逆光 その人は、まるで太陽だった。
***
「出来ましたー!」
可能な限り元気良く叫ぶと、テントの方が賑わったのが気配でわかった。歓声に掻き消されないようにか、あるいはこちらに負けたくなかったのか、投げた声より遥かに元気な返事が飛んでくる。
「暉くんも広登くんも元気だねぇ」
「俺たちが暗い顔してたら、みんなが気にするので」
くすくすと笑う真矢から食器を受け取り、湯気が立つスープを溢さないように入れていく。あまり入れ過ぎると全員に行き渡らないので分量にも気を配らなくてはならない。せめて小さい子どもたちにはお腹いっぱい食べて欲しいのだが、そうも言っていられない状況が心苦しかった。
この旅がはじまって今日で何日になるのだろう。島を出るときから覚悟を決めていたはずだが、現実はそれを容易く上回ってくる。平穏を求める大航路は終わりの見えない旅路だった。いつフェストゥムの襲来があるか知れない緊張感、人々を守り切れるのかという不安。きちんと立っているつもりの地面は、気を抜けば呆気なく崩れてしまいそうなほど脆く感じた。それでも、心強い先輩が駆け付けてくれてからは少しばかり余裕が出来た。
そんなある日の昼下がりだった。暉がその少年と出会ったのは。
「……何してるんだ?」
たまたま通りかかった岩場。複数の岩によって出来た窪みに、白い人影がうずくまっていた。フードを目深に被っているせいで顔は見えないが、背格好を見るに暉より年下だろう。
声を掛けられたことに驚いたのか、人影はびくっと跳ねたかと思うとそのまま微動だにしなくなった。岩に擬態しているつもりなのだろうか。今更そんなことをしたって、見て見ぬふりをするわけがないのに。
「ご飯は? もう食べたのか?」
返答はない。予想の範囲内だ。それに、答えは聞くまでもなかった。
身を包む白い装束はエスペラントのものであり、多くのエスペラントは一団となって行動している。彼らが食事を受け取りに来たのは暉がここを通る少し前のことだ。ざっと辺りを見回しても食器は見当たらない。
息をひとつ吐いた暉は、人影に近づくと手に持っていた食器とスプーンをそっと置いた。料理を仕上げて早々何処かに行ってしまった一騎に届けようと持って来ていたのだが、それは取りに戻ればいいだけだ。
もぞ、と人影が動き、フードから覗く隙間が少しだけ大きくなる。まだ顔は見えないままだが、全身でどういうつもりかと問い掛けて来ていた。
「食べないと体力持たないだろ。全部じゃなくていいから」
益々困惑したような気配が伝わってきたが気づかないふりをして立ち上がった。恐らく暉がいる限りフードを取らないだろうし、そうなると食べるのは難しい。どうしてこんなところにいるのか聞きたい気持ちはあるが、誰だってひとりになりたいときくらいあるだろう。
「鍋とかあるテントあるだろ? そこに持って来てくれたらいいから。火傷しないようにな」
それだけ言って踵を返す。エスペラントのことだし、あとで美羽に話を聞いてみよう。そんなことを考えながら、配膳テントを目指して足を早めた。
「変わってますね」
少年が初めて口を聞いたのは、彼に食事を届ける回数が片手で数えられなくなった頃だった。まさか話しかけられるとは思ってなかったから、ちょっとだけ返事が遅れた。
「なにが?」
「あなたが。……こんな大勢いるのに、わざわざひとりを探して食事を届けるなんて、変わってます」
少年は言葉と共にため息を吐いた。呆れている、というよりは心底理解できない、という顔だ。
二回目はあれから数日後の夜だった。これまた偶然通りかかった岩影に座り込んでいる少年を見つけ、慌てて食事を取りに戻った。その翌朝に二人分の食器を持って彼を探したのが三回目。彼がフードを取ってくれたのは五回目だったか。
確かに、他の人が相手だったらこんなことはしなかったかもしれない。もしくは、広登や一騎に相談して、任せていたかもしれない。
「だってお前、放っておいてほしいって感じじゃなかったし」
「……どういうことですか?」
「うーん……うまく言えないんだけどさ」
こればっかりは直感という言葉でしか説明できない。双子の姉ならば、あるいは暉の言いたいことを分かってくれるだろうか。ただただ「そう思った」だけの、根拠のない確信を。
