フォ学なんちゃってサスペンス「……っ」
ぴちゃり、と音を立てるものはなんだろう。ぼんやりと足元を見下ろす先に、見覚えのある色が見えた。
ふわふわと柔らかそうで、けれど冬の海のような、どこか冷たさをはらんだ灰と青。
暗闇に目が慣れて来たのか、ゆっくりと目の前の光景が像を結ぶ。いつも清潔に整えられているはずの髪が乱れて、その色が床に散っていた。
「…ぁ…」
知らず、声が漏れる。視線が、無意識にその先を追う。
ぴちゃり。もう一度あの音がした。
その時初めて、嗅ぎ慣れない何かの匂いを感じる。生臭く、空気ごと重くするようなその匂い。
灰青の先。多分、背中のあたり。ベージュのベストが赤黒くグラデーションしている。
どうしてだろう。
鮮烈すぎる光景は思っていたよりも彩度は無い。それでも、『それ』が赤いのだ。赤かったのだと分かる。分かってしまう。
彼の身体から生えた何か棒のようなものを伝い、真っ赤であったろう血が、ぴちゃり、とまた音を立てて落ちた。
「ふぃ、がろ、せんせ……?」
ぽつり、とやっとのことで声が零れる。痺れたように動けなかった俺の身体は、その瞬間糸が切れたかのように崩れ落ちた。釣られた人形が落ちるように、ぐしゃりと膝を折って俺はその場にへたり込む。
これは、彼なのか? 本当に?
よく見知ったその色彩も背格好も、見間違えるはずは無かった。けれど。まさか。
違っていて欲しい、そんな希望を捨てられずに、俺は力の入らない膝から下を引き摺るように、彼の正面へと回り込んだ。
ずる、ずると俺が衣服を擦る音だけが響いて、目の前の人からは返事は無い。何の音もしなかった。ただ、定期的にあの水音だけが、まるで遅れた時計の秒針のように時を刻む。
ぴちゃり、ぴちゃり。赤黒い水溜りが、彼の衣服を濡らしている。
暗闇に慣れたはずの視界がどんどん暗く、狭くなっていくようだ。
なんとか、彼の顔を覗ける位置まで移動し終えて、そっと乱れた前髪を払ってやった。指先が少し震えたけれど、不思議と体は動く。それは、ただ目の前の現実を確かめたいと言う本能なのかも知れない。
元々色の白い顔は、血の気を失ってより白く、いっそ青白くさえあった。
傷は背中の一か所だけなのか、その顔には傷の一つも無く美しく、瞳を閉じた姿はただ眠っているようで、そこにある事実をまるで現実味が無いものにしている。
「なんで……」
その言葉に、答えを返してくれる人は居ない。ただ滴り落ちる血の音以外、何も。
口元に指を翳す。それから、首元にそっと触れた。
呼吸は、無かった。勿論、脈も。
俺の目の前で、確かにフィガロ先生は絶命していた。
それから、どれ位時間が経っただろう。
ただ、ぼんやりと彼の顔を見つめていると、初めて水音以外の音を聞いた。
がたり。
「っ……?」
それなりに大きな物音だ。びくり、と肩を揺らして俺は部屋を見回した。見える範囲に動くものは無い。
部屋の扉が開いた形跡も無い。開けばどうしたって音はするだろう。それに先程まで自分以外の気配も感じなかった。なのに。
何故か、『居る』と感じることが出来た。
ここに、よくないものが。居る。
《逃げなさい、早く》
「えっ……?」
『声』だ。聴こえないはずの声。けれど、とてもよく知っている人の低い声。
そうだ。今、目の前で確かに死んでいるはずのーーその人の声。
けれどその声は目の前にある体からではなく、まるで、耳元で囁かれるように響いた。
「ど、どういうこと?! この声、フィガロ先生なんですか?」
《そう、俺は君のよく知るフィガロ先生だよ。事情は後で話すから》
俺の脳内が一気に混乱を極めていく。なに、なんで声が。姿は無いのに!
