我が愛しき祝福について(或いは永遠の呪いについて) 風のない、星がよく見える夜だった。オロルンはファデイの隊長と、その部下たちと共に焚き火を囲んでいた。作戦中の束の間の休息だ。オロルンは火から離れた所で、彼らの何気ない世間話を聞くとはなしに聞きながらぼんやりと座っていた。焚き火のパチパチと爆ぜる音が耳に心地良い。世界には、この音を録音して聴くことでリラクゼーション効果を求める人たちもいるらしい。
隊員たちの話題の中心であるスネージナヤのことも、流行の歌も、何もわからないオロルンは会話に入ることができない。だが決して排除されているというわけではなく、居心地は悪くない。さっきは炎水という、初めて飲む酒も分けてもらった。強いアルコールで少し火照った頭と身体にはむしろ、賑わいを外から眺めているくらいの方が丁度いい。
この隊はオロルンがファデイという組織に抱いていたイメージに反して、落ち着いていて志が高い精鋭揃いという印象だ。これも少し離れたところでオロルンと同じように静かに座っている隊長の力なんだろうな、とちらりと視線を向けた。
遠くの山を見て、あれは何という山だったかな、僕が名前をつけるなら何だろう、と取り止めなく考えていると、さっき炎水をくれた兵士がもう一度オロルンのもとにやってきて、オロルンにグラスを持たせた。かなり出来上がっているようで、顔が真っ赤だ。周りがみんなこちらを振り向いて囃し立てている。集まった期待に応えるように注がれた透明な酒をまた一気に呷ろうとして……横からグラスを掻っ攫われた。
「そのくらいにしておけ」
いつの間にか隣に来ていた隊長はそう言うと、オロルンの代わりにグラスを空けた。今日一番の大きな歓声が上がる。オロルンは口をへの字に曲げた。子供扱いされたようで気に食わなかったのだ。
「酔ってない。もう一杯くらい平気だ。」
「炎水は口当たりがいいがかなり強い酒だ。慣れない者がこんな飲み方をするな。」
隊長はオロルンの文句をあっさりと切り捨てた。ふん、君がその気ならこっちにも考えがある。さっきの兵士が素面の時に炎水の作り方を聞いてみよう。自分で作ってしまえばお節介な年長者に止められずに好きなだけ飲めるだろう。それがまさに「子供っぽい」考えなのだが、オロルンは気づいていない。
さっきオロルンの隣に来た隊長はそのままそこに座っている。まさか、オロルンがこれ以上飲まないか見張っているのだろうか。まあ、隊長がいなくなったらこっそり飲めるかな、と考えなかったわけではないが。隊長が何も言わないので、オロルンも何も言わなかった。火と賑わいから離れて無言で座っていると、まるで二人だけが違う世界に隔離されているような気分だった。
隊員たちは家族の写真を取り出して、お互いに見せ合いながらああだこうだと話している。小さな子供をスネージナヤに置いて遥々ナタに来ている隊員も少なくないようだ。ふと、隊長に家族はいるんだろうか?と疑問に思った。どうせ聞いても個人的なことについて答えはしないだろう。いつもそうだから。
そうだ、教えてくれないなら逆に教えてみようかな。オロルンは思いつきで自分のことを話してみることにした。自己開示はコミュニケーションの基本だ。これはコミュニケーション強者のイファが言っていたことなので、まあそうなのだろう。といってもあまり部族の内部のことやシトラリのことは教えたくない。話せるのはあくまで、オロルン個人のことだ。生贄の儀式のことはもう話した。他に話せることって何だろうな、これじゃ隊長のことを薄情だと笑えないな。
「僕は、何かをしなきゃいけないって強要されることが殆ど無く生きてこれたんだ。勿論、社会で生きるためのルールとか、そういうことじゃないよ。例えば謎煙の主ではみんなウォーベンを織るのが当たり前だが、僕は魂や地脈を感知するのが得意だからそっちを頑張ればいいって見逃されるとか。みんなそれぞれ得意なことがあるが、他にこんな扱いをされている人は見たことがない。アビスから部族を護る戦いでも僕はいつも後方支援が役目で、それでもみんな自分にできることをすればいいんだって言って、誰も僕を疎んじたりしない。」
隣にいる隊長だけに聞こえればいいので、小さな声で話し始めた。別に、隊長だって聞いてなくてもいい。オロルンが話したくなったから勝手に話しているのだ。
オロルンは何とは無しに口唇を舐めた。舌にはうっすらと炎水の風味が残っている。さっき二杯目を目の前で取り上げられたせいか、なんとなく口寂しい。唾をごくりと飲み込んだ。ナタは高所にでも行かない限りは夜でもじんわりと暑く、炎水のせいもあり汗ばんだ首筋にそよ風が通り抜けると心地良い。身じろぎした足元で踏みつけられた枝がパキリと小さな音を立てた。隊長は相変わらず何も言わない。でも仮面の下からオロルンのことを見ていて、オロルンの言葉の続きを待っている。
「なんで何も強要されないかっていうと、色々な理由があるが、みんな僕に期待をしていないからだ。……いや、そういうと少し語弊があるかもしれないな。別に嫌われてるとか、どうでもいいと思われてるって言いたいわけじゃない。部族の人たちはみんな優しいよ。じいちゃんやばあちゃんたちは僕のことをすごく可愛がってくれてる。家族として一番近くに僕を受け入れてくれたのは黒曜石の老婆だが、彼女にもすごく愛されて大切にしてもらっていると思うよ。」
オロルンはポケットから御守りを取り出した。シトラリがいつも用意してくれる、特製のお守りだ。もうそろそろ宝石が古くなってきているので少し心配ではある。シトラリの元に戻るわけにはいかないが、何も成せないまま死んでは元も子もない。
「僕の魂は不完全だから、安定させるために小さい頃からいつもばあちゃんが用意してくれた御守りを持ち歩いているんだ。これがないと魂がすぐガタガタになって、結構大変なことになる。そういう感じだから、誰も口に出しては言わないけど、みんな僕は長生きしないと思ってる。僕自身もそうだ。だからみんな、優しいから、他の人より短い人生なのに苦手なことややりたくないことに時間を費やすことはないって、そう思ってる。」
酔っていないと思っていたが、気のせいだったのかもしれない。なんだか妙に口が滑らかで、言う必要のないことまで喋ってしまっている気がする。こんな話をしたら楽しい宴を台無しにしてしまう、これだから僕は変だとみんなに言われるんだ。
