白銀色の舞台にて 北の国の気候というのは、地域差があるとはいえ、人間が生身ひとつで耐えられるようなものではない。
吹き荒ぶ豪雪、睫毛も凍るような気温。
それでもたまにやってくるのだ。他国に居る時の衣服に追加で羽織を一枚増やしたくらいで呑気に北の大地へと足を踏み入れる愚かな連中が。
「……あ?」
白銀の雪景色の中、ブラッドリーは幹と枝だけになった針葉樹の木陰に佇む人影を視界の端にとらえた。
ガタガタと震えながら懸命に真っ白い息を吐くのは、どうやら人間の少女だ。
ファーのついた厚手のコートを身に纏ってはいるものの、明らかに防寒装備が足りていない。そんな少女のもとへとブラッドリーが箒で降り立ったのは、ほんの気まぐれだった。
「おい、そこで何やってんだ」
響いた声に、少女は大きな瞳を見開いて視線を上げた。バイカラーの髪に顔を横断する大きな傷跡。北の国では名前を聞いたら震えて眠れと呼ばれるほどの魔法使い。そんなブラッドリーを前にして、少女は事も無げに言い放った。
まあ! 今時の死神って随分ハンサムなのね! と。
呟かれた呪文とともに、ぽわ、と淡い光が少女の身体を包む。青紫になっていた少女の唇は血色を取り戻し、ほんのりと桜色に染まってゆく。まるい瞳を瞬いて、少女はブラッドリーを見た。
「すごい……ありがとう! 貴方、魔法使いだったのね」
「ガキに目の前で野垂れ死なれちゃ気が悪いからな。てめえ、北の国の出じゃねえだろ。何しに来た」
ワインレッドの双眸が、値踏みするように少女を見据える。その問いに、少女は待ってましたとばかりに勢い良く答えた。
「役作りのためよ! 今度、西の国で憧れの劇団のオーディションがあるの」
少女は舞台俳優になるのが夢だという。小さな頃に見た輝かしい舞台。その中心で、いつか観客皆に素敵な笑顔を届けるのだと。
流れるように話を続け、やがては陽気に歌いだした少女を見て、ブラッドリーは小さく笑った。踊りながらターンを決めてブラッドリーの腕をとろうとする少女の手のひらを掴み、逆にくるりと一回転させてみせる。
「俺様をエスコートしようなんざ、千年早えな」
挑発的な視線が少女に向けられる。いつの間にか腰に回った手のひらに支えられながら、むくれると予想していた少女は逆に瞳を輝かせた。白い頬が薔薇色に染まり、ブラッドリーの傷だらけの腕をしっかりと掴む。
「今の表情……! とっても素敵! ねえ貴方、少しだけでいいの。私の演技を見てくれない?」
北の国には娯楽が少ない。少女の言うような舞台なんてものは、それこそ西の国との国境付近で少しやっているくらいで、ブラッドリーは魔法使いとしての長い生の中でも数えるほどしかそういった類いのものを見たことがなかった。
ただ、演技という点については多少の心得はあった。ブラッドリーは、オズのように圧倒的な力で他者をねじ伏せるわけでも、ミスラのように歩く災害のごとく気まぐれに他者に手を出すわけでも、オーエンのように言葉で他者を甚振って遊ぶわけでもない。
気を抜けば秤の片方に自分の命がのせられるような北の国で、立ち振る舞いや話術、観察眼をもってして、相手の隙をついて目当ての宝を盗み出す。
ブラッドリーはそういう風な『わるい魔法使い』だったので。
「まあ悪かねえが……まだまだイイコちゃんすぎるな。てめえが演じる役は何だった?」
「なるほど……もっと傍から見てわかるような悪っぽさが足りないのね。彼女の考え、生い立ち……うまく落とし込まなきゃ……」
なんの数奇な巡り合わせか、少女の受けるオーディションの役というのが、よりによって女盗賊だった。
厳しい気候の中で育ち、盗みを繰り返して生きながらえていた女が、やがて盗みに入った先の屋敷に居た貴族の男と恋に落ちる。そんなシナリオのあらましを聞いたブラッドリーは、用事のついでに少しだけ少女の演技を見てやることにした。