「なんとなく、寂しそうに見えたんだよ」
少年の瞳が大きく見開かれ、今まで見たことがないくらい揺れる。踏み込みすぎただろうか。不安になって声を掛けようとしたが、暉が口を開くより先に少年が言葉を紡いだ。
「……名前、教えてください」
幽かな声は少し震えていた。少年が歩み寄ってくれたことが嬉しくて、胸の奥が熱くなって、暉の声も震えそうだった。
「西尾暉」
「あきら、さん」
「お前は?」
当たり前のように聞き返したのだが、少年はびっくりしたように動きを止め、少ししてから絞り出すように答えた。
「……マリス。マリス・エクセルシア」
***
変な人。それが、西尾暉という人物に対して最初に抱いた印象だった。
当初からかなり減ったとはいえ、果ての無い荒野を進む行列には未だ何千という人間がいる。それなのにたったひとりの、しかも面識もない自分なんかを気にかけるなんて理解できなかった。エスペラントが減ると困るからなのかと身構えたが、どうやらそうでもないらしい。
暉はマリスに何も求めなかった。お礼はもちろん、投げかけてくる言葉に対する返事すら。答えようと思えばできるだけの間を置きながらも、マリスが何も言わなくても気にした風もなく話を続けた。
内容は取り留めのないものばかりだった。昼であれば前の日に、夜であればその日にあったことを。日記を書くみたいに、けれど感じたまま素直に話すものだから、まるで暉の過ごした時間を追体験している気分だった。
広登、一騎先輩、遠見先輩、総士先輩、溝口さん、美羽ちゃん。飛び交う名前はすっかりマリスにとっても馴染みのあるものになってしまって、話したことなんかないのに一方的に知り合いになった気にさせた。
回数を重ねていく内にマリスから話を振ることも増えてきた。とは言っても、他人に話せるような楽しいことなんてマリスの人生には無く、基本的には暉や彼の周りにいる人たちへの質問ばかりだった。何を聞いても暉は嫌な顔せず答えてくれた。むしろ、マリスが自分たちに興味を持つことを喜んでいた。何が嬉しいのかマリスには全然分からなかったけれど、暉が笑ってくれるならそれでいいかと深く考えなかった。
ところが、ある日を境に暉はマリスのところへ来なくなった。それまでにも何日か来なかったことはあったし、戦況が刻々と変っているのはマリスも分かっていたから仕方ないと思っていたが、十日も来ないとなればさすがに心配になる。
待っていてもだめだと思った。ただの勘だったが、一度そう思ったら居ても立っても居られなくなった。両親を失ってからはじめて、自分の意思で他人に関わろうと思った。
暉が身につけていた服を思い出し、それを頼りに声を掛けやすそうな人を探す。程なくして、大きな鍋があるテントに暉と同じ服を着た青年がいるのを見つけた。なんとなく名前は分かったが、さすがに呼ぶ勇気はない。
「あ、あの……」
鍋をかき回していた青年が手を止めてこちらを見る。そして優しそうな顔に柔らかな笑みを浮かべた。
「どうした?」
「……暉さん、知りませんか。ここのところずっと会ってなくて……」
後から思えばもう少し言い様があった気がする。名乗りもせず、言いたいことだけを端的に伝えてしまった。だが、青年は何かに気づいたように目を瞠り、痛みを堪えるように微笑んだ。
「そうか、お前がマリスか」
「え……?」
「お前のこと、暉からよく聞いてるよ」
一瞬、思考が止まった。何を言われてるか分からなかった。マリスも暉の口から彼らのことを聞いているのだから、逆も有り得ない話ではない。でも、話して何になる? そんな価値なんて自分には―――
「はい」
声と共に目の前に二つの食器が差し出された。美味しそうな匂いを漂わせている中身は恐らく、みんなが『一騎カレー』と呼んでいるもの。
「暉、まだ飯食ってないから届けてくれるか? あっちの方にいると思うから」
「え……っと……、……わかりました」
まとまらない思考はそのままに食器を受け取る。じんわりとしたあたたかさに、ほんの少しだけ心が安らいだ。中身を溢さないようにぺこっとお辞儀をして、青年が指し示した方へと歩き出す。そんなマリスの背中に、柔らかな声が飛んでくる。