「あー……すまない。なんだか思っていたのと違う方向の話をしている気がする。やっぱり酔っているのかな。違う話題にしよう。」
「いや、俺は構わない。お前の話を続けてくれ。」
隊長は話すのを止めたオロルンに、オロルン自身の話の続きを促した。どうしようかと思ったが、隊長に聞く気があるならいいか、と続けることにした。自己開示だ。代わりの話題としてイファのことならまあ話してもいいか、という結論になりかけていたが、それはまたの機会にすることにした。
「贅沢な悩みだとわかっているが、それが少し息苦しかった。僕はまだ生きているけど、みんなの中の僕は半分死んでいて、人より早く辿り着くそこに向かって少しでも良い人生を歩ませてあげようって気を遣われている。全部みんなの優しさと僕への思い遣りからきているのは理解している。でも僕はいつだって一方的に与えられるだけ、優しくされるだけ、何かを返すことなんて期待されてもいないし、僕にできるのは野菜を届けることくらいだ。別に僕だってあの儀式で死ぬことが望みだったわけじゃない、でも。」
「あの儀式が成功していたら、命を失ったとしても少なくとも何もできない僕じゃなかったのにって時々思うんだ。今生きているのが一番大事で、みんなが偉大な何かになる必要はないんだって、ばあちゃんも友達も言うけど。でも僕がごく普通の元気な人間だったら、みんな僕に今みたいに接しただろうか?僕は違うと思う。」
隊長は何も口を挟まない。今は真っ直ぐ前を見ている。
「だから今、君と行動ができるのが僕は正直、嬉しい。こうしてナタのために動いているとき、僕は僕自身に期待ができる。何もできない僕をやめられたように思える。」
オロルンも焚き火を見つめながら話し終えた。二人で横並びに座って話しているのに、二人ともお互いのことは見ずに真っ直ぐ前を向いている。なんだか可笑しくなってきた。
別に隊長からのレスポンスは期待していなかったのだが、隣では何か言おうと考えている気配がする。気を遣わせただろうか。彼は炎神様と渡り合えるくらい強いくせに、驕り高ぶって普通の人間を軽んじるようなことは全く無い。こういう高潔さが人気の秘訣なんだろうな、この隊の人間は一人残らず心から彼を尊敬しているのがわかる。
儀式が成功していたら、と言ったな。隊長は前を向いたまま話し始めた。言葉を選びながら話す低い声に、この人やっぱり優しいんだろうな、とオロルンはぼんやり考えた。
「俺の目的はナタを救うことだが、地脈の修復自体はゴールではない。詳細は話せないが、もし俺がナタに来た時に既に半端に地脈が修復されていたなら、その先の目的の達成は困難だった可能性がある。お前の儀式が成功しなかったことは、俺にとっては幸運だったとも言えるだろう。まさか、直接お前自身にも助けられることになるとは数奇な巡り合わせだと思うが。」
その言葉にオロルンが思わず隊長の方に視線を向けると、頭に大きな手が伸びてきて、髪の毛をぐちゃぐちゃにかき回された。うわあ、と間抜けな声が漏れる。手はすぐに引っ込んでいった。
「自分勝手だろう。だが俺から見ればこれが真実だ。一つの成功で救われるものもあれば、救われないものもある。失敗も同じだ。結果的に何が一番良かったのかなど、最後にならなければわからない。お前の行動次第で、今からでも正解になる。」
なんとなく隊長を直視できなくて、そうかな、そうかも、とか口の中でむにゃむにゃと呟きながら目を逸らすと、興味津々という様子でこちらを伺っていた彼の部下と目が合った。慌てて白々しくそっぽを向いたが、一体何処から見ていたんだろう。ほんの一瞬頭の上にあった大きな手の存在がさっきよりも強く感じられて、顔が熱くなってきた。
◆
アビスの侵攻は増え続け、状況は加速度的に悪化していく一方だ。オロルンは隊長と行動を共にしながらも、大規模な襲撃があれば謎煙の主に帰って防衛戦に参加している。隊長はオロルンが隊を離れるのを止めもしない。行ってくる、と言えば、そうか、と返ってくるだけだ。
オロルンにとってはこの状況は少々不可解だった。地脈の再構築という方向は見つけ出したものの、それを炎神様の側に知られてしまえば当然妨害されるだろう。未だ秘源装置の遺跡は見つかっていない。地脈の位置から候補を絞り込んだのでもう時間もかからないと思うが、なにしろこちらは人数が少ないのだ。炎神様が人海戦術を使えばあっという間に追いつかれてしまう。今オロルンが計画を漏らしたら確実に成功の可能性は潰えるだろう。内通の可能性を放っておいてもいい、と言えるほど余裕のある状況ではない筈だ。
襲撃後の混乱に乗じてシトラリから逃げ果せ、隊長の元に戻ってきたオロルンは今、隊長のテントに入り込んでいた。別に何処にいてもいいのだが、彼らと行動を共にするようになった当初は常に隊長の目の届く所にいろ、と言われていたのでそのままその習慣が続いている。少しでも情報を集めたいオロルンにとってもその方が都合が良い。
最初はそれこそオロルンの監視のためという名目だった筈なのに、今はもう誰もそんなことを気にしていないように見える。何故かといえば隊長本人が気にしていないからだ。
さっきオロルンが戻って来たときも、隊員たちはおーとかようとか気さくな挨拶をしてあっさりと迎え入れ、隊長様ならあっちのテントだぞ、と指をさした。適当すぎる。
隊長のテントで詳しく部族での防衛戦の状況を説明したオロルンだったが、怪我は無いようだな、の一言で終わってそれ以上は何もなかった。
「考えないのか。実は僕が炎神様と内通しているんじゃないか、とか。僕にとってはピンとこない例えだが、あちこち飛び回って常に強い方につくようなやつを『コウモリ』と呼ぶんだろう?」
「考えない。疑って閉じ込めてほしいか?」
オロルンは肩をすくめた。部族の防衛に参加できるのは当然、有り難いことだ。止められたところで言うことなんて聞く筈もなく、煙幕でもなんでも使って飛び出したことだろう。
扱いに不満があるわけではなく、ただ隊長の意図がわからないから安心できないというだけだ。隊長はおそらくオロルンを騙して都合良く利用するようなことはしないだろう。そこが信頼できるからこそ、不可解なのだ。
隊長は資料に向かっていた顔を上げて、納得のいかない表情を浮かべてまだ立っているオロルンの方を見た。
「お前と同じことをしただけだ。お前ほどの感知能力は無いが、俺にも魂の存在を感じ取ることはできる。『魂は嘘をつかない』と、お前もそう言った。」