少女は飲み込みが早く、ブラッドリーが少しアドバイスをすれば、くるくると仕草や声音、雰囲気までもを変えてみせる。ただ、ブラッドリーはなんとなく、このままでは少女は憧れの劇団に迎え入れられることはないだろうとうっすらと感じていた。
未だ幼い人間の娘だ。仕方ないところはあるのだろうが、これまでの年月で構成された己の価値観に囚われているところがある。
「駄目ね。そもそも私、盗賊のことをよく知らないわ。彼女の盗みは生きるための手段……でも、何年も続けていた理由は何なのかしら? 彼女の歳なら身寄りがなくても大きな街にさえ出てしまえばもっと仕事もあったはず……」
「そりゃあてめえの生きてきた世界ではな。大きな街に出るには足も金も必要だ。そこで仕事を探すにも、身寄りも無え奴にどんなツテがある? それに、盗賊にだって色々居るだろ。生きていくために仕方なく盗みを続けている奴もいりゃ、周囲に流されている奴もいるし、人から盗むこと自体に意味を見出すような奴もいる」
「確かに……」
「視野は広く持て。たかだか十年かそこらのてめえの経験だけで、舞台上のすべてのモノを語ってるようじゃ、でかくはなれねえんじゃねえか?」
ブラッドリーは少女が先程まで握りしめていた羽つきのペンを、くるくると己の手のひらで弄びながら不敵に笑った。少女はいつの間にか奪われていた自分のペンがブラッドリーの手の中で回るのを驚いたようにぼうっと眺めて、それからはっと目を見開く。
「そうね……! ありがとう。私、西の国に戻る前にもう少し旅をすることにするわ。オーディションまでに、色んな場所を見ておきたいの。私の知らないことを知って、違う世界に触れてみたいわ!」
「はっ、せいぜい途中でくたばらないように頑張るこったな」
ぐしゃりと少女の髪をブラッドリーの大きな手のひらが乱す。くるりと背を向けて走り出した少女を、ブラッドリーは視線だけで見送る。見送ろうとして、何かに気付いたようにその背を追った。
「おい、ちっちゃいの。見てやった礼にひとつだけ教えろ。この辺りに、光る麦が生えてなかったか?」
「光る麦……? それなら私が此処に来る途中で見たわ。薄暗かったのもあって、麦畑なのにまるで夜空の星みたいで綺麗だったの! もう少し西に下ったところのはずよ。探しているの?」
「探してるっつうか……手土産にというか……まあ、んなことはどうでもいい。じゃあな」
ええ、と少女が返事をした頃には、ブラッドリーの姿は雪景色の中から忽然と消えていた。まるではじめから、そこには誰も居なかったかのように。
それでも少女は知っている。さっきまで、そこにはひとりの魔法使いが立っていた。
バイカラーの髪に、顔を横断する大きな傷痕。一見威圧的なようで、意外と面倒見が良い不思議なひと。その存在は、少女の乱れた髪が何より雄弁に物語っているのだから。
包丁がまな板の上を叩く音。アジトのキッチンには普段は団員たちが食べ物をねだりにやってくるが、今日はキッチンの主に近寄る者はいなかった。
瞬く間に刻まれた野菜たちがボウルに入れられ、また新しい野菜がよく研がれた包丁の刃の餌食になる。鬼気迫る表情で手際良く作業をするのは、死の盗賊団のナンバーツー、血の料理人と呼ばれる男だった。
「また喧嘩したのか? ボスとネロさん」
「そうらしいな……ボスは随分前にアジトから出て行っちまったし……」
「俺、水でも貰いに行こうと思ったんだけど……入れる雰囲気じゃないよなあ」
遠巻きにキッチンの様子を眺めながら、わらわらと集まりだす団員たち。不意にその後ろから、革靴が床を叩く音が響いた。
「何やってんだてめえら」
「ボス……!」
