『あなたの声に、惹かれる』(男漂泊者夢・全年齢)【前書き】
軽い気持ちで鳴潮をはじめたつもりなのに、
1章8幕の潮汐任務で、ショアキーパーを救う漂泊者を見て、
一晩で沼に落ちました。
漂泊者のことは、無自覚天然人たらしキャラだとは思っていましたが、画面の前のプレイヤーまでたらせとは言ってない……。
男漂泊者夢小説が読みたいあまりに、
とうとう自分でも書き始めました。
自分の読みたいエピソードばかり
詰め込みましたが、
世界中の誰か一人でも楽しんで頂ければ
良いなという気持ちで公開しています。
特に漂泊者の『無自覚天然人たらし』部分を
書くのが楽しかったです。
幅広い人に感情移入して読んで貰いやすいよう、
ヒロインの個性は控え目で、
あえて明言してない背景も多いですが、
分かる人が読んだらクスッっとなるような
"小ネタ"も少しだけ入れてあります。
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『あなたの声に、惹かれる』
【Side 漂泊者】
ラジオから声が聞こえる。お気に入りの、声。
『よし、今日のソラガイドの活躍度100は終わり。あとは何をしようか……。』
……柔らかくて優しい、どこか落ち着く声。
『この花、好きだな。金陽鳳(オオゴチョウ)』
『ここの景色、綺麗で好きかも。』
声の主の姿は見えない。
でも、あなたの声を聞いているうちに、あなたの好きな花や、
このソラリスでの好きな景色をいつの間にか覚えていった。
『だいぶダメージ受けてるね……。もう少し私が回避が上手だったら良かったんだけど。
信号塔に行って回復しよう。』
残像や他の敵との戦いの後に掛けられる、
どこかしょんぼりしたような、それでいて、
いたわるような優しい声。
ラジオから聞こえる不思議な声は、他の共鳴者達には聞こえないらしい。
何故俺だけに聞こえるのかは不思議だけど、
この声を俺だけが聞く事ができるのは、
どこか嬉しい気持ちもあった。
そんな日々が暫く続いたある日の事だった。
残像と戦っている最中に、あの声が響いた。
『あっ、後ろ!危ない!』
――ラジオからではではなく、
声が頭の中に直接反響する。
今まではそんな事無かったのに。
振り向きざまに迅刀を抜き、残像を倒す。
さっきまで残像が居たその向こう、
木のある近くの空間がぼやけていき……人の形をした何かが見える。
迅刀を構え、警戒を怠らないようにして、
その人の形をした何かをじっと見つめると、
人の形をした何かは、異国風の服を着た若い女性の姿になっていった。
「あなたは……?」
異国風の服を着た人を見つめると、
驚きと不安が入り交じった顔でこちらを見つめ、呟いた。
「ここ……どこ? 何で私はここに居るの?」
その人の声は、ラジオでいつも聞いていたあの声と、寸分違わぬ全く同じ声をしていた。
あの、いつも柔らかくて優しい声が、
今は不安で押しつぶされそうな……それでいて心細そうな声色になっている。
「ここは今州城のすぐ近くで、俺は漂泊者。
あなたは?」
安心させるように語りかけると、
彼女はポツリポツリと話し始めた。
「私の名前は――🌸です。」
「漂泊者さんのことは、……上手くは言えないのですが、実は前から知っているんです。
信じて貰えないかもしれませんが――」
話をまとめると、
彼女はソラリスの外から、それも、
俺達やソラリスが物語として登場する別の世界に住んでいること。
彼女は、ソラリスで俺達が戦っている姿を、
別の世界のデバイスのような物の画面を通して知っていたこと。
何の前触れもなく視界が暗転したと思ったら、
この世界に来ていたらしい。
世の中には沢山の平行世界があるというのは知っていたけど、