「君は、以前謎煙の主の巫術を使っていたな。あれはどこで覚えた?君のその体質とも関係あるのか?」
隊長はその問いにはフンと鼻を鳴らしただけで答えず、また資料に眼を落とした。無視するな。腹が立つな。
初めて隊長と会った日の出来事から推測できた情報ではあるが、ナタ人でもない隊長がそんな事までできるというのは非常に不可解だ。オロルンは体質のせいで生まれつき魂を敏感に感じ取れるが、それはかなりの特殊ケースだ。基本的には謎煙の主のシャーマン達も修行を通じてその技能を獲得する。
隊長の秘密はオロルンが思っているよりも多いようだ。オロルンは置いてあった携帯用の椅子にわざと音を立てて腰を下ろした。もしばあちゃんにこんな嫌味っぽいことをしたらきっと激怒するだろうが、隊長はそういうことで一々目くじらを立てないことはもうわかっている。寧ろちょっとくらい怒らせてみたいような気もしているのだが。
「それで?君の眼には僕の欠けた魂はどんな風に見えた?」
「こうと決めたら梃子でも曲げない、人の話も言うことも聞かない頑固者だ。」
眼を丸くしたオロルンを見て、隊長は微かに笑った。
「俺と同じだな。」
◆
「オロルン、食事だ。食べられるときにしっかり食べておけ。」
隊長に手ずから携帯食を渡された。うげ、という顔をしたオロルンに、隊長が喉を鳴らして笑う。毎度のことではあるのだが、オロルンはこの食事が苦手だった。口の中の水分が全部吸い取られて張り付くし、なかなか飲み込めないから小さいくせに食べるのに時間もかかる。腹持ちは悪くないから、こういった場面での食事には適しているのだろうけど。
最初は隊の食事の係(順番に回しているらしい)から渡されていたのだが、最近は隊長がわざわざ自分の分とオロルンの分を受け取って、オロルンに渡しに来る。食事の間もなんとなくそのまま一緒にいて、大概は無言で食べながら他の隊員の話を聞いているが、日によっては少し雑談もする。
あの宴の日がきっかけか、徐々に隊長との距離が縮まってきたように思う。この場合の距離とは、物理的な距離も含む。頭を撫でられたのはあの一度きりだが、例えばオロルンの見ているウォーベンを横から覗き込むとか、肩をポンと叩かれるとか、こうして隣で食事をするとか、最初の近寄りがたい空気からするとかなり「許されている」という感覚がある。
やっぱりコミュ強の言った通り、自己開示は有効な手段なのかもしれない。オロルンの側から壁を一つ取り払った、というのが重要なんだろう。後から考えてもあの話は少し、いやかなり、聞かされた側は困ってしまうような内容だった気もするが……。
決定的なのが、あの秘源装置の遺跡での出来事だろう。グスレッドの言った通り、隊長は千載一遇のチャンスをオロルンのために逃すことになった。最終的にオロルンが古名を継承し英雄の一人として選ばれたことで希望は繋がったわけだが、オロルンは落ち込んだ。結果がどうであれ、自分のせいで時間と手間をかけて用意してきた計画が台無しになったのだ。
隊長は別にオロルンを慰めるでもなく、これで借りはチャラだと言っただけだった。大変有難いことである。オロルンはいつでも精一杯の働きをしているつもりだが、それにしても勝手に貸しを押し付けて居座っているだけの協力者によくここまでしてくれたものだ。オロルンは旅人に隊長のことを友人と紹介したが、隊長もオロルンのことをそんなふうに思ってくれているのだろうか。
口の中ではまだ、携帯食の最初の一口目が水分を吸い続けている。遠い峰々を見つめていつまでも咀嚼を続けるオロルンに、隊長が笑み混じりの声をかけてきた。今日は随分と機嫌が良いようだ。
「そんなに不味いか?」
「不味いというのとは違う。優れた食べ物だとも思うんだ。お腹に溜まるし日持ちもする。でも、水分が少なすぎてなかなか飲み込めない。とにかく重たいんだ。そうだな……。」
勧められた水と一緒になんとか飲み下して、何か良い例えはないかな、と考えていたオロルンは不意に思いついた言葉をそのまま口に出した。
「あ。そう、例えるなら君の魂だ。ずっしりと重厚で、密度が高い。君の魂を口に含んだらこんな感じじゃないかな?」
さっきまで笑っていた隊長は突然黙り込んでしまった。あまりピンとこなかっただろうか。魂が感じ取れるとはいえ、自分の魂は見えないだろうし。オロルンも自分の魂は見えない。
「もしもコウモリが血を吸うみたいに君にガブッと噛み付いて魂を吸えるなら、一度試してみたいかもな。君の魂をほんの欠片でも食べたら、僕の欠けた魂がマシになるかもしれない。」
小さな牙を見せて笑ったオロルンの冗談に隊長は一拍置いて、そういうことはあまり人に言わない方がいい、と言った。
「ごめん。不愉快だったか?」
「いや、そうじゃない。お前は悪くない。俺が少し……妙なことを考えただけだ。」
妙なことって何だろう。隊長はキョトンとしているオロルンから残りの携帯食を取り上げると、コートのポケットから油紙に包まれた何かを取り出した。
「あ、返してくれ。ちゃんと最後まで食べる。」
「残りは俺が食べるからいい。こっちを食べろ。さっきたまたま売っていたものだが、ここのところ暫く携帯食が続いているからたまにはいいだろう。」
「みんなそれを食べているのに、僕だけ良い物は食べられない。」
「深く考えるな。俺たちは慣れているが、民間人がこんな食事ばかりでは気が滅入るだろう。お前に体調を崩されると調査にも影響が出る。遠慮したところでお前以外に食べる者はいないのだ。無駄にするな。」
隊長はそう言って包みを押し付けると、本当にオロルンの食べかけをあっという間に食べてしまった。オロルンは二つの意味でよく食べれるな、と思った後に手の中の包みを見下ろした。なんだか気に食わないような気もするし、申し訳ないような気もするし、これを見つけたときに自分を思い出してくれたことが嬉しい気もする。意地を張ってオロルンが手をつけなければ、本当に誰も食べないんだろう。お腹は空いている。オロルンのご飯は隊長のお腹の中に入ってしまった。
オロルンは散々迷った後、不承不承包みを剥いた。中身はサンドイッチだ。もう一度躊躇ってから一口齧った。シャキシャキした新鮮なキャベツとタマネギ、それから鶏のハムに、辛味のあるソースが絡んでいる。柔らかなパンには胡麻が散らばっていて香ばしい。つまり、すごく美味しい。隊長の言った通り、暫く携帯食ばかり食べていたのだから尚更だ。さっき迄の葛藤を忘れてほころんだオロルンの表情を見て、隊長は満足気に頷いた。