「おかえりなさい、ボス!」
一斉に振り向く団員たちを視線でいなし、ブラッドリーは誰もが足を踏み入れられなかったキッチンへと颯爽と歩を進めた。
包丁を握った男の背後へと歩み寄り、「ネロ」とその名をそっと呼ぶ。ネロは握りしめていた包丁を置き、蜜色の瞳をキッと細めてブラッドリーを睨みつけた。そんな視線をものともせずに、ブラッドリーは小さく呪文を唱える。
「《アドノポテンスム》」
艶やかな声で紡がれた呪文。それと同時に、ネロの目の前に大量の銀河麦の束が現れた。ぼんやりと淡く光る麦穂を前に、ネロが目を丸くしていれば、ブラッドリーは「これで美味いパンでも焼いてくれ」と眉尻を下げる。
続いてぐう、とタイミングよく鳴り響いた腹の音に、ネロは何か言いたげに口を開いたが、やがてくすくすと笑いだした。
「何しに行ったのかと思ったら……はは、ご機嫌取りの土産探しってか? あんた結構かわいいとこあるよな」
「うるせえよ。なあ、なんか今すぐ食えるもん無えか? 昼飯食いっぱぐれちまったし、さっきから腹が減って仕方ねえ」
「……パンはまだこれを乾燥させて粉にしてから生地作って仕込まなきゃいけねえし、早くて明日の晩だな。ちゃんと野菜も食うなら、簡単なものでよければ今から何か作るけど」
げえ、と眉根を寄せたブラッドリーは、しかし空腹には勝てなかったらしい。大人しくキッチン近くの木製の椅子へと腰掛け、調理を始めたネロをじっと眺めている。
対するネロは先程までとは打って変わった雰囲気で調子外れな鼻歌を歌いながら、鉄のフライパンを片手で振るっている。張り詰めた空気がほどけたキッチンには、しかし団員たちは誰ひとりとして入ってこなかった。
「今入ったら俺達絶対に邪魔だよな」
「流石にな……」
盗賊団のトップとナンバーツーのやりとりを遠巻きに眺める団員たち。何はともあれ仲直りしたらしいふたりの様子に彼らはほっと胸を撫で下ろしたのだった。
さて、魔法使いからすれば特に長くもない時が流れたある日のこと。
ブラッドリーは一枚のチラシを手に相棒と酒を酌み交わしていた。
《西の国随一の大劇団、初の五ヶ国公演を開催!》
大きな見出しが目立つそのチラシには、公演情報に加え、主演を務める女優のインタビュー記事が掲載されていた。隣から覗き込んだネロは、蜜色の瞳を物珍しそうに瞬く。
「珍しいな。あんたこういうの好きだっけ?」
「あ? 出先でちょうど撒かれててよ。まあ、そうだな……たまにはいいだろ。一緒に行くか? ネロ」
「行ってもいいけど……ああいうご立派な劇場って、きっちりした格好していかなきゃいけねえよな」
普段着心地優先であまり積極的に着飾らないネロは、困ったように眉尻を下げている。本当に行きたくないのなら、ネロはもっと、言葉にしなくとも拒絶の雰囲気を仄めかしてくる男だ。今回は単純にドレスコードの心配をしているらしい。
ブラッドリーは持っていたグラスをサイドテーブルに置き、そんなネロの肩を抱いた。
「それくらいなら見繕ってやるよ。せっかくならとびきりの良い男にしてやろうか。俺様の次くらいに」
「はは……普通のでいいよ、普通ので」
ネロはグラスの中身に口をつけて、柔く笑う。
今度贔屓にしているブティックの店長に声をかけてみるか。そんなことを考えながら、ブラッドリーはチラシをテーブルの隅へと置いた。
ひらりと舞った紙一枚。女優に対するインタビュー記事の最後には、こんな対談が記されている。
──初の主演ということで……ずばり、この舞台を絶対に見てほしい人は居ますか?
──もちろん、この記事を見たすべての人よ! でも、そうね……敢えて言うなら、小さな頃に北の国で出会った魔法使いさんかしら。今の私の演技を見たら、きっとびっくりするだろうから!