ソラリスや俺達が物語として登場する世界というのは初めて聞く世界だった。
そして――ラジオからずっと聞こえていた、
あの柔らかくて優しい、どこか落ち着く声と言葉は、
目の前に居る彼女がずっと――俺達に向けて語りかけていた言葉だった事。
――本人からは、
「独り言のようなものだから忘れて欲しい。」
……と、言われたけれど。
でも、俺はあなたの声を忘れるつもりはないし、
できる事ならもっと聞きたいと願ってしまう。
まずは、ソラリスの外の異世界から来て、
寄る辺のない彼女の此処での居場所を用意しないと。
「まずは……寝たり休んだりする場所も必要だし……、ひとまずは今州城に、来る?」
【Side 🌸】
あの日までは、どこにでもあるような何の変哲もない、でも、穏やかな日常だった。
朝起きて、仕事に行って、家に帰って。
家での一通りの用事を終えて、
夜に息抜きにゲームをするのを楽しみにしている。そんな日常。
最近やってるゲームは、綺麗な景色の中、
記憶を失った主人公……
通称、漂泊者が旅をするゲーム。
アプリを起動してゲームにログインすると、
ゲームが始める瞬間に漂泊者がこちらに手を伸ばしてくるシーンが印象的で、
同時にその金色の瞳に吸い込まれそうだと思っていた。
その日もいつもと同じようにゲームを起動して、プレイしていた。途中で漂泊者達が残像と戦っていて、あ、これは危ないな、と思った瞬間に
「あっ、後ろ!危ない!」
と、思わず独り言が出てしまった。
その時だろうか。見ていた画面の画像は揺れ、
スピーカーから聞こえてくる音も酷く割れ、
違和感を感じた瞬間にそのまま視界は暗転した。
……その間、どのくらい、意識を失っていたのだろうか。たった数分のようでもあり、長い年月のようでもあった。
目を覚ましたら、そこは自宅の部屋ではなかった。けれど、そこには見たことのある景色が広がっている。さっきまでゲームの中で見ていた今州の景色そのものだった。
一瞬、夢を見ているのかと思ったが、
草木に触れると触っている感覚もあり、風の音もかすかに聞こえる。
何故、私は此処に居るんだろう。
驚きと不安で胸が押し潰されそうになる。
怖い。帰りたい。
「あなたは……?」
――不意に声が掛けられた。
少し低くて、どこか優しさのある声。私はこの声を知っている。
俯いていた視線を上げ、声のした方を見つめると、そこにはさっきまでゲームの画面で見ていたはずの、
――漂泊者が居る。
黒い髪に黒い服、吸い込まれそうな金色の瞳が印象的な――あの人が。
「ここ……どこ? 何で私はここに居るの?」
ぽつりぽつりとここはどこなのか、私は何故ここに居るのかを尋ねる。
彼の話ではここは今州城にほど近い場所で、そして私は突然、彼の目の前にあったぼやけた空間から現れたらしい。
「私の名前は――、🌸です。」
「漂泊者さんのことは、……上手くは言えないのですが、実は前から知っているんです。
信じて貰えないかもしれませんが――」
そして『信じて貰えないかもしれないけど』と前置きした上で、私が元々どんな世界に住んでいたかを、そして元々住んでいた世界では画面越しという形で彼らを知っていたという事を説明した。
――しかし、私の家も職場も、頼れる知り合いもこの世界には居ない。
何も持たないということが、こんなに心細いなんて。
――私は、これからどうしたら良いのだろう?
再び不安に押し潰されそうになっていると、
あの――少し低いけれど、どこか優しい声が掛けられた。
「まずは……寝たり休んだりする場所も必要だし……、ひとまずは今州城に、来る?」
――何故だろう。彼の声を聞いただけで、どうしてこんなに安心してしまうのだろう?