「お前がこんな食事に慣れる必要はない。」
慣れているとはいっても、隊長達だって携帯食ばかりでは身体に良い筈がない。貰いっぱなしは落ち着かないし、ばあちゃんに見つからないように畑に戻って、みんなの分も野菜を持ってこよう、とオロルンは決意した。ミツムシの蜜もだ。甘いものは脳の栄養になる。
隊長はなんとなくまだこっちを見ている気配がある。でも何も言わないので、オロルンは無言でサンドイッチをもう一口、大きく齧った。そして、気がついた。
「サンドイッチを買ってくれていたのにどうしてわざわざ一度携帯食をくれたんだ?」
隊長の方を見た。肩が震えている。
「あ!君まさか、僕が苦手な物を頑張って食べてるのを見て面白がってたのか!?意地悪だぞ!」
◆
「これからお前がすべきは炎神の最後の戦いのサポートと、お前自身の生活を取り戻すことだ。俺はまだ他にやることがある。お前が俺に同行する必要はもう無い。」
アビスの最後の襲撃を退けた後、隊長はオロルンにそう告げた。オロルン自身も同じように思っていたので、そうだな、とだけ返して、それであっさりとオロルンの旅は終わった。
イファが面倒を見てくれていた畑は思ったより良い状態を保っていたが、忙しいイファの片手間の世話では満足できなかった植物たちはオロルンの帰りを大層喜んでくれている。オロルンも、家に帰って来られて嬉しい。一番嬉しいのはゴツゴツした地面ではなく柔らかいベッドでぐっすり眠れること、次に隊長にニヤニヤされながらモソモソした携帯食を食べなくていいことだ。
明け方まで起きていて、午前中は寝て、起きたら野菜とミツムシの世話、必要なら狩りもする。今までの生活に地脈の様子を確認するというタスクが増え、炎神様の手助けのために他の英雄たちとも連絡を取り合っている。彷徨う魂を夜神の国に送るため、頻繁に遠出をして見回りもしている。以前より格段に忙しくなったが、みんなのために自分にできることがあるというのは有難いことだ。今の生活はオロルンが望んでいた以上のものだと言える。
それに加えて、オロルンは古代ナタの英雄「スラーイン」についてのウォーベンを片っ端から読み漁っていた。隊長の真の目的を探るため、というのが大きな目的ではあるのだが、そこに一切の個人的な感情が混ざっていないとは言えない。隊長のことが知りたいオロルンの気持ちは確かにそこにある。
どうも最近、一人になるとなんだか落ち込んでしまうのだ。オロルンが隊長と会う必要はもう無い。まだ炎神様の最後の戦いが残っているのだから何かで顔を見ることくらいはあるだろうが、その後はもう一生会う機会など無いかもしれない。ファトゥスの隊長と一般人のオロルンはそれくらい遠いのが当たり前なのだ。
隊長と少し距離が縮まっていたのは間違いない。間違いないが、それはあくまでも同じ目的に向かう仲間としてのものだ。共通の目的が無くなった今となっては、隊長はもうオロルンを思い出すことも無いかもしれない。
どうしてこんなことで落ち込んでしまうのかわからないわけではなかったが、そこは見ないふりをすることにした。あまりに不毛だからだ。砂漠に種を植えるのと同じくらい意味が無い。
今はやるべきことだけ考えるべきだ。オロルンは旅の中でいつの間にか隊長に持つべきでない感情を抱くようになってしまった。いつも通りの生活をすれば、時間はかかってもいつの間にかいつも通りのオロルンに戻っている筈だ。それでいい。
外では日が落ちて、空がゆっくりとオレンジ色から藍色に変わろうとしている。オロルンが地脈の様子を見に行くのはいつも日が暮れてからだ。太陽が無いと見えないものもあれば、反対に強い光で見えにくくなるものもある。
今日は空がよく晴れているから星がよく見えるだろう。旅人のじいちゃんの友達には、星の動きから未来を見通せる人がいるんだそうだ。そういうのって、どこで習えるんだろうか。謎煙の主では魂や夢についての研究は盛んだが、星見の技術は一般的ではない。そういった内容の描かれたウォーベンも見たことがない。別に未来が知りたいわけではないが、星から何かしらの情報を読み取る、というのは興味がある。じいちゃんに頼んだら占星術の入門書なんかを入手してもらえないだろうか。
オロルンの取り止めのない思考を、ノックの音が堰き止めた。力強い音だから、ばあちゃんではないだろう。他に日も落ちてからオロルンの家にやってくるのはイファくらいだ。たまにこの辺りでの仕事が終わった後に、帰るのが面倒になったから泊めてくれ、と予告無しに来る。
オロルンははいはいはい、と返事をしながら相手の応えも待たずにドアを開けた。もうイファだと思い込んでいたからだ。
「相手も確認せずに開けるな。不用心だろう。」
「えっ?うん、ごめん。」
呆気に取られたオロルンを隊長が見下ろしている。隊長が持っていた箱がずい、とオロルンの手に押し付けられた。受け取ってみるとスネージナヤの茶葉のようだ。これは一体どういう意味なんだろう。オロルンはもう一度隊長を見上げて、また茶葉を見た。この茶葉に何かあるのか。
隊長の背後を覗き込んだが誰もいなかった。隊員は連れずに一人で来たようだ。余計にわからない。何が起こっているんだ。
「この近くで野営をすることになったんだが、お前の家も近いことを思い出した。」
イファじゃなかったのにちょっとイファみたいなことを言っている。とりあえず中に入って、と座らせたものの、まだ状況が飲み込めていなかった。何を飲むか訊ねるとオロルンと同じものをと言うので、折角だからと隊長が持ってきたお茶を淹れることにする。
隊長はオロルンがキッチンで歩き回っている間もあまり家の中を見回したりせず、大人しくオロルンを待っていた。オロルンは見慣れない空間に行くとすぐにキョロキョロしてしまうが、育ちがいい人はこういうものなのかもしれない。
スネージナヤのお茶はナタのお茶とはまた違う良い匂いがする。箱の横にジャムの絵が書いてあるが、フレーバーティーという訳でもないようだ。柄も形も違うカップを二つお盆に用意して、なんだか変な夢を見てるみたいだな、と思った。
「それで……。何かあったのか?僕に手伝って欲しいようなこととか。」
「いや。何も無い。さっき言った通りだ。近くにいて、お前を思い出したから顔を見に来た。いきなり来てすまないな。」