室内からは、今も気味の悪い気配がして、また大きな物音が響く。
ごとり、がたり。
乱雑に積まれた机と椅子。教材が入っているのだろう段ボールが積まれた部屋だ。
その薄暗い室内で、『何か』は少しずつこちらへと近づいて来ている気がした。
「ひぇっ」
一歩、後ずさる。言いようの無い恐怖と、混乱で足がぶるぶると震えた。正直今にも腰が抜けそうだった。
そして俺がまた言葉を発する前に、ぴしゃり、と彼の声が響く。
《晶!走って! この部屋を出るんだ!》
その瞬間、ずるり、と影が動いたように見えた。
「!!!!!」
弾かれたように走り出す。縺れる足をなんとか床に付けて、踏み込む。一番近い扉へと、一気に駆けた。
どん、と勢いよく取りついた扉の取っ手に手をかける。けれど、開かない。
がたがた、と音を立てるばかりの扉は、鍵でもかけられているのか、びくともしなかった。
背後ではざわり、と空気が騒ぐ。淀んだ空気が迫ってくる気配がする。
怖い。こわいこわいこわい!
逃げなくちゃ。
扉に付けられた窓は何故か真っ暗だ。塗りつぶされたようなガラスのその先には何の景色も見えない。
「これどうなってるんだ?! 誰か!誰かいませんか?!」
どんどん、と強く拳を叩きつける。扉はがたがたと音を立てるばかりで、開く気配はない。
空気が重くなって、ぞわぞわと鳥肌が立っている感触がする。まずい。
(もう……ダメなのかな)
一瞬、倒れていたフィガロ先生の姿がフラッシュバックする。俺もあんな風に、死んでしまうのだろうか。
ぎゅうと、目を瞑る。
《諦めちゃ駄目だよ、晶》
「っ、先生……でも!」
これって絶対絶命というやつじゃないか。そう思った瞬間。扉の向こうから声がした。
「晶?! そこに居るのか!」
大きく響く、力強い声。これは。
「カイン!!俺はここです! 扉が開かなくて…助けてください!」
精一杯の声を上げて助けを求める。
「分かった、待ってろ! 少し扉から離れてくれ!」
はい、と返事をして、すぐに横へと逸れた。今この状況で後ろに下がるのは恐ろしい。
すぐに、バン!と大きな音がした。一瞬遅れて、ゆっくりを扉が室内へと倒れ込んでくる。
薄暗かった室内に、さっと外の光が差し込んだ。見慣れた校内の廊下だ。
そこには高く脚を蹴り上げたカインの姿があった。
「良かった! 無事だったか!」
「っはい!!」
急いで扉の外へと駆けだした。転びかける俺の手をカインが引いて、教室から引っ張り出されるようにして足を踏み出す。
俺の足がしっかりと廊下の床を踏んで。その一瞬で、空気が変わった気がした。
「え」
言うなら、非現実から現実に戻ったような、そんな感覚。
非日常から日常に戻れた、そんな安心感が確かに生まれた。
背後にあったはずの嫌な気配が霧散する。振り返ると、そこには蹴倒された扉と、何の変哲もない空き教室が広がっている。
「な、なんだったんだ……今の……」
呆然と、呟いた。
「晶……大丈夫か?」
心配そうなカインの声に、何とか「はい」と答えて。
何から話すべきなのか、考える。ここで起きたことは、どう考えても異常事態だった。それは間違いない。けれど、なんて説明したら良いのだろう。カインに上手く伝えるにはどうすれば。
《落ち着いて。ここで起きたことを、そのまま話せばいい。彼はちゃんと聞いてくれるよ》
フィガロ先生の声は、部屋を出た今も聞こえるようだった。おかしい状況ではあるけれど、その声はいつものように低く落ち着いていて、俺に冷静さを連れて来てくれる気がした。
はあ、と大きく息を吐いて、それからゆっくりと吸う。
「俺……この部屋で、フィガロ先生が死んでいるのを見つけたんです」
そもそもの事の発端はなんだったのか。そこから考える必要がありそうだ。
日常で起きた突然の非日常。その最初がなんだったのか、俺はゆっくりと記憶の紐を解きながら話し始めた。
***
「ぶいあーる??ですか?」
そう、と目の前の彼は頷いて見せる。
「最新のシステムを使って、この学園でテストをさせて欲しいと依頼があってね」
楽しげに話すその人の瞳には、愉快そうな色が踊っている。
「この学園には優秀な生徒が沢山いるからね! 面白そうだし引き受けたんだ」
にこにこと笑っている学園長は、すう、と猫のように光る目を細めて、こう告げた。
「真木晶くん。君にも是非協力して欲しいんだ!」