でも、きっと私はこの声を――この言葉を一生忘れない、忘れられない……そんな気がした。
そして、この世界では何も持たない寄る辺のない私は、漂泊者に助けて貰い、まずは今州城に向かうことにした。
【Side 漂泊者】
あの後、彼女――🌸と今州城に向かい、
まずは彼女が落ち着いて休める場所をどうにかしたくて、皆で相談して今汐に状況を説明した。
今汐は、俺の住んでいる所の近くに、彼女が住むための部屋と生活に必要なものを用意してくれた。
そして今汐は、彼女の住む場所を快く用意してくれただけではなく、彼女が元の世界に戻る方法を『華胥研究院』で調べる事を約束してくれた。
――本当に今汐には頭が上がらない。
今、彼女は今汐が用意してくれている、今州城の城下町の一室で暮らしている。
彼女も元の生活していた場所から、いきなり知らない世界に放り出されて不安なのではないか。
ふと、俺も記憶を失って目が覚めて間もない頃の事を思い出した。
どうしても、あの時の不安を抱えた自分と、今の彼女を重ねて見てしまう。
そうして、俺は彼女の様子を身に、そして少しでも安心して貰えるようにと、よく彼女の部屋を訪れるようになった。
彼女の家の呼び鈴を鳴らすと、パタパタと部屋の中から足音が近付いてきて、玄関の扉を隔てて止まる。
「ええと……俺。漂泊者。今、いい?」
「漂泊者さん、今開けますから待ってて下さいね。」
ドアが開き、ドアの向こうには彼女が居た。
彼女の表情は初めて会った時に比べて、
穏やかに、そして少しだけ明るくなったような気がする。
「近くまで用事があったから、あなたの家にも寄ってみたんだ。
これ、お土産。攀花食堂の小籠包。」
「わざわざお土産まで……ありがとうございます。
……あの!もしお時間平気でしたら上がってお茶でも飲んでいって下さい。漂泊者さんから貰った小籠包、一緒に食べませんか?」
――初めて会って暫くしてから知った事だけど、
彼女――🌸は真面目で優しい人でもあった。
こうして家を訪れると快く出迎えてくれ、時間の許す限り一緒に居てくれる。
その優しさが嬉しくて、ついつい長居してしまいそうになるのだけれど。
「キッチンでお茶を淹れて来ますので、少し待ってて下さいね。」
リビングのテーブルセットの椅子に座って待っていると、彼女はキッチンに向かっていった。
彼女の家はシンプルながらも整理整頓がされており、そしてどこか少し生活感もあって、
彼女が此処で暮らしているんだなと実感する。
以前は声だけしか知らなかったあの人が
――彼女がここに居る。
柔らかくて優しい、どこか落ち着く声の持ち主。そして真面目で優しくて――知らず知らずの内に
視線で追いかけてしまう人。
しばらくすると彼女がお盆に2人分のお茶、そして小皿に盛り付けた小籠包を載せてキッチンから戻ってきた。
テーブルの上に銘々皿に載せられた小籠包と、
急須に入ったお茶とそれぞれの茶器が置かれる。
辺りがお茶と小籠包の良い香りに包まれる。
彼女は以前、今州のお茶は故郷のお茶とは少し淹れ方が違うので慣れないとは言っていたが、
彼女の淹れてくれるお茶は、美味しくてどこか優しく心の温まる味がした。
「ありがとう。お茶、とても美味しいよ。」
2人でお茶を飲み、小籠包を一緒に食べながら世間話や最近の出来事の話をする。
――華胥研究院では、
彼女がなぜこの世界に来たのか、どうやったら元の世界に戻れるのかを、相里やモルトフィー、
白芷達が主体となって調査しているが、
まだ決定的な手がかりは掴めてない事。
――少し前にリナシータという国に行ってきた事。
一緒に話していて分かったのは、彼女の元々居た世界にも今州やリナシータに似たような文化の国が存在するらしい。
ただ、彼女の元々いた世界の故郷に似た文化の国は、
――まだこちらには存在しないらしい。
「そういえば、🌸は今州に来る前から俺達の姿はデバイスのようなものの画面越しに知っているんだっけ……。何ヶ月前……いつ頃から俺達の事は知っていたんだ?」
「そうですね……今州城の近くで、漂泊者さんが秧秧さんの膝枕で目を覚ました時から、です。」
最初からじゃないか。
……そんなに前から知っていたなんて。
何か彼女に見られて気まずい事は無かっただろうかと、必死にあの時から今までの記憶を遡る。