「それは構わない。友達もみんないきなり来るよ。わざわざ僕に会いに来てくれると思わなかったからびっくりしただけだ。」
隊長は本当にただオロルンに会いに来ただけだったようで、別に話したいようなことも無いらしい。オロルンはじわじわと喜びが込み上げてくるのを感じていた。なにしろついさっきまで、隊長はオロルンのことなんてもう思い出さないかも、などと卑屈な事を考えていたのだ。まさか理由もなくこうして訪ねてきてくれるなんて夢にも思わなかった。
少しの間二人とも無言でお茶を飲んでいたが、折角来てくれたのだからとオロルンは近況報告をすることにした。
地脈の経過。アビスの襲撃後の部族の様子。旅人や他の仲間のこと。イファやカクークのこと。畑の野菜やミツムシについて。くだらない話も混ざっていたが、隊長は全てに相槌を打ちながら聞いてくれていた。誰かに話を聞いてほしいなんて普段のオロルンなら思わないのに、話したいことが止まらない。こんなに一人でずっと話していたら鬱陶しいやつだと思われるかもしれない、と頭の端っこの冷静な自分が警告しているのに。
オロルンが一通り話し終わってお茶を飲み干すと、隊長がぼそっと呟いた。
「何かしてほしいことはあるか。」
「謎煙の主は自分達で何とかできてるよ。ばあちゃんも引きこもりをやめてすごく頑張ったし。手伝ってもらわなくて大丈夫だ。心配してくれてありがとう。」
「……そうか。」
相変わらず、気遣いのできる男だな。オロルンが心の中で偉そうに隊長を褒めていると、隊長は少し居心地悪そうに身じろぎした。そこでオロルンは、珍しく隊長がまだ何か言いたげにしていることに気がついた。別にオロルンの返答はおかしくなかったと思うのだが。オロルンは隊長の言葉を待った。隊長はたっぷり二十秒ほど押し黙った後に、やっと声を発した。
「お前は?」
「うん?僕?」
「お前個人は、俺にしてほしいことはあるか?何でもいい。ちょっとしたことでも構わない。」
「えっ。」
唐突にそんなことを言われたオロルンは焦っていた。ここで「ない」と答えれば隊長はそうかとあっさり引き下がって、お茶を飲み終わったら野営地に帰って、それで終わりなんだろう。それはあまりにも勿体無い気がする。これは隊長から与えられた何らかのチャンスなのは明らかだった。なんで与えられたのかはよくわからないが。なにしろ、おそらく今生の別れが控えているのだ。これが最後の思い出になるかもしれない。
「ある。あるんだが、ちょっと待って、ええと……。」
こういうときはもう少し考える時間をくれるべきじゃないのか。さっきまで隊長への気持ちは忘れていつも通りに戻ろう、なんて思っていたことは全部頭から吹っ飛んで、何と言えば隊長の負担にならずに少しでも長く一緒にいられるだろう、とそればかり考えていた。
「あ、そうだ、お茶をボトルに入れてくるから、それを持って散歩に行こう。今晩も地脈の様子を見に行こうとも思っていたんだ、付き合ってくれないか?」
苦し紛れに捻り出したオロルンの提案に隊長は頷いた。
◆
「どうだ?」
「相変わらず酷い状態なのは変わらないが、酷いなりに安定していると言える。最後の戦争からずっとこの状態を保っている。アビスも深傷を負ったのは間違いないんだろう。」
アビスを一時的に退けたところで、それだけでは損傷した地脈は回復しない。だが、今まで目に見えて悪化する一方だった地脈が小康状態を保っているだけでも現状では御の字と言えるだろう。オロルンは息を吐いた。
隊長を誘って見晴らしの良い崖の上に向かった。周りの木々に邪魔されず星を眺めることができるその場所は、オロルンの子供の頃からのお気に入りだ。高い場所だから少し強い風が吹くのも良い。
夜になると勝手に家を出て行ってここに来るから度々オロルンが行方不明だと部族内で大騒ぎになって、心配して探しに来たばあちゃんに毎度物凄い勢いで叱られたものだ。そう話すと隊長は愉快そうに笑った。
「君は?子供の頃のお気に入りの場所はあった?」
「どうだろうな。」
出た。いつものやつだ。オロルンは横目でじとりと隊長を見て、ボトルに入れたお茶に口をつけた。外は暑いので氷を入れてきたが、もう殆ど溶けてしまっている。完全に溶け切る前に飲めてよかった。薄くなったお茶をゴクゴクと喉を鳴らして飲むオロルンを見て、隊長も自分のボトルを開けた。
「スネージナヤではジャムを舐めながら温かい紅茶を飲む文化がある。昔、砂糖が貴重だった頃にできた習慣の名残りだそうだ。」
「へえ。美味しいのか?」
「俺は好まない。甘くするなら普通に砂糖を入れる方がいい。」
「ふうん。でも折角貰ったんだし、一度試してみようかな。」
ジャムの絵の謎が解けた。隊長は必要な話以外には、こういう本当にどうでもいいと思っているであろう、自分のパーソナリティに一切結びつかない話をする。多くはスネージナヤのことだ。
思うに、隊長の話したくないことは全部カーンルイアでの出来事に結びついていて、カーンルイア人の隊長にとって異国の地であるスネージナヤの話であればそこから完全に切り離せるから話してもいい、という判断になるんだろう。オロルンは無意味な分析をした。別にそれがわかったところで、自分自身のことは何も話してくれないという事実は変わらないのだ。
背中から強い風が吹いて、オロルンの髪とマントを巻き上げる。その風に乗って魂の叫び声が聞こえて、オロルンは振り返った。小さくともあまりに悲痛な声に心臓の辺りが急にぎゅっと冷えて、ばくばくと動悸がしている。オロルンがコウモリの耳をそば立てると、少し離れたところにかすかな魂の気配を感じた。しかし、この強さではもう……。辺りを見回しているオロルンを、説明を求めるように隊長がじっと見た。
「誰かの魂の声が聞こえた。でも気配の感じからして、もうかなりの時間が経って、砕けて消えかけているんだと思う。……何もしてあげられない。」
「俺には何も聞こえなかった。お前にはそんなに小さな声も聞こえるのか。」
「まあ……欠けた魂の副作用だ。そこだけなら僕はばあちゃんよりすごいんだ。この場所が好きなのは誰も、魂すらいなくて静かだからっていうのもあったんだが……。あの戦争の後はどこもかしこも魂で溢れていて、弾き出された魂はこんな場所にまで迷い込むようになってしまった。数が多すぎて追い付いていないが、できるだけあちこちで行き場の無い魂を夜神の国に送るようにしている。」
「そうか。……感謝する。」
「何で君が礼を言うんだ。」
