家に帰ると猫がいる。推定一歳の黒猫で、両眼の色が違う。名前はオロルン。
まるで他人事のような言い種だが、別に勝手にやってきて住み着いたわけではない。家はペット可ではあるが、マンションの高層階である。
スラーインは元来犬派だ。なので住まいを選ぶとき、いずれ犬を飼うことを想定してペットの飼えるマンションを選択した。そして、そこにまんまと付け入られてしまった。友人のマーヴィカに『君は絶対にこの猫を好きになる』と謎の自信で押し切られて、里親が見つかるまでという条件ではあるが猫と暮らすことになってしまったのだ。
黒猫というものは他の毛色と比べて飼い主が見つかりにくいのだそうだ。まだ若いが、既に成猫なのもそこに拍車をかけている。スラーインからすれば猫の色など何でも大差はないのだが、確かに黒猫というものは昔から不吉なイメージに結びつけられやすい。くだらない話だ。
そういうわけなので、猫は既に半年近くスラーインのマンションに居候を続けている。
スラーインがマンションに帰ると、猫はいつもドアの前に座っている。普段は来客があっても耳を片方そちらに向けるだけで一歩も動かないので、スラーインの足音を聴き分けているようだ。
「……ただいま。」
手を伸ばして頭を撫でてやると、喉をゴロゴロと鳴らして耳がぺたりと横に倒れる。撫でやすいようにしているらしい。少し前まで野良だったとは思えないサービス精神だ。
スラーインが歩き始めると猫は一生懸命に着いてきて、脚に念入りに身体を擦り付けた。スーツが毛まみれだ。最初は辟易したものだが、もう慣れてしまった。後で取ればいいだけのことだ。
給餌器と給水器、猫のトイレをチェックして問題が無いのを確認したら帰宅時のルーティーンは終了だ。この間、猫は更にスーツに抜け毛を追加したり、靴を脱いだスラーインの足に齧りついたりしている。良いご身分である。
着替えてソファに座ると、待ってましたとばかりに猫が膝の上を陣取った。週の半分ほどはリモートワークだが(猫のためではない。断じて)、残りの半分の日はいつもこうなる。猫も独りだと淋しいのだろうか。
退屈しないようにと窓際にキャットタワーを置いているが、高層階では刺激に乏しいかもしれない。ちなみにこのキャットタワーは里親が決まれば猫と一緒に譲渡するつもりだ。
「オロルン。明日はマーヴィカがお前の顔を見に来るぞ。お前を保護した人だ。そろそろ里親も候補くらいは見つかったかもな。」
耳の後ろをカリカリと撫でられてうっとりしていた猫は、突如スラーインの手に噛み付いた。気が変わったらしい。がぶりと噛み付いたままの凶暴な顔をした猫を写真に収めた。いつまでこの家にいるかわからないので、こまめに写真を撮るようにしている。
◆
マーヴィカによる里親探しの状況は相変わらず芳しくないらしい。スラーインの撮った猫の最近の写真も何枚も提供しているのだが。かなりよく撮れていると自負している。
「誰かさんが無茶な条件をつけるせいだ。『俺よりもオロルンを幸せにできる里親を見つけろ』と毎度うるさいだろう。」
「どこが無茶なんだ。居候暮らしの今より良い暮らしができた方がいいに決まっている。」
マーヴィカは居候かと笑って手の中の黒猫の柄のティーカップを弄った。モノトーンの無機質なデザインの家具で統一された室内で、この可愛らしいカップはかなり浮いている。
「私にはオロルンはこの上なく愛されて幸せに暮らしているように見える。君がもう一緒に暮らしたくないと言うのならどうにかするが、これ以上幸せにとなるとなかなか現実的ではないな。」
猫はキャットタワーの天辺の、透明なボウルの中から二人を見下ろしている。立ち上がったマーヴィカがはみ出していた前足の肉球をつつくと、猫は前足をシュッと凄い勢いで引っ込めて身体の下に隠した。マーヴィカが大笑いしたのにつられてスラーインも思わず笑ってしまう。動画を撮っておけばよかった。
「このタワーも里親に譲るとか言っていたがな、猫が好きでもリビングの真ん中にこんなにバカでかいキャットタワーを置ける家はなかなか無いだろう。君がこれを買った時点でもう他所にやる気はないのだと思っていたが?」
ぐうの音も出ないスラーインを見て、マーヴィカは全てがわかっているという顔をした。彼女は以前から時々こういう、まるで神にでもなったかのような態度を取る。
◆
バイクに乗って帰るマーヴィカを見送って部屋に戻ると、猫が玄関で腹を見せてひっくり返っていた。撫でてほしいらしい。あまりに間抜けな姿に、反射的にスマートフォンを構えて写真に収めた。猫は催促するようにスラーインをじっと見つめて、しっぽで床を叩いている。
しゃがんで猫の腹を撫でながらカメラロールを開いた。サムネイルがみんな真っ黒だ。今撮った写真も、猫の形をした闇の中にピンクと空色の眼だけが光っている。可愛すぎる。黒猫の人気が無いなど信じられない。こんなに可愛いのに、世界一可愛いのに、世間の人間は本当に見る目が無い。
撫で方がなおざりであると猫が袖を噛んで抗議してくるので、スマートフォンは早々に仕舞い込んだ。猫は温かく、柔らかく、撫でている手も心地がいい。
「これからもずっと俺と暮らすか?オロルン。」
ぽつりと呟かれた言葉を聞いているのかいないのか、オロルンは大きく欠伸をして満足気に喉を鳴らした。