「暉のこと、頼んだ」
その一言で確信した。暉に、何かあったのだと。
暉は存外分かりやすいところにいた。もしかしたら聞かなくても歩き回っていれば自力で見つけられたかもしれない。それくらい分かりやすいところにいて尚、彼はひとりだった。それもそのはずだ。彼の背中が、纏う空気が、近寄ることを拒んでいるのだから。
ファフナーのパイロットが拐われた。そんな話が、ここまでの道すがら聞こえてきた。話の内容とさっきの青年の反応から、拐われたのが誰なのかも大体予想がついた。
「ぁ……、……」
名前を呼ぼうと口を開き、音にする前に閉じる。近寄ることすら出来ずに立ち尽くす。足が竦むのは拒絶されるのが怖いからだ。
他人に踏み込まれたくない気持ちを、マリスは知っている。心が痛みを認識できないほどの悲しみに襲われ、全てとの関わりを断ちたかった。ひとりの世界に閉じこもっていれば、大切な人を失う悲しみなんて二度と味わわなくて済む。でも。
「……っ、暉、さん……!」
背中がぴくりと跳ねる。振り返った暉はひどい顔色をしていた。この距離ではよく見えないが、冷え切った目の下には隈が出来ているに違いない。
「……お前か。悪いな、ずっと行けなくて」
「あ……いや、それはいいんですけど……食事、一騎さんが暉さんにって」
「……」
息が詰まる。胸が締め付けられる。目頭が熱くなって、気を抜いたら涙が溢れてきそうだ。
この痛みは暉のものだ。元々心を開いているからだろうか、暉の激情がエスペラントであるマリスに流れ込んできている。
「ありがとな。そこ、置いといてくれ。今人と話す気分じゃないんだ」
「………ッ」
胸元を掻き毟りたくなるのを懸命に堪える。意識して呼吸を整える。一歩踏み出す。もう一歩、二歩、三歩。そして暉の近くに食器を置いたマリスは、少しの距離を空けて座り込んだ。
「……聞こえなかったのか?」
「……聞こえてます。でも、僕もまだ食べてないから」
「だから、」
「話さなくていいです」
どれだけ叱咤しても声は震えてしまう。だがそれで構わなかった。暉に届くなら、なんだっていい。
知らず、逸らしていた顔を目の前の相手に向ける。そして遮られたことに驚いている暉の目を真っ直ぐに見つめた。
「ここに、いさせてくれるだけでいいです」
「……なんでだよ」
「だって」
ひとりの世界に閉じこもっていれば何も失わずに済む。でも―――
「暉さん、寂しそうだから」
「……!」
息を飲む音がした。冷え切っていた瞳に熱が宿り、ゆらりと揺れる。
暉がばっと後ろを向いた。その背中はもうマリスを拒んではいなかった。
「……っ、う……うぅ……っ」
やがて聞こえてきた嗚咽が風に紛れて消えるまで、マリスはただそこにいた。
それから何週間も経った、ある日の朝のこと。マリスは〈楽園〉という名の喫茶店に来ていた。暉が働いている店だ。話には聞いていたが、思っていたよりもずっと綺麗であたたかい場所だった。
「お待たせしました、暉カレーです」
自信に満ちた声と共に目の前に置かれた皿から香ばしい匂いが立ち昇る。すぐに食べたくなるのを我慢して、マリスは両手を合わせた。
「いただきます」
向かいの席に座った暉がそわそわしながらじっと見つめてくるから食べにくいことこの上ない。言ったところでどうにかなるわけではないのはこれまでの経験でよく分かっているので大人しくスプーンを口に運んだ。
「……! 美味しい……!」
「だろ? だいぶ上達したよな」
「でもまだ一騎カレーの方が美味しいかな」
「一言余計なんだよお前はぁ……!」
「ったた! 感想を言っただけだろ!」
頬をつねる手を弾き落としてまたひと口。あんまりゆっくりしているとパイロットたちが来てしまう。はじめて暉の元を訪れたあの日から少しずつ他の人たちとも交流を持つようになったとは言え、大勢が集まるところにいるのは未だ得意ではない。だから暉に新作の試食を頼まれたときも、人がいない時間帯だったらと答えた。
「どうやったら一騎先輩に勝てるんだ……」
真剣な声に手が止まる。一騎はこの島にたどり着いた際の戦闘で大怪我をして眠っていると聞いた。命に別状はないが、いつ目覚めるかは分からないらしい。
「マリス? どうした?」