隊長は黙り込んでしまった。また出た。今の話は実は核心に迫っているような気がしたが、こうなった隊長は絶対に口を割らない。いつもであれば無駄とわかっていてももう少し深追いしてみたかもしれないが、今はそんな気分になれなかった。
「見つけても、送り返せないことの方が多いんだ。夜神が傷ついていた期間はあまりに長いから、昔から沢山の魂が何処にも帰ることができなくなっていて、古い魂はもう手を出せなくなっている。そうなったらもう、長い時間をかけてバラバラになって消えるしかない。戦場になってしまった場所に行くと、そういう魂が最期の苦しみを永遠に繰り返して叫んでいる声がずっと聞こえる。ナタを守るために命を賭して戦った勇士なのに、安らかに休ませてあげることもできない。」
オロルンは膝を抱えて呟いた。
「魂を感知するのも送り返すのも僕の得意なことだから、今後もできる限りのことはするつもりだ。でも、歯痒い。英雄なんて呼ばれるようになっても、僕にはできないことばかりだ。」
二人はそのまま黙って座っていた。折角隊長がオロルンのために時間を作ってくれたのに、こんなに落ち込んでしまうなんて不甲斐ない。でも、気持ちを切り替えて笑うことはできない。
やりきれなくなって抱えた膝に顔を埋めてしまったオロルンの背に、躊躇うようにゆっくりと手が回された。オロルンが反応しないでいると、そのまま横に引き寄せられ、オロルンの頭はこっちを向いた隊長の胸板に押し付けられた。かつてオロルンは、ここから沢山の魂の叫び声を聞いた。今は誰の声もしない。ただ隊長の強く、完全で、眩く輝く魂がそこにある。
隊長の魂を初めて直視した時、オロルンは驚くと同時に心底羨ましく思った。それはもう、悔しいくらいに。人の魂とはここまで美しくなれるものなのか。御守りがなければいつ砕け散ってもおかしくないオロルンの魂とはまるで別物だ。
この人はオロルンとは違う。炎神様や旅人と同じ、特別で、気高くて、どこまでも強い。残酷な運命の前に何度膝をついても、また立ち上がって歩むことをやめない。炎のようなその強烈な輝きは人の眼を灼き、心をどうしようもなく惹きつける。手を伸ばしても届く筈がないのに、手を伸ばすのをやめられない。まるで遠く夜空に輝く星のような人だ。
「ナタのために捧げられた全ての命が報われる日は必ず来る。お前の献身も、必ず報われる。俺はそう確信している。」
頭の上から聞こえた低い声が、深い悲しみと優しさに満ちていたように感じられたのはオロルンの願望故だろうか。オロルンは余計に顔を上げられなくなった。今隊長を見たら、あまりにみっともない顔を晒してしまいそうだ。もう散々ひどい姿を見られているので、今更かもしれないが。
返事をする代わりにぐりぐりと隊長の胸板に頭を擦り付けると、ぽんぽんとあやすように背中を叩かれた。
結局オロルンが復活する頃には月はかなり高い所まで登っていて、隊長はその間ずっとそのままでいてくれた。こんな格好の悪いところを見せるつもりじゃなかったのに。子供みたいに甘えてしまうなんて、先程までの自分を思い出すと恥ずかしくて顔から火が出そうだ。
オロルンは隊長を野営地まで送ると申し出たのだが隊長は頑として聞かず、反対にオロルンを家まで送ってくれた。自分の情けなさと隊長が自分を気遣ってくれることの嬉しさの間で複雑な表情を浮かべるオロルンに、隊長はなんでもないことのように告げた。
「俺はお前より遥かに歳上なんだ。歳上の面子を立ててくれ。」
この大人の余裕が非常に悔しい。
いざお別れとなるとなんだか名残惜しくなって、オロルンのせいで遅くなったのだから家に泊まっていけばいいのではないかと熱心に誘ってみたのだが、隊長は力強くそれを固辞して真っ暗な中を帰って行った。
◆
風のない、星がよく見える夜だった。
「オロルン、俺をオシカ・ナタに案内してほしい。死の執政に会いに行く。」
また共も連れずにオロルンの家に一人現れた彼がそう言った。炎神様と旅人の活躍により、ナタという国の大願が成就したこの夜に。明らかに只事ではない。それなのに彼は、相変わらずそれ以上のことは何も言わない。
家の横の畑では草花が騒いでいる。
「連れていっちゃダメだよ。」
「引き留めようよ。」
「ここにいてもらえばいいよ。」
「オシカ・ナタなんて知らないって言うんだよ。」
「だって、オロルンはこの人が好きなんでしょう。」
オシカ・ナタに何があるのか、オロルンは知らない。だが、不死の呪いに彼が500年も苦しめられてきたことを知っている、おそらくは仲間たちのために夜神の国に執着していたことも。そんな彼が死の権能を持つ神に何のために会おうというのか、全く想像がつかないわけではない。不吉な予感が胸に渦巻いている。これは最早、確信と言ってもいいだろう。
オロルン個人の感情を抜きにすれば、行かせてあげるのが正解なのだろう。今更彼がナタに害を為すようなことなどする筈がないとわかっている。これはきっと彼の悲願であり、隊長が選んだのなら、きっとそれが彼にとってもナタにとっても最善の選択なのだ。
ああ、それでも。個人の感情を抜きには考えられないのが人間というものだ。草花たちが誘うように、彼をここに引き留めておけたらどんなにいいだろう。オロルンが隊長と過ごした時間は、彼の500年の中の瞬きのような一瞬にすぎない。旅の中でほんの一時立ち止まって草木を眺めるように、もうほんの少しだけ、僕に時間をくれたらいいのに。オロルンは下を向いてぎゅっと口を結んだ。言うべきじゃないことを言ってしまいそうだ。僕はなんて自分勝手なんだろう。
炎神様が隊長はオロルンのことを高く評価している、と言ったとき、オロルンは正直なところ半信半疑だった。オロルンのことを仲間として認めてくれていることは今更疑っていなかったが、隊長は結局オロルンに徹底して自分のことは何も話さなかった。
ナタを救うための協力関係なんだから、関係無い情報を与えないのは当たり前だ。誰にだって話したくないと思うことはある。自分に言い聞かせても、それでも虚しく感じる部分はあった。オロルンは結局、隊長が隠している全てを明かしてもいいと思えるほどの存在にはなれなかったのだ。
結局あの後隊長に会うことは出来なかったのでオロルンは直接隊長に真意を問いただす機会には恵まれなかった。だが、炎神様が何と言おうとオロルンには結果がわかっている。オロルンがいくら自分を曝け出しても、隊長は常に薄いカーテンの向こうにいて、オロルンはそれを透かしてなんとか彼の輪郭を捉えようとしているようだった。
