼ばれ、はっと我に返る。顔を上げると、声と同様に静かな表情をしている遠見真矢がすぐ傍に立っていた。
「おはよう」
「……お、はよう、ござい、ます……」
「何飲む?」
「あ……紅茶、で……」
未だ胸の内に渦巻く不快感が背筋を冷やす。振り払うように何とか言葉を返すと、真矢は冬の夜空のように透き通った目を細めて頷いた。
「ちょっと待ってて。先に食べてていいよ。美羽ちゃんも」
「え、美羽も手伝うよ」
「食べたら出かけるんでしょ? 私はそんなに時間かからないから」
「そっか」
じゃあ、と言って美羽が手を合わせてこちらを見てくる。意図を察して、総士もおずおずと手を合わせた。
「いただきます」
***
「いい加減どこに向かってるか教えたらどうだ」
「だから、ついてからのお楽しみだってば」
ずんずんと歩いていく美羽の背中に何度目になるか分からない問いを投げるが、これまた何度目か分からない答えが返ってくる。朝食を食べ終えてひと休みしたと思ったら問答無用で連れ出されたのだ、行き先を聞く権利くらいはあると思うのだが。
「ほんとはどこか分かってるんでしょ」
総士の少し後ろを歩いている真矢がため息を吐く。うぐ、と情けない声が漏れた。図星を突かれては黙り込むしかない。
海沿いの道。開けた視界の、今はまだ遥か先にある一軒家のような喫茶店。楽園を名に冠するそこは、店名の通りこの島に住む人間たちの憩いの場らしい。だが、総士にとっては違う。
あそこには妹の仇がいる。そしてもう一人、出来れば顔を合わせたくない人物がいる。
大人しくついていく必要なんてない。ここで踵を返してどこへなりとも走り出せばいいだけだ。頭では分かっているのに、何故だかそれが出来ない。
最初にあの店で真壁一騎と会ったときもそうだった。湧き上がってきた激情に任せて店から出ようとしたのに、足がその場に縫い付けられたように動かなかった。そうこうしている内にカウンター席に通され、嬉しそうに微笑む一騎にジュースを出されて、仕方無く飲んでいたところで―――その男に出会ったのだ。
「………」
男の顔が脳裏に浮かび、反射的に左目を手で押さえる。胸がざわつくのは嫌悪感か、はたまた好奇心か、総士自身にも分からなかった。
「あんまり意識しなくていいと思うよ」
隣に並んだ真矢がこちらを見ずに言った。総士が何を考えているのか見通したような言葉には気遣わしげな響きがこもっていて、ざわめいていた心がゆっくりと凪いでいく。ふっ、と小さく息を吐いてから感謝を伝えると「お礼を言われるようなこと言ってない」と真矢が笑った。
彼女にしては珍しい、気の緩んだ笑い方だった。
軽やかなドアベルの音が店内に響き、視線が一斉に入口に集まる。ちょっとした圧すら感じるのは従業員が皆人間ではないからだろうか。毎回のことなのになかなか慣れない。
「こんにちはー!」
そんな空気をものともせず、美羽は〈楽園〉へと足を踏み入れた。怖いものがないのか、こいつ。
呆れ半分感心半分といった気持ちでバイトの少年と話す背中を眺めていると、二人の奥―――カウンター内にいる一騎と目が合った。
「いらっしゃい、総士」
「……無理矢理連れて来られただけだ」
「分かってるよ」
分かってるならなんでそんな嬉しそうな顔をするんだ。生じた疑問は喉の奥で絡まって言葉にはならなかった。形容し難い気持ちを拳を握ることで抑え込み、美羽を追い越して入口に近いテーブル席に座る。隣に座った美羽が抗議の声を上げているが知ったことか。ついてきただけありがたく思って欲しい。
「ご注文をどーぞ!」
美羽に負けず劣らず元気な声にうっかりそちらを向いてしまった。クリップボードとペンを持った少年、来主操が張り切った表情で立っている。早く注文を取りたくてしょうがないらしい。美羽が言うには、ここで人間のように働くことが楽しいのだという。変わったやつだ。
人間のように―――つまり、操も一騎同様人間ではない。見た目はどこからどう見ても人間なのに。だが、それは一騎も同じだ。人間と変わらない姿で、化け物のような力を使って乙姫を殺した。こいつもそういう力を持ってるに違いない。
膝の上に置いた拳をもう一度ぎゅっと握り締める。こいつらが人間のように暮らしているのに、どうして故郷の人たちは殺されなくてはならなかったのか。道理に合わない、理不尽だ。そう、今すぐに叫んでやりたい。しかし頭の片隅から冷静な思考が意味がないと囁いてくる。その通りだ。故郷も、そこに暮らしていた人たちも、もうかえっては来ないのだから。
