フォル学フィガファウ 空を飛ぶ夢を見た。闇色をした箒に座って、空の高い所を飛ぶ夢。見下ろす町並みはまるで西洋の片田舎のような景色で、黄金の麦畑や、鐘の付いた教会のような建物が見える。もっと高く上昇すると海のように雲が広がっていて、そこには自分ともう一人。青灰色の髪が空に溶けて、肩にかけた上着が雲と混ざっている。自分と並んで飛ぶ男はこちらをずっと見つめていて、危ないから前を向けと小言を言うと、それなら君が前を飛べば良いと屁理屈をこねた。男に好かれているという自覚が、僕を素直じゃなくさせるのだと男は気付いているのだろうか。僕は彼に甘えているのだ、何を言っても良いのだというどうしようもない甘え。まるで子が親にするような、飼い犬が飼い主にするような……もしかすると恋人にするような。許されると無自覚に理解しているのだ。どうしようもなく甘ったれな自分を、どうして好いてくれているのかは分からないけれど、男はこうして隣にいてくれる。
好きだと伝える事は無かった。信じきれなかったのは僕の弱さと彼の臆病さのせいだろう。魔法使いとして過ごしていた日々は長すぎて、雁字搦めになった感情はシンプルな一本線にはなれなかった。
どこまで続くのか分からない空を二人で飛んでいるだけの夢。それは幸せにも感じるし、寂しくも感じた。
「お目覚めかい? うん、顔色は戻ったね。気分はどう?」
意識を覚醒させると、木漏れ日のように柔らかい声が降ってきてゆるり目を明けた。覗き込んでくる男の顔を見て、反射的にほっとする。香る消毒液の香りにここがどこなのかを教えられ、窓から差し込む茜色の日差し、グラウンドから聞こえてくる運動部のかけ声で既に放課後になっている事を知った。四限目をなんとか終えて、昼休みにふらふらと廊下を歩いていた所までは記憶がある。
「……フィガロ、僕は自分でここに来たのか?」
思ったよりも掠れた声が発せられ、驚いて喉に手を当てた。
「そうかもしれないし、そうじゃないとも言えるかな」
「ハッキリ言え」
「たぶん君は保健室に向かっていたんだろうけど、自分の足でここに辿り着いたわけじゃないよ。廊下で倒れた君のことを女生徒が俺に報せたんだ」
「……最悪」
廊下からここまで運ばれている間の事を想像すると体調が悪化する気がした。それをからから笑いながら男は、備え付けの冷蔵庫から出したミネラルウォーターを差し出してくる。上半身を起こして遠慮せずに受け取ると、乾いた喉に勢いよく流し込んだ。
「テスト期間だもんね、どうせまた夜更かししたんでしょ」
「そういえばテストは……」
五限目と六限目に予定していたテストを受けられていない事を思いだしてハッとなる。これが受検だったなら不合格間違いなしだ。
「大丈夫、テスト勉強で具合を悪くした真面目な生徒を無下にする学校じゃないさ。体調に問題が無いならテストの問題と回答用紙を預かってるけど、ここで受けていくかい?」
「今から?」
「ファウストが良ければね」
明日受けるとしたら休日に登校する事になる。予定が無いのならそれでも構わないのだけれど、明日は出来れば自由でいたい。それに他の生徒と条件が近い今日の内に受けた方が良いだろう。監督役が保険医というのは随分イレギュラーだけれど。
「……受ける」
「今からだと終わりが十九時くらいになるけど良い?」
「お前が良いなら良い」
そうして用意された机と椅子は教室にあるものと同じで、そこに座って最低限の筆記用具を並べた僕に、一つ目のテストが置かれた。「始め」という静かな声を合図に問題を解き始める。僕から少し離れた場所に腰かけたフィガロはそれを頬杖をつきながら眺めていた。
「……見過ぎだ。落ち着かないからやめろ」
「あ、いいなって思ってさ。真剣な君の姿を見られるのなら教科担当になるのも悪くなかったかも」
私語厳禁だと注意する人はここにはいなかった。退屈な時間だろうにやたらと楽しそうな男は無視するに限る。赤点でも取ったらこいつのせいだと腹の内で責任を押し付けた。
「ねぇ、夕飯は何が良い? 外食でも良いけど、着替えないといけないのは時間ロスかな」
「……家が良い、ゆっくりしたい」
「そう。じゃあ惣菜を買って帰ろうか。それからお風呂に浸かってダラダラしよう。明日は遠出するからね、今夜はよく眠るように」
テスト中の相手に平気で声をかけてくる監督役は失格だろう。フィガロにとって僕の期末テストなんて、普段フィガロの家でする課題と何ら違いが無いのだろうけれども。
飽きもせずにこちらを見つめているフィガロを視界の端に映しながら、さっきまで見ていた夢の事を思いだしていた。
あれは遠い昔、僕達が魔法使いだった頃の記憶だ。僕だけの魔法の呪文も覚えているし、薬草の調合方法や魔力の注ぎ方も頭では理解している。でも今の僕は知識だけしか無い、特殊な能力を持たない人間だ。勿論空を飛ぶことも出来ない。
「……さっきフィガロの夢を見たよ」
スラスラと回答を記入するペンを止める事無く話を振ると、フィガロは面白いのか退屈なのかも分からない顔で訊ねてくる。
「へぇ、どんな夢?」
「今みたいに僕のこと見てる夢」
「見てるだけ?」
「そうだよ。僕に指一本触れて来ない」
「じゃあそいつは偽物かもしれないな」
そう言って立ち上がると、僕のやや長い前髪を撫でつけるように持ち上げた。
「おい、邪魔をするな」
「うん。大人しく待ってるから、これだけ許してよ」
いつもは隠れている額に、ちゅ、と音を立ててキスをした大人は機嫌が良さそうだ。全く、どうしてこんな事になったのやら。この教師ときたら危機感が足りないのだ。恐らくこの関係がバレたらバレたで構わないのだろう。僕の方は法律やら条例やらを調べて青くなったというのに。未成年との交際にリスクを伴うのは大人ばかりだ。それなのに仕事を失うだの、経歴に傷が付くだのという言葉は一切フィガロの心に響かない。
僕を見下ろす瞳はとろりと甘く、前の人生では見た事のない顔をしていた。何の躊躇いも無く僕に向けられる感情は、紛れもなく恋だった。
「なにか言いたげだね?」
「別に……。ただ、どうしてあなたを見つけてしまったんだろうって思っただけ」
「え、どういう意味?」
それに返事をせずに、黙々とテストの答案用紙に向かった。耳を塞いだみたいに何も聞こえない振りをして、残りの空欄を埋めていく。
記憶が無い筈なのに、どうしてあなたはまた僕を選んでしまうんだろうって、そんな事を考えながら。