それがまさか、こんな残酷な形で彼からの信頼を思い知ることになるなんて。他の誰でもなく、オロルンに彼を死地へ導く役目を背負わせるなんて、あんまりじゃないのか。耳を塞いで全部拒否してしまいたい、そんなの僕に言うなと叫びたい、でも彼の期待を裏切りたくない。
オシカ・ナタに案内するだけなら他の人でもできるのに。あそこは花翼の集の管轄だ。彼らの方がよっぽど詳しいだろう。そもそも本当に案内なんて必要なのか。あれだけナタのことを調べ尽くしたくせに、オシカ・ナタの場所がわからない筈がないだろう。いくら禁域とはいえ地図くらいある。
考えれば考えるほど、彼がオロルンに案内を頼む合理的な理由なんて何も無い。なのに、こうしてオロルンのところに来た。なら、オロルンの答えは一つしかない。
「わかった。案内するよ。すぐ出られる。」
迷いはきっと隊長に伝わっただろう。それ以上は何も言わなかったオロルンに隊長は、感謝する、とだけ告げた。
草花たちはまだ、どうして、とか、やめようよ、とかさざめいている。
一際澄んだ声で小さなケネパベリーが囁いた。
「お別れだよ、オロルン。」
わかっているよ。でも、僕は行かなくちゃ。彼が、最後の旅のガイドに僕を選んだんだから。
◆
星がどこまでも高く、そして明るく輝いている。ナタでは夜になればどこにいても星がよく見えるが、他の国では夜でも煌々と灯る街の明かりでこうも鮮明には見えないのだ、と隊長が言った。僕は当然ナタを出たことがないから、晴れているのに星が見えない夜なんて想像もつかない。そう呟くと、隊長はほんの少し笑った気がする。
「これから幾らでも見る機会はある。お前たちを蝕むアビスの汚染は無くなった。ナタを出られない理由ももう無いのだから暫く旅をしてもいいだろう。外の世界にもお前の興味のある事は沢山見つかる。絵を描くことや野菜を育てること以外にも、気になったら何でもやってみればいい。」
オロルンは何処へでも行けるし、何でも出来る。当たり前のようにそう信じてくれたのは、もしかしたら隊長が初めてだったんじゃないだろうか。
シトラリがオロルンを軽んじていたとは思っていない。ただ、距離が近いからこそ見えないものや、見えすぎてしまうものがあるだけなのだろう。一連の事件で、オロルンと祖母の関係も少しずつ変わりつつある。オロルンをいつまでも小さくてぼんやりした子供だと思っていた彼女は、自分の意思でファトゥスに近づき、祖母を出し抜いてまで自分の意思を貫いたオロルンに対して認識を改めたようだ。シトラリの心配性な性格はそう簡単には変わらないが、以前のように何でもかんでも自分がフォローしようとするのではなく、オロルンのやる事を一歩離れて見守ろうと努力してくれているのを感じている。
隊長と出会って全てが変わった。厄介な体質も複雑な過去も変えられないが、オロルンはやっと、自分の思ったように人生を操縦していけるようになった。彼に出会えなければ、行動を起こさなければ、オロルンは持っていないものに目を向けて駄々をこねるばかりで、『献身』の古名に相応しい人間にはなれなかっただろう。心から感謝している。
オシカ・ナタは標高が高い。だがこの寒さはそれだけでは説明がつかないだろう。オロルンの家は夜でも蒸し暑かったのに、登るほどに道中の空気は冷たく澄んで、肺に突き刺さるようだ。隊長は死の執政に会うのだと言った。このナタではありえないような寒さは、それにも関係しているのだろうか。
遠くで輝く星と星雲を見ていたら、あの宴の夜を思い出した。隊長は、あの夜を思い出した事はあっただろうか。オロルンはしょっちゅうだ。きっと、これから先もずっとそうなのだろう。
やっぱり行かないでくれ、なんて言うことはできないが、目的地に着いてしまうのを恐れる気持ちが無いとは決して言えない。オロルンは今ひどく情けない顔をしているに違いない。隊長は仮面の下で今どんな顔をしているんだろうか。
そしてオロルンは唐突に、隊長の素顔を見たことがないまま旅が終わろうとしていることに気がついた。
今だ。今見るしかない。絶対に見る。オロルンは急に立ちどまるとそのまま振り向いて、隊長の目の前に手を広げて立ちはだかった。隊長は、アリクイの威嚇のような突然の奇行に面食らっている。
「隊長、君の顔が見たい。」
「……わざわざ見なくてもいいだろう。気分の良くなる見た目ではないぞ。」
「じいちゃん達は見たんだろう。僕も見たい。じいちゃんはよくて僕はダメなのか?」
わかりやすくムキになったオロルンに隊長は今度こそ、はっきりと声を出して笑った。隊長は案外よく笑う。これはきっと他のみんなは知らないことだ。オロルンは隊長の前では精一杯気を張っていたつもりだったが、どうにも根がこんな感じなので油断するとこうして子供のような仕草が出てしまう。隊長はそういうオロルンを絶対に見逃さず、絶対に笑う。少し恥ずかしくなってきた。でも、これが最後のチャンスならみっともなくてもいいだろう。
「お前の前では格好をつけていたいんだが、どうしてもか?」
「どうしても。」
今なんだか素敵な言葉を聞いた気がするな、とオロルンが反芻している間に隊長はあっさりと仮面を外した。オロルンに素顔を見せるのは別に嫌なわけではないようだ。オロルンが嬉しくなって微笑むと、つられたように隊長の口元も緩む。仮面の下では今までもこんな表情をしていたんだろうか。隠す事ないのに。昔と顔が変わっているとしても、普通の人と少し違っていたとしても、その優しさと誠実さは顔に表れている。見た目の話ではなく、彼の魂と同じで、とても美しいと思う。
隊長はオロルンの反応を見ているのだろう、一度もこちらから目を外さない。その瞳の中で、星が燃えている。真っ暗な夜でもよくわかる。もっと近くで見せてほしくて、隊長の肩に手をかけて覗き込んだ。鼻先が触れそうなほど近寄れば、星と重なって映りこんだオロルンが見える。恥ずかしいな、こんなにわかりやすく「君が好きだ」って顔をしている。
目を逸らして離れようとしたオロルンの動きを、いつの間にか腰に回されていた隊長の左腕が阻んだ。おや、と思う間に右手はオロルンの後頭部へ。そのままピンと立った耳を掠めて、頬を撫でて、頤を擽るようにしてほんの少し持ち上げ、気づくとオロルンはもう一度間近で星と見つめ合っていた。