たまに散らかってる俺の部屋とか、
だらしない寝顔とかを見られているのではないかと心配していたら、
「漂泊者さんが戦っている姿は以前からお見掛けしてましたが……、漂泊者さんが家に帰ってからのプライベートな姿などは全く見えてないですよ。ご安心下さい。」
と言われた。心底安心した。
……彼女に見られて幻滅されるような姿は極力見せたくない。彼女には、嫌われたくないと思ってしまう。
そして、今日彼女の家を訪れた目的でもある(彼女の声を聞いて姿を見たかったのも勿論あるが)、包みを取り出した。
「あの――あなたから見れば、元々住んでいた世界から突然この世界に来てしまって……。
きっと凄く心細いじゃないか、不安なんじゃないかって思う。
俺も……目が覚めたとき、それまでの記憶を全て失っていて、自分が何者なのかも分からず怖かったし……。
それであなたが――🌸がどうやったら少しでも心穏やかに過ごせるようになるか、
秧秧や熾霞にも相談したら『🌸さんが癒されるような、穏やかな気持ちになるような物を贈るのはどうでしょう?』と教えて貰ったんだ。
喜んで貰えるかどうかは分からないけど……。」
包みから黒猫のぬいぐるみを取り出し、🌸に手渡す。今州城下の土産物屋で見かけて、一緒に買い物に付き合って貰っていた(俺だと彼女の好みが分からなさそうなので一緒についてきて貰った)秧秧や熾霞に、お勧めされたぬいぐるみだ。
彼女は一瞬驚いたのち、目を輝かせながら、
「本当に、私が頂いても良いんですか……?」
と尋ねる。
「勿論だ。あなたが……🌸が少しでも心安らいでいて欲しいと思ったんだ。だから他でもない、どうかあなたに受け取って欲しい。」
そう真顔で答えると、彼女は顔に満面の笑みを浮かべて、
「ありがとうございます。大切にしますね!」
と喜んでくれた。
彼女はまじまじと俺が贈った黒猫のぬいぐるみを見つめると、この黒猫の瞳、金色なんですね、
とても可愛いです、と言っていた。
俺の贈り物が彼女にとても喜んで貰えて、嬉しかった。ぬいぐるみって良いよな。
俺もグルッポのぬいぐるみが家にあって、疲れた時にはぎゅっぎゅっと抱きしめたりしてるし。
――彼女の嬉しそうな笑顔を見ていると、
俺もとても嬉しくなる。
今日のような幸せで穏やかな時間がずっと続けば良いのにと、心のどこかでそう願ってしまう。
いつかは彼女は元の世界に帰る身で、彼女自身も帰りたがっているはずなのに。
いつか彼女が元の世界に帰るその日を考えた時、ふいに胸のどこかがチクリと痛んだような気がした。
「ごめん、少し長居しすぎたかな。そろそろ帰るよ。今日は、🌸と一緒に居られて楽しかった。」
「こちらこそ、漂泊者さんと沢山お話できた上に、こんな素敵な贈り物まで頂いて……。今日は本当にありがとうございました。」
夕暮れ時。日も傾き、夜が近付き部屋が暗くなる。🌸は部屋の明かりを付けて、玄関まで見送ってくれた。
「また、お時間のある時にでも、いつでも遊びに来てくださいね。
漂泊者さんもお忙しいと思うので、あまり無理を言ってはいけないとは思っているのですが……。
漂泊者さんと一緒に過ごしている時間は、優しくて穏やかで……どこか落ち着くんです。」
「ありがとう。俺もあなたと……🌸と一緒に過ごす時間が、凄く楽しい。また、会いに来るよ。」
彼女が玄関のドアを閉めるのを見届けてから、俺も自分の部屋に帰る。
――そして、その日の夜は、眠れなかった。
***
それから数日後、俺は『華胥研究院』の白芷に会いに来ていた。
俺の体は特異な体質で街の医者では分からない事も多いので、何か異常を感じたら、
『華胥研究院』に来るように以前から言われていた。
――最近、俺の体の具合がどこかおかしい。
――🌸の事を考えていると、胸が締め付けられるような……かすかな苦しさのような、痛みのようなものを感じることがある。
――他の人には今まで感じたことのない、痛み。
🌸は異世界からソラリスに来たという、他の人とは違う形で今州に訪れて生活をしている。
もしかして、音や周波数の影響なのだろうか?
白芷の問診を受け、話をしながら白芷はバイタルを取ってデータを見ながら……こう、告げた。
「あなたのその気持ちは、恋……と言われるものじゃないかしら?」
――"恋"?