俯いたマリスに気づいた暉が顔を覗き込んでくる。誤魔化そうか一瞬迷ってから大人しくスプーンを置く。
「一騎さん、心配だなって」
「……大丈夫、一騎先輩は絶対に帰ってくる」
マリスの背中を叩く暉の目には一点の曇りもない。余程一騎を信頼しているのだろう。暉だけではない。一騎は色んな人から信頼されているし、それに見合う力を持っている。
「……すごい人をライバルにしたよね、暉さん」
突然話題が自分に移ったことに驚いたらしい暉は、目を二、三度瞬かせてから吹き出した。なんでそこで笑うのだろう。
ひとしきり笑った暉は、不思議そうなマリスに気づくと頭をわしゃわしゃと撫でて来た。なんだか子ども扱いされている気がする。そんなに年が離れているわけじゃないのに。
「確かに一騎さんはすごい。でも、負ける気はないよ」
そう言った暉の瞳は強い光を湛えていて、マリスは思わず目を細めた。
暉という字は太陽の光という意味だそうだ。それを聞いたときはこんなぴったりな名前をつける人がいるのかと感動してしまった。お世辞でも何でもなく、名前に負けないくらい眩しい人だと思う。
「なら、まずはカレーで超えてみたら?」
「そのつもり。だから感想頼んだぞ」
「任せて」
頷いたマリスはいつか来る未来に想いを馳せながら、今はまだ二番手に甘んじているカレーをスプーンで掬い上げた。
◇◇◇
「―――それで? 彼は真壁一騎のカレーを超えられたのかい?」
静寂を破った声にさして驚くこともなく背後を振り返る。そのまま睨みつければ、まだ見慣れない顔の青年は悪びれもなく肩を竦めた。
「勝手に読まないで」
「流れてきたんだ。随分と思い入れがあるみたいだね」
「……そういうわけじゃないよ」
形だけの否定をして、これ以上流れてしまわないように心を壁で覆う。相手はミールのコアだ、その気になればマリスの作った障壁など容易く突き崩せるだろう。分かりきったことではあるが、それでも彼との思い出に気まぐれで触れられたくはなかった。
「あの島の場所は分かりそうかい?」
「まぁね。セレノアと、この子たちのおかげで」
赤い結晶の中で眠る同胞に目を向ける。負担を掛けてしまうのは心苦しいが他に選べる道がない。協力してくれている二人に心の中で改めて礼を言って、隣に立つ共犯者を見る。
「集中したいからひとりにしてくれる?」
「分かったよ。頑張ってね、マリス」
小さく笑ったマレスペロが姿を消した。大人しく言うことを聞いてくれたのは結構だが、一体何をしに来たんだろうか。少し気になったが、今は関係ないことだと頭の片隅に追いやった。
結晶に触れて目を閉じる。程なくしてたどり着いたのはひとりの少女の夢の中。平和な頃のまま時を止めた世界。決して未来に至ることのないそこにいるのは、恩人によく似た顔の少女だ。
ぎしりと胸の奥が軋む。その音に気付かないふりをして、マリスは笑みを作った。
これは仕方ないことだ。奪われないためには奪うしかない。これでいい。どのみちもう戻れやしないのだ。
呪文のように頭の中で繰り返しながら最後の作業に入る。
「今日も暑いですね」
少女の意識がこちらに向いた。ちり、と胸の奥で火花が散る感覚。クロッシングしたときに走るこれがマリスは苦手だった。しかも強制的に介入する形で行なっているせいだろうか、今まで以上の不快感に襲われ目眩がする。
捕らえた彼女の心に触れることで島の位置を特定する。口で言うのは簡単だったが、実際やってみると思ったより堪えるものだ。さっさと終わらせて―――
「ほーんと。店にもエアコンつけたいのに、暉が嫌がんのよ。身体に悪いー、とか言ってさ」
その名を聞いた刹那、世界から音が消えた。脳裏に溢れ返りそうなった記憶に蓋をするため瞼を下ろす。真っ暗になった視界に懐かしい顔が浮かんだ気がしたが、どんな表情か認識する間もなく砕け散った。胸の奥に鈍い痛みが走る。その痛みを消し去るために、マリスは笑みを浮かべた。
「暉さんらしいな」
久しぶりに口にした名前はどこにも届くことなく霧散する。それでいい。彼に合わせる顔も、その資格も、あの島に置いてきてしまった。後悔はない。譲れない想いが、今のマリスにはあるのだから。
「電話、鳴ってますよ」
―――もう何も奪わせるものか。