隊長の目はどこか懇願するような色さえ帯びて、眉根は切なくひそめられている。ついさっき見た自分の恥も外聞もないような表情を思い出して、なんだ、この人もオロルンと同じなんじゃないか、と思った。腰に置かれた大きな手のひらにはもう力が入っていない。オロルンが隊長を引き剥がそうと思ったならそう難しくはないだろう。逃げたいなら逃げていいと、そう言っている。望むはずがないと彼だってわかっているだろうに。
逃がさないぞ、という意思を込めて隊長の首に手を回した。背の高いオロルンよりさらに高い位置にある頭を引き寄せると、今度こそ隊長の腕にも力がこもって、強く抱きしめられる。果たして今はどの名前を呼ぶべきか。一瞬の逡巡の後にオロルンの選んだ答えは二人の口の中に溶けて、あっという間に飲み込まれてしまった。
シトラリの読んでいる娯楽小説では、ヒロインが好きな人と結ばれた時によく、「このまま時間が止まればいいのに」という言葉が出てくる。でも今のオロルンは、永遠が欲しいなんて少しも思わない。ほんの少し前まで、行く末が怖くて仕方なかったのに。
終わりに向かう旅、それでも痛いほど強くオロルンを抱きしめる腕、輝く一対の星、永い旅路の最後に自分を見つけた彼、一瞬の煌めきが眩くて、全てが愛おしくて仕方がなかった。ああ、なんと幸福なんだろう。
彼がオロルンと出会ったおかげで終着点に辿り着けるというのなら、ままならない自分自身も、獣と混ざり合ったおかしな身体も、不完全な魂も、全てに意味があったのだろう。生まれてきてよかった、あの時に儀式で死ななくてよかった、そう心から思ったのは初めてだったかもしれない。
◆
「うひゃ〜〜〜っ」
オロルンの話を聞いたムアラニが目を輝かせて控えめな歓声を上げた。隊長が魂達と共に眠りについた後、オロルンの気持ちを察していたらしく心配して様子を見にきてくれたムアラニとシロネンに、まだぼんやりしていたオロルンはつい「最後の日にキスした」などと何も考えずに話してしまったのだ。当然二人がかりで根掘り葉掘り一から十まで全てを白状させられ、今更ながら自分の軽率さを後悔している。
「わっるい男だねえ。そんなんされたら一生忘れらんないじゃん。」
そう肩をすくめながらも、シロネンも目を細めている。オロルンがそこまで落ち込んでいないのがわかっているからだろう。
オロルンは二人が持ってきてくれたちび竜ビスケットをひとつつまんだ。イクトミ竜だ。そういえば隊長は、ナタの竜の中ではイクトミ竜に一番の親しみを感じると話したことがあった。500年前からなにかと謎煙の主と縁があったわけだし、特に馴染み深いのは不思議ではない。オロルンが寝ている間、こっそりイクトミ竜によく似たオロルンの耳を触っているのを夢現に感じたこともある。
連鎖的に流れていく思考を無理やり引き戻して、シロネンに返事をした。
「いいんだ……なんにせよ、一生忘れられないのは変わらないから。」
ムアラニはその言葉にさらにテンションが上がったようで、頬を真っ赤に紅潮させてその場で忙しなく動き回っている。シロネンが苦笑してその腕を引いた。
「ほらムアラニ、ジタバタしてないでお茶飲んじゃいな。随分長居しちゃったしウチらそろそろ帰るから。騒がしくして悪かったね。」
「大丈夫だ。最近は殆ど一人でいたから、久しぶりに友人と話せて楽しかった。来てくれてありがとう。」
「……正直、結構心配だったんだ。ほら、どんなに強い人でもすっごくショックなことがあったら、普段なら絶対考えないようなこと考えちゃうもんでしょ。だから今日、話聞けてよかったよ。安心した。」
「そうだよ。もしかしたら時間が経ったら気持ちが変わってくるかもしれないけど、私たちでも他の人でもいいから、何でも話してね!約束だからね!」
優しい友人達は来た時の神妙な面持ちとは裏腹に、大層賑やかに帰っていった。オロルンの家は急にしんと静かになったが、それで寂しくなることはない。オロルンはみんなが楽しくはしゃいで賑やかなのを見るのも好きだし、何をするでもなく静かな時間を過ごすのも同じくらい好きだ。
テーブルの上に残っていたちび竜ビスケットをまた一つつまんだ。今度はテペトル竜だ。テペトル竜といえば、地脈の調査でナタを歩き回っていたとき、何故か隊長のことを親だと勘違いしたようで、いつまでもついてこようとする幼体がいた。結局その子の本物の親が現れて隊長が偽物の親だとわかると、パニックになって暴れ出して攻撃してきたのだ。別に怒るようなことではないが何か腑に落ちない、という隊長の反応が面白くて、あのときのオロルンは腹を抱えて笑った。
ビスケットを口に放り込むと立ち上がって窓の外を眺めた。畑ではそろそろ、グレインの実が収穫を控えている。グレインの実は何にでも使えるから、彼らに差し入れするととても喜ばれた。他にも人参やキャベツ、ケネパベリー。
当然だ。普段はあの携帯食を食べているんだから、新鮮な野菜が恋しくなるに決まっている。慣れている、などとクールに振る舞っていた隊長も、オロルンの持ち込んだ食材で料理を振る舞った時は一つ一つ味わうようにゆっくりと噛み締めていたほどだ。得意の蜜を使ったセビチェは特に気に入ってくれた様子で、こっそり反応を窺っていたオロルンも大満足だった。
オロルンはまたテーブルに戻ってきて、お茶を一口飲んだ。忘れられる筈がない。だって少し周りを見回せば、竜にも野菜にも花にも海にも遠くの山にも、隊長の姿が見つかるのだから。オロルンの他の人よりきっと短いであろう一生で、何度彼の影を見つけることになるだろうか。
彼の言った通り、ナタを出てみたらどうだろう。きっと夜中でも煌々と灯る街の灯りを見たとき、静かに降り積もる雪に触れたとき、知らない強い酒を舐めたとき、空を見上げて星の光に気がついたとき。オロルンはそこにまた隊長を見つけるのだ。不思議と晴れやかな気分だった。本当に、暫く旅に出るのもいいかもしれない。じいちゃんに占星術の本を手に入れてもらう必要は無い。オロルンの方から探しにいけばいいだけのことだ。
目の前に輝く星があれば、例えその熱で我が身が燃え尽きるとしても、手を伸ばすのが人間というものだろう。オロルンは手を伸ばした。そして、その手はほんの一瞬その星に触れた。
冷たい氷のようでいて熱く燃え盛る星はしかしオロルンを焼き尽くすことはなく、この手には希望が残った。オロルンは何処へでも行ける。何でもできる。輝く星がそう告げたのだから、そうなのだ。