俺は、過去の記憶を失った状態で意識を取り戻したあの日から、"恋"というものに触れたことがなかった。
街で仲睦まじい夫婦や恋人達を見掛けても、
仲間に勧められた恋愛小説を読んでも、
誰かに切ないほど焦がれるその気持ちが分からなかった。
「平常時のあなたと、🌸さんの事を考えて話して貰った時では脈拍数・顔の紅潮……などの明らかな違いがあった。でもこれは病気でもなければ周波数の問題でもない。
――貴方の気持ちの問題なの。
漂泊者。貴方は、きっと初めて体験した"恋"という感情に戸惑っているんだと思う。でも、これは誰もが体験することだから。
貴方自身がその感情に、上手く折り合いをつけられるように、参考になる書籍も幾つか貸しておくわ。これは私からの宿題。
……貴方も、🌸さんもお互いが傷付かないようにする為の、宿題よ。」
そう言って白芷は、10代の青少年向けに書かれた恋愛小説と、"思春期になって身体や心の変化を迎える子供達"を対象にした本を渡してくれた。
――俺は自分では、成人した大人だとずっと思っていたけど、現実には"恋"というものを、何ひとつ知らなかった。
これから勉強していけ、ということなのだろう。
その白芷の思いやりと気遣いに感謝した。
「ありがとう、白芷。白芷に相談して本当に良かった。本は、大切にしっかり読ませて貰うよ。」
白芷は、本は俺が納得するまでしっかり読んで、それから返してくれれば良い、返すのはいつでもいいと言ってくれた。
『華胥研究院』を出ると、もうすぐ宵を迎えようとしていた。
西の地平線には夕焼けと今にも沈みそうな太陽、そして東の空は青色の濃い瞑色に染まっている。
部屋に帰る前に、家の食材を補充しようと馬和雑貨店に向かった。
「こんばんは、漂泊者さん。漂泊者さんも今からお買い物ですか?」
「🌸、こんばんは。そろそろ家の食材が少なくなってきたから、買いに来たんだ。」
馬和雑貨店に行くと、🌸が居た。
話を聞くと、彼女も家の食材が減ってきて、食材が必要になったので買い物に来ていたらしい。
お互いに軽く世間話をしながら必要な物を買い終える。
「漂泊者さんは夕食はまだなんですか?」
「うん、まだだけど。これから家に帰って何か簡単に作るつもり。」
彼女は少し俯き、遠慮がちに彼女の唇が開かれる。
「あの……。もし、お時間が平気でしたら、私の家でご飯、食べていきませんか?
いつも私の事を気に掛けて心配してくれて、この間も可愛いぬいぐるみを贈ってくれて……。
漂泊者さんのお気持ちが本当に、嬉しいんです。
だから、何か、ささやかでもお返しがしたいんです。
……すみません、やっぱり迷惑ですよね?
漂泊者さんだってお忙しいでしょうし、
私の家に来るより他にもやりたい事もあるでしょうし、漂泊者さんのお気持ちも考えず……。」
「そんなことない!むしろ🌸の家で過ごす時間は楽しいし、とても落ち着くし……。夕食、食べに行っても良いかな?
俺、🌸の作ったご飯食べたい。」
……思わず、本音がだだ漏れになってしまった。
恥ずかしい。
顔に熱が集まってゆくのを感じる。
きっと今の俺の顔は赤いんだろう。
でも、彼女の家に行くのが嫌だなんて一度も思った事はないし、むしろ何かと理由を付けて彼女の家を訪れるのは、『彼女が心配だから』だけじゃない。
彼女と一緒に過ごす優しくて穏やかな時間が好きで、そして何よりも――彼女に会いたいからだ。
彼女はそんな俺を見つめると、
「……ありがとうございます。お口に合うかどうかは分かりませんが、頑張って作りますから。」
そう、嬉しそうに微笑んだ。
俺達は途中まで一緒に帰り、
俺は彼女と一旦別れ、自分の家に戻って買った食材を冷蔵庫に入れると、すぐに彼女の家に向かった。
彼女の家に行き、玄関で出迎えられると、
キッチンの方からは美味しそうな香りがする。
料理を手伝おうとしたら「お客様に料理を手伝って貰うのは私が申し訳ないので」と丁重に断られてしまったので、リビングのテーブルセットで待つことにした。
リビングに向かう途中、ドアが開けっ放しになっていた彼女の寝室をうっかり見てしまったので、慌てて視線を逸らす。
彼女にも、プライベートな……他人に見られて困るものもあるだろうし。その、洗濯物とか。
