スッラが618を生かす話 魔が差した、と言えばそれまでなのかもしれない。
或いは、いい加減倦んでいたのだろう、とスッラは思う。
『618、応答しろ』
「……」
暗闇に降りしきる雨は、破壊されたコアに横たわる猟犬を無慈悲に濡らしていく。
赤い血と混ざって流れていく命に、しかし彼女は焦りの様子さえ見せず、エンタングルを見上げていた。
『どうした、618……!』
猟犬――C4-618。それしか名を持たない飼い犬は、珍しく感情を滲ませる飼い主の声にふと表情を和らげた。
そうしてそれが誇らしいものであるかのように、動けぬ体をわずかに動かして胸を張り、声を紡ぐ。
「ハンドラー・ウォルターへ、報告。任務は、無事……ッ、遂行しました」
『それはわかっている。交戦中の敵機はどうなった』
胸を膨らませて大きく咳をした飼い犬は、口から盛大に血を吐く。
『618、良くやった。すぐに帰還しろ』痛ましいような飼い主の声。反吐が出る、とスッラは思った。
だがやはり飼い犬は、まるで神に祝福でも受けたような満たされた顔で笑って、しかしエンタングルを、哀れむような目で見つめるのだ。
「ダメージが、大きい。ハンドラー、私はここまでです」
『618!』
「最後まで、貴方の猟犬でいられたこと、誇らしく思います。貴方の猟犬として仕事を果たし死ねること、これ以上の満足はありません。ありがとう、ハンドラー。あとは619達が果たしてくれるでしょう」
『……』
やるならやれ、と猟犬は首を晒す。或いは自分でそこをかき切る算段でもあるのだろうか。
今ならまだ、通信が繋がっている。慈悲深い飼い主に飼い犬の断末魔を聞かせ、無言の通信の向こうで苦悶の表情を浮かべているのを想像するのが、スッラの愉しみだった。だが、今は――
「っ?!」
エンタングルの手を、猟犬の壊れたコアに差し伸べる形で留める。
それからスッラはコアを降り、その手を伝って降りしきる冷たい雨に打たれながら、猟犬の元へと向かった。
猟犬が浮かべた驚きの表情に一瞬、恐怖が混じる。だが彼女はすぐにまた笑い「もう通信は切った」と言って「殺すなら殺せ」と目を閉じた。
だがスッラは、懐に隠したナイフを取りもしなければ、晒されたその細い喉に手を掛けることもなく、大破したACの電源を落とし、猟犬と機体を接続するケーブルを引き抜いていく。
ACの接続から解放されれば、猟犬はただ死にかけの女になる。
背中に手をまわして抱き上げ、スッラは再びエンタングルの手を伝って自機のコアへと戻った。
「どういう、つもりだ?」
「さぁ」
ハンドラー・ウォルターに飼いならされた犬たちを見ると腹が立つ。そしてそれらを狩る戦いには、すがすがしささえ覚えていた。
だが戦いの後に残るのは、達成感でもなければ興奮でもなく、興覚めしたような空虚だけ。その理由を積極的に探すような愚かな真似を、スッラはしない。
だから、魔が差したのだ、と彼は自身に言い聞かせる。
或いは殺しても殺しても湧いてくる犬どもとの、終わらぬ戦いに、倦んだのだろう、と。
◇◇◆◇◇◆◇◇
だがこの行動は、スッラ自身も予想外の結果をもたらした。
長い長い時の中、多くの強化人間を殺し、殺されかけ、そして倦み魔が差したスッラは、かつて618と呼ばれた女を助け、保護し、そうしてハンドラー・ウォルターの最終目的について教えてやった。
アイビスの火の再来。
”普通の幸せ”を多くの大人たちに望まれてルビコンを離れたこと。
だが彼はいつか故郷へと戻ってくるだろう。使命などという方便を抱えて。
彼がかつて彼の面倒を見た多くの大人たちに望まれたような生活を送るために――猟犬使いなどということは向いていないと教えるために、狩りを続けているのかもしれない、などという腐った気持ちを吐露すると、なんと女は、スッラに手を貸すと言う。
彼女はハンドラー・ウォルターは生きるべきだと言った。
きっと彼は、最後の引き金を自分で引こうとしているに違いない。そんなことはさせないし、彼の猟犬に目的を遂げさせて、彼が世間で言われるとおりの「悪名高き」男にするつもりもない。
「私がコーラルを見つけ出し、ルビコンに再び火をつける」
その眼差しの、なんとまっすぐで力強く、滑稽なことか。
だがスッラは笑えなかった。直視もできず、ただ「勝手にしろ。私はこれまで通り、あいつの猟犬を殺すだけだ」と返す。
女は「そうしてくれ。私には、それができないから」と続けた。
そうして、今。
ウォッチポイントに到達した新たな猟犬、C-4・621が対峙した相手に、ハンドラー・ウォルターは驚きの声を上げている。
『その声は、スッラか? それに、お前は618なのか?!』
驚き、戸惑い、そこに透ける安堵はかつての猟犬が生きていたことを喜んでいるのだろうか。
呑気なものだ、ハンドラー・ウォルター。スッラは内心呟く。
お前の猟犬は、お前が思っているより手ごわいぞ。618はお前の手持ちの中でも優秀な一匹だった。さて、お前の「今の」猟犬が、生き残れるかどうか。
『618、生きていたのか』
「その名の猟犬は、もう死んだ。ハンドラー・ウォルター。これ以上先には進ませない。コーラルは私のものだ」
悪役らしいセリフが似合うではないか。
スッラはほくそ笑む。
618は優秀な猟犬だったが、その分手もかかった。噛みついて来ようとするのを、何度躾けたことか。
躾けたことで生身では勝てないと理解し、日常生活では一応従順な振りをするが、哀れみ、蔑むような目、ちっとも従順でない態度は一向に治らない。
618という名の猟犬は死に、お前の犬になったつもりはないと彼女は言うが、飼い主を救うために立派な演技をしてみせる様子はやはり猟犬のままだ。
「お前も、一度ぐらい素直になればいい。ハンドラーだって、わかっている」かつてそう女が言っていたのを思い出す。もうそんなことができる時はとっくに過ぎたとスッラは笑い飛ばした。
そう、とっくに後戻りなどできない場所にいて、そんなスッラにできることが、おそらくかつて猟犬だった死にかけの女を拾うことだったのだろう。
『618、ここは私に任せて、お前はウォッチポイントに向かえ』
『命令するな、私はお前の猟犬じゃない。それに618は死んだ。何度言ったらわかる。ボケたのか、C1-249』
『だそうだ。ぬか喜びだったな、ハンドラー・ウォルター』
『……』
スッ、と621に背を向けて、女が去っていく。そのACの後ろ姿をモニター越しに眺めながら、スッラは自嘲した。
『また犬を飼ったようだが、何度でも殺してやろう』
『スッラ、貴様618に何をした』
『何、だと? まあ確かに、ナニはしたが……具合は、悪くなかったぞ、ハンドラー・ウォルター』
『ッ……!』
『なんだ、今度は父親気取りでもするつもりか?』
立場を分からせるため、マウントを取るためだけのセックスにそれ以上の意味はない。だがハンドラー・ウォルターの気分を、ずいぶん害することはできたらしい。
なら上々だ。噛まれた歯型や必要以上に立てられた爪の傷も、痛み以上の意味を持つ。
『やれ、621。やらなければ、お前がやられるぞ』
一言も発さぬまま状況を見ていた621がようやく武器を持ち上げ、ACを動かす。
偶然にも――今日はあの時と同じ、冷たい雨が降りしきる夜だった。