込み上げてくる激情をやり過ごそうと更に拳に力を込める。美羽が何か言っている気がするが、まるで水中にいるかのようにぼんやりとしか聞こえない。次第に自分がどこにいるのかさえ曖昧になってきて―――不意に、ぬくもりに包まれた。
「総士」
名前を、呼ばれた。父や母を思い出すような、優しくて安心する声。どこか懐かしさすら感じる穏やかであたたかい声が、激情の波に呑まれていた総士を引き上げた。
「っは、あ……っ!」
いつの間にか詰めていた息を吐き出したせいで、空気が勢いよく流れ込んできて咽せてしまった。丸まった背中をとん、とん、と優しく撫でられる。
「大丈夫だ、総士。ゆっくり息をすればいいから」
大丈夫。その言葉を聞いた途端、胸の内を掻き乱していた激情が嘘のように霧散していった。呼吸が落ち着いたのを確認してから一度大きく息を吐き、そっと隣を見る。
「……ありが、とう」
総士が座る椅子の傍らに膝をつき、今も尚背中をさすっている一騎が軽く目を見張った。一瞬だけ逸らされたそれはすぐさま再び総士を捉え、嬉しそうに細められる。花が綻ぶような微笑みが総士に向けられる。
「もう大丈夫か?」
「……ん」
「良かった」
総士の拳を包み込んでいる手にやんわりと力が込められた。さっき感じたぬくもりの正体は恐らくこれだ。総士より大きい、一騎の手。乙姫を殺した忌々しいそれを振り払えないのは、触れ合ったところから伝わってくるじんわりとしたぬくもりが心地良いと思ってしまったからだ。
もう少し、このままでいてもいいだろうか。一騎がしたことを忘れるつもりも許すつもりも無いけれど、今だけは―――
「あまりそいつを甘やかすな、一騎」
鋭い声が総士の思考と店の空気を凍り付かせた。びくりと肩を跳ねさせた総士は、苦虫を噛み潰したような顔で声がした方を睨む。
五つあるカウンター席、その一番右側。敢えて視界に入れないようにしていた場所に座っている男が、半身の姿勢でこちらを見ていた。総士と同じ色の髪の間から覗く、総士と同じ色の左目。そこに、総士にはない傷がある。
「別に甘やかしてないだろ」
「ほう、自覚がないのか。どうやらお前も甘やかされていたらしいな」
「どういう意味だよ」
総士には常に穏やかで優しく接する一騎の声に多彩な感情が滲む。不満そうな言葉に反してどこか楽しそうに見えるのは、きっと気のせいではない。
「その辺にしなよ、二人とも。いつまで美羽ちゃんと遠見を待たせるつもり?」
「む……そうだな」
「ごめん」
ここまで流れを静観していたマスターの青年、春日井甲洋の言葉で場の空気が一気に変わる。大丈夫だよと揃って笑った美羽と真矢が何を注文するか相談しはじめても、総士は男から目が離せなかった。視線を感じているだろう男は、しかし総士を一瞥しただけですぐさま一騎へと目を向ける。
「一騎、お代わりをもらえるだろうか」
「ん、すぐ淹れるよ」
立ち上がった一騎の手が離れる。一瞬、本当に一瞬だけ名残惜しく感じてしまって、自分のことながら混乱した。そんな総士の心の内を知ってか知らずか、一騎がぽふっと頭を撫でてくる。その顔に浮かぶのは、やはり穏やかな微笑みだった。
「ゆっくりしていけよ、総士」
「……ああ」
頷いたのを見届けて、今度こそ一騎が離れていく。そのままカウンター席に座る男の傍へ歩いていき、楽しげに言葉を交わしはじめた。
「総士、決まった? ……総士?」
「っ、すまない、すぐに決める」
「今日のおすすめは一騎カレーだよ!」
「操、いっつもそれおすすめしてない?」
「だって美味しいんだもん!」
自分たちしか客がいないのが嘘のように店内が騒がしくなる。まるで子どものようにはしゃぐ美羽と操に毒気を抜かれた総士は、肩の力を抜くとメニュー表と睨めっこをはじめた。
自分の感情だからといって全てを正しく理解できるわけではない。分からないことがあったってしょうがない。そうやって強引に納得することにした。そうしなければやっていられない。原因の一端があの男である以上、考えたって答えなど出ないのだから。
メニュー表を置いて顔を上げる。注文を伝えようとした総士の耳に一騎の声が聞こえてきた。それなりの喧騒の間隙を縫って、その言葉だけが。
「お待たせ、総士」
ここに来てから何度目かになる名前を一騎が口にする。同じ音なのに、そこに籠る響きが全然違うから、呼ばれているのが自分ではないとはっきり分かる。
「ありがとう、一騎」
思わず向けてしまった視線の先で笑っている男の名は皆城総士。左目を抉るように走る傷を除いて、総士と何もかもが瓜二つの青年だった。