――でも、見えてしまった。
彼女のベッドの枕元、それも枕のすぐ傍らに、
以前俺が贈った黒猫のぬいぐるみが置いてあるのを。
大事にしてくれていて嬉しい反面、🌸と一緒に寝ているのかあのぬいぐるみ……と何だか不思議な、少しだけ羨ましい気持ちになってしまった。
「お待たせしました。漂泊者さんのお口に合えば良いんですけど……。良かったら召し上がってください。」
キッチンから戻ってきた🌸が次々と二人分の夕食をお盆に載せて運んでくる。
彩りもよく、とても美味しそうな匂いがする。
見慣れない料理もあったので尋ねると、それは彼女が元々居た世界で日常的に食べていた料理らしい。彼女の故郷では、素材の味や新鮮さを生かす料理が人気があるそうだ。
「とても美味しい。見た目も彩りも良くて、料理を見ているだけでも綺麗だ。」
「私が住んでいたところでは、家庭料理として日常的に食べている料理なんです。
今州城に来てから色々な料理を食べてますけど、やっぱり故郷の――元々居た世界での料理は時々恋しくなるんです。
なので、材料がこちらでも手に入るもの、代用できる料理は時々作って食べているんです。」
――彼女もいきなり元の世界から切り離されて、元の世界が恋しくなるのは当たり前だよな……としみじみと考える。
それでも、故郷の事を忘れず、今この場所で前を向いて生きている彼女は――立派だと思った。
彼女の料理は、優しい味で温かい気持ちになる味で、何だか彼女らしいなと思った。
美味しくて、優しくて、温かい気持ちになれる味。俺にとっては――幸せの味。
「どれも美味しいけど、特にこのスープが俺は好きだな。初めて食べる味だけど、どこか懐かしさを感じるような、とても優しくて……温かい気持ちになれる味。
それはきっとあなたが――🌸が、作ってくれたからだと思うけど……。
――毎日でもあなたが――🌸が作ってくれたこのスープを飲みたい位だ。」
急に彼女の箸が止まり、彼女の頬が真っ赤に染まってゆく。頬だけじゃなく、耳まで赤い。
――何か、変な事を言ってしまったのだろうか?
そうだよな、『毎日あなたの料理を食べたい』って言われても🌸だって困るよな。
「ごめん、一緒に暮らしてる家族でもないのに、"毎日料理を食べたい"なんて言われたら困るよな。」
「あ、いえ……毎日でも食べたい位に気に入って貰えたなら私も……嬉しいです。
その、もし漂泊者さんがそのスープを、気に入って下さったなら、家に来た時に言って下されば作りますよ。
……こうやって、私の料理を食べて美味しいと言ってくれるの……本当に、嬉しいんです。」
彼女は頬を染め――どこか少しだけ嬉しそうな、はにかむような笑顔をしていた。
彼女が元々居た世界では、彼女の料理を美味しいと言ってくれる人は、少なかったのだろうか。
こんなに美味しいのに。
彼女の美味しい手料理を毎日食べられる人が、もしこの世に居るのなら、とても羨ましい――そう思ってしまうのに。
「……そういえば、漂泊者さん。先日贈って頂いたぬいぐるみ、大切にしています。本当に、ありがとうございます。」
「そうか。俺も、喜んで貰えたなら嬉しいよ。」
前にあげた黒猫のぬいぐるみ、喜んで貰えたようだ。良かった。
――さっき彼女の寝室をうっかり見てしまい、彼女のベッドの枕元すぐ傍に黒猫のぬいぐるみがあるのを見つけてしまったのは……今は黙っておこう。
そして、彼女は続ける。
「あの黒猫のぬいぐるみを見ていると、何だか穏やかな気持ちになって癒されるのと同時に、心強くて、どこか励まされてるような気持ちになるんです。
だから、いつも枕元に置いてて……心細くなったりした時は抱きしめて寝る時もあるんです。」
「えっ、すっごく可愛……いや、何でもない。」
え、何それ凄く可愛い。
黒猫のぬいぐるみが、じゃなくて🌸が。
……というか俺のあげた黒猫のぬいぐるみ、毎日🌸と寝て、時には……抱きしめられてるんだ。
正直に言うとぬいぐるみが少し……羨ましい。
「ぬいぐるみを抱きしめて寝てる時もあるなんて、漂泊者さんから見れば少し子供っぽいと思われるかもしれませんが……。
漂泊者さんが贈ってくれたぬいぐるみだから、傍にいると何だか漂泊者さんに励まして貰っているような、それでいて、支えて貰っているような気持ちになるんです。
