夏に至る扉 立海大附属中の校舎の中、照明を受け鈍く銀色の光を跳ね返すエレベーターの扉は、通り過ぎる者の注意を引く。独特のものものしさと静けさを放っていた。
例外的に、学校行事などで重たい荷物の運搬に使用されることを知ってはいたが、本来は階段を上るのが困難な者や教職員のための乗り物であり、テニス部の自分には縁がないだと感じていた。
しかし俺は、一度だけそのボタンを押し、箱の内へ足を踏み入れたことがある。
中学三年の夏だった。もうじき突入する長期休暇への期待と、関門のように立ちはだかる期末テストへの焦り、そしてうんざりするほどの暑さき校内の誰もがだらしなくそわそわしていた。
かく言う俺もこれから始まる全国大会で頭をいっぱいにし、あろうことか体育で負傷した。得意科目だという自負の分、衝撃は強い。
ただのすりむけだと主張したが体育教師には認められず、渋々向かった保健室で大したことでもないのにご丁寧な手当を受け、きまりの悪さは頂点に達していた。
「どうする、このまま休んでいく?」
養護教諭がたずねてきた。チャイムが鳴るまでまだまだ時間がある。無論、俺は戻る方を選んだ。
グラウンドまでの道すがら、傷口に消毒液がしみて痛かった。情けなくてたまらなかった。スポーツをしていればこの程度のかすり傷は珍しくもなんともない。それでも、毎回痛くて毎回悔しい。明日起きたらかさぶたになっているとわかっていてもこたえた。
ふと、昇降口のそばに、傾いだからだを半分に折った学生を見つける。きちんと背を伸ばせばそれなりに背丈もありそうだが、人影はどことなく華奢だった。
奇妙に胸がざわつく。近づいて確信した。いや、はじめから頭ではなく心でわかっていたのだろう、それがやつなのだと。
気配に気づいた幸村が顔を上げた。手負いの獣が身を伏せつつも油断なくあたりを警戒する様を彷彿とさせた。顔周りの長い髪の間からのぞいた険のある眼差しが向けられる。俺を俺と認識し、途端に揺らいだ。仲間を発見した安堵ではなく、そこにあったのは恥じらいだった。
ああ、俺にはわかる。お前はそうと口には出さないが、わかる。穏やかだが誰よりも高潔なお前のことだ。ずっとそばにいた俺に、病から回復途上の弱った己をさらしたくないのだろう。
どうか寄るなと思っているのが、強く、触れられそうなほどはっきりと伝わってきた。けれど俺は無視してやつの領域に踏み込んでいく。
「おはよう」
三限も半ばになっておはようとは。幸村の笑みはひきつっていた。
「立てるか」
幸村は眉をひそめた。感情が瞳の奥で渦を巻いている。苛立ち。戸惑い。屈辱。遠慮。諦め。だが激しさは次第におさまていった。
「……じゃあ、手伝ってもらえるかな」
「お安いご用だ」
今どきそんな言い回しは流行らないと幸村は指摘し、そんなものをはなから追い求めてはおらんと俺は応じた。
腕をとって背に回そうとしたら拒まれる。
「背中と、うん、そう、肘に手を添えてくれるだけでいいから……」
指示通りにいったのを確認すると幸村はふう、と息を吐き出して歩き出した。
「保健室へ行くのだろう?」
「ううん。教室」
口から飛び出しそうになった説教をぐっと飲み込む。俺がどう言おうと幸村はもう決めているのだ。信じるほかなかった。昔からそうだ。説き伏せられるほど柔な男ではない。
「具合が悪かったのか」
「疲れてるだけだよ。リハビリがハードだから」
「そうか」
「うん、それだけ」
会話が途切れる。
「お前の方こそどうしたの」
幸村はガーゼに覆われた俺の膝小僧が気になるらしい。
「体育だ」
「服でわかるよ」
わずかに小馬鹿にしたような口ぶりだった。
「転けた」
「お前が?」
つとめてそっけない風を装う俺を、幸村はぎょっとした顔で見ていた。生傷は未だひりついたが、ほんの少し胸がすっとした。
「ハードル走で、あのまま行けば間違いなく俺が一番だった」
「それは悔しかったね」
テニスにおいて負け知らずの幸村が悔しいなどと発言することはめったにないので、しみじみしたその言葉は俺の頭でしばらくぐわんぐわんと反響した。
「ねえ、乗っちゃおうよ」
エレベーターの前で立ち止まった幸村が声を上げた。
「だって俺たち病人と怪我人だよ。権利はあるはずだ」
幸村の言いぶりはあくまでからりとして、自己卑下など微塵も存在しなかった。
「一理ある」
それに俺もずっと前から乗って見たかったのだ。
ボタンを押してからそれほどせずやって来てすうっと扉が開いた。なんてことはなかった。ごく普通の、ありふれた、ただのエレベーターだった。非日常の高揚感か期待に反する失望か、再びドアが開くまでそろって黙りこくっていた。
「ここまででいいよ。ずいぶん気分も楽になったし」
二階に降りてすぐ、幸村が言った。確かに会ったときよりはいくぶん晴れやかな顔をしていた。俺の天秤は心配と信頼で揺れた。
「まあ、うむ、しっかりやるんだぞ」
あたりさわりのない言葉をかけた俺に幸村はにやりと笑いかけた。
「お前も。今度は一番とれよ」
早歩きで(風紀委員長たるもの、校内を走るなど言語道断だ)授業に戻った俺が、最後の五十メートル走でいくつものハードルを跳び越え真っ先にゴールを切ったということは、わざわざここで述べるまでもない。