それに、黒猫のぬいぐるみの金色の瞳を見ていると何だか……漂泊者さんの優しくて温かい金色の瞳のようで、嬉しくなるんです。」
彼女は頬を染め、嬉しそうに伝える。
そして彼女の言葉に、俺も嬉しくて……それと同時にどこか面映ゆく、そして少しだけきゅっと胸が締めつけられるような気持ちになる。
――早まる俺の鼓動。頬が熱い。
――もしも目の前に鏡があったら、きっと俺の顔は真っ赤になっているんだろうと思いながら。
「そ、そうなんだ。俺が居ないときもそうやって、俺の事を考えていてくれるのは――正直に言うと……凄く嬉しい。
――でも、辛いときや心細いときはぬいぐるみだけじゃなくて、もっと俺を頼って欲しい。
――俺を、見て。」
そして、自分の気持ちを正直に伝える。
「最初は、突然ソラリスに来て慣れない生活をしているあなたが――🌸の事が心配で、どうしたら少しでもあなたが心穏やかに生活できるだろうかと思って、あなたの家を訪ねていたんだ。
――でも、いつの頃からだろう、俺にとっても🌸と会えるこの時間が嬉しく待ち遠しくなった。
一緒に過ごしている時に聴く、
柔らかく優しくて……どこか落ち着く🌸の声が。🌸が俺だけに見せてくれる表情が。🌸の優しさが。
――🌸の傍に居るこの時間が、俺にとってかけがえのない大切な時間になっていったんだ。
他の誰でもない――あなたでないと、駄目なんだ。
だから、あなたが――🌸が、もし嫌じゃなかったら、あなたに会いたい。これからもずっと一緒に居たい。……駄目かな?」
ありったけの気持ちを、思いの丈を打ち明ける。
――どうか伝わってくれ、この想い。
一瞬、辺りが静寂に包まれる。
彼女には、俺のこの気持ちは重すぎただろうか、迷惑だっただろうかと不安になっていると、
そっと俺の手の上に彼女の手が重ねられる。
そして、彼女の柔らかそうな唇が少し開き、優しく言葉を紡ぐ。
「漂泊者さん。私は突然この世界に、ソラリスに来た時は不安で怖くて……すぐにでも元の世界に帰りたかったのを覚えています。
でも初めて貴方に会って助けられた時、貴方の声を聞いて……貴方の優しさに触れた時、貴方の事を一生忘れられない……そんな気がしました。
そして、その後も私を心配して度々家を訪ねて来てくれる漂泊者さんのことが、いつしか待ち遠しくなっていたんです。
漂泊者さんはお忙しいから、沢山の人に慕われている方だからご無理を言ってはいけない……そう思いつつ、漂泊者さんが傍に居る、この家で二人で過ごす優しくて温かい時間が、大切な宝物になっていました。」
彼女は真剣な眼差しで言葉を続ける。
「そして――もし、このソラリスから元の世界に戻る方法が見つかったら、私は元の世界に帰るんだ――そう思って、今までずっとそれを願ってました。
でも今は、漂泊者さんの傍に居る嬉しさを、心地よさを知ってしまって――元の世界に帰るのが名残惜しい、漂泊者さんと離れがたい、そう思ってしまうんです。
漂泊者さん――どうか、傍に居て。
私だけが漂泊者さんに助けられるのではなく、
漂泊者さんにとっても、私自身が、この家が貴方の心安らぐ場所であり、寄る辺になれたら嬉しいんです。」
まさか。
彼女も。
傍に居たい気持ちは、同じだったなんて。
これは――夢なのだろうか?
夢なのか現実なのかを確かめるように、
触れた彼女の手にそっと触れ、握り返す。
🌸の手は――柔らかくて温かくて心地よい。
――夢じゃ、ないんだ。
「――夢じゃ、ないですよ。漂泊者さん。」
まるで俺の思いを見透かすかのように、彼女は優しく微笑む。
「もし夢だったら……私は――漂泊者さんが私に話し掛けてくれる優しい声も、私と話している時にたまに見せる照れたような表情も、
……そして、漂泊者さんの手がこんなに温かいのも――知らなかった筈ですから。」
🌸の手が優しく、俺の手に握られたまま、互いに触れ合う。
――俺達の未来がどうなるかは分からない。
いつか彼女がソラリスを去り、元の世界に帰ってしまうかもしれない。
でも、今だけは。どうか、このままで。
🌸の傍に居る、この穏やかな優しい時間を
今は、大切にしたい。
どうか、この大切な時間が――続きますように。
END