01【今は一人でいたい。】 LINK VRAINS、現実世界ともに大きな爪痕を残したライトニング、ボーマンらによる事件。
PlaymakerとAiの決死のデュエルによりなんとか平穏を取り戻したデンシティ。ソウルバーナー、リボルバーを始めとしてボーマンに吸収された住民たちも全員が生還し、事件はひとまずの終息を迎える。──しかしそれはらあくまでも人間側にとっての話だ。
尊は一人、海岸沿いに足を運んでいた。現実で走り回っていた訳ではなかったが、精神的にも肉体的にも疲れ切っていた。しかし体は休息を求めているのに、脳が眠ることを拒否して休む気にもなれない。
草薙も遊作も、今はみんな自分たちのことに手一杯で、尊に気を割ける者はいない。
幸か不幸か、一人になりたい今の尊にとってはそれが都合が良く、やるべき最低限の事だけこなすと早々にカフェナギを飛び出してしまった。
夜の海は波が揺蕩うだけの、独特の静寂に包まれていた。こうして波の音を聴いていると、長い間過ごしてきた港町に戻ったような気がして、いくらか気持ちが落ち着いた。
日没後のこんな時間にこんな場所で一人手摺に項垂れていようものならば、聞こえてきたであろう声。尊の生活にとって当たり前となりつつあったその声は、もう尊に語り掛けることはない。
『またいじけているのか?尊』
いつもなら掛かるであろう、声。手元のデュエルディスクは沈黙したまま、ほんの数ヶ月前と同じ物言わぬ姿に戻っていた。
「……不霊夢」
呼び掛けたところで、返事が返らないことは理解していた。死別とは尊にとって身近なもので、既に一度、体験したものだから。不霊夢がどうなったのかという問いに対してAiが一言、沈痛な面持ちで謝罪を口にしたことからも、それは明らかだった。
「──何をしている」
声が、聞こえた。淡々とした音はさざ波の音色によく馴染んでいて、腹立たしいことに、その音はほんの少し、不霊夢に似ている。
「べつに、何も」
振り向いてやることはない。それが誰であるのかを、尊は既に知っているから。
ハノイのリーダー。鴻上博士の息子。それから、尊たちをあの研究所から救い出した恩人。
尊の中で全てを未だ飲み込みきれないまま、ライトニングの人間への反乱による世界の危機の到来。悪事を行い、けれど結果的に世界を救う助力もした。単純な悪としては裁けない。そんな状況ばかり、既に尊の裁定のみで彼を問い詰めるどころでないところまで来てしまっていた。
「何も、……ということはないだろう」
尊は海を見据えるばかりで、了見の姿を映すことはない。
そう、何もないなどということはない。むしろ色々ありすぎて、尊のキャパシティなど、とっくにオーバーしてしまっている。だから今は、この男に構っていられる余裕など、ないというのに。
あろうことか、この男。──了見は、尊から少し距離を置いてはいたものの、隣と表現しても差し支えない位置で手摺を背にして落ち着いていた。
尊はちらりと、気取られるかどうかの微妙な視線を了見に向ける。彼はいつもと変わらぬように見える無表情で、ただ真っ直ぐ、海を眺めているだけだった。
「一人なのか」
問われた質問に嫌味かと思わずそう返しそうになったが、尊はぐっと言葉を飲み込んだ。
「いや、……一人、だったな」
了見は尊が答えるより先に、自らの質問を撤回した。ちらりと向けられた視線が尊のディスクに注がれて、つられて尊も自分のディスクを一瞥する。
手元には、物言わぬ無機物がそこにあるだけ。やはりそこに、不霊夢の姿はない。
べつにそんなこと、了見に言われるまでもなく理解していたけれど。わざわざこの男に現実を突き付けられるのは、やけに腹が立った。
(お前がそれを、言うのかよ)
遊作や尊にどう思われようと、イグニスを殲滅すると嘯いていたこの男が。
「何の用だよ」
刺々しさを隠しもせず言葉を返す。正直、会いたくなどなかった。彼と顔を合わせれば、必ず昔のことを思い出さずにはいられなかったからだ。
何もできないまま、両親を失ったことを後から知った幼い頃の自分と、何もできず、不甲斐なく不霊夢を失った今の自分。
十年も経ったのに、同じことを繰り返している自分。情けなくて誰、の目にも触れられたくない気分なのに。よりによって、見られたくない人間の中でも最上位にいるような男が、一番掛けられたくないタイミングで、声をかけてくる。
『彼は、君に謝罪の意を示したかったのではないか?』
リボルバーの正体を知り、対峙した夜に不霊夢が語った言葉を思い出し、尊はぎゅ、と唇を噛んだ。
頭に血が上っていたあの日にはわからなかったけれど、今は少しだけ理解できている。リボルバーは、鴻上了見は単純な悪人などではないのだと。
デンシティを、ひいてはネットワーク世界を危機に陥れた。それは否定しようのない事実だ。けれどPlaymakerが言うように、彼も被害者の一人なのだという言い分も、今なら理解ができる。
しかし、だからといって彼に対し遊作のような友好的な気持ちを持てるかと言えば、それはまた別の問題だ。
「用がないなら、どっかいけよ」
そう吐き捨てて、尊は了見に背を向ける。話はしたくないと全身が告げ、拒んだ。けれどそれは、相手が了見だからではない。今はたとえ誰であろうと、どんな話であろうと、したくはなかった。
だというのに。
「……お前が一人きりでいることを、あのイグニスは望みはしないだろう」
「……ッ!」
──目の前が沸騰したように、真っ赤に染まった。
同時に鈍い音がして、熱を持った拳からじくじくと伝う痛みとともに、了見を殴ったのだという事実が、尊の感覚に追いついてくる。
殴られた了見は転がっていくまではしなかったものの、数歩、たたらを踏んで後退った。それから殴られた左頬を押さえながら、尊の方をゆっくりと振り返る。
口惜しいほど澄んだ青い瞳の中には酷く顔を歪めた、怒りを露わにする尊の姿があった。
「お前に、何がわかるんだよ」
震える声で、それでも尊は了見に言葉をぶつけていく。一度吐き出したらもう、止められない。
「お前が!不霊夢のことを知ったふうに言うんじゃねぇ!!」
自分だって、たかだか数ヶ月の付き合いではあったけれど。それでも了見よりはずっと不、霊夢というイグニスを、──パートナーのことを知っているつもりだった。理解なんて難しいことはわからないけれど、不霊夢がどんな性格で、どんなものが好きで、嫌いで。彼がAIなどという括りでは、まるで測れない心をもっていることを、尊は知っている。
彼のオリジンである尊だからこそ、理解できるのだという自負。
なのに、データ以外よく知りもしないはずの了見が口にしたのは、きっと不霊夢ならそう思うのだろう、言葉だった。
それが無性に腹立たしくて、悔しくて。嫌いなはずの男と不霊夢が少しでも似ているのではないかと思っただなんて、認めたくなくて。
「歩みを止めるな。……私が言いたいのは、それだけだ」
了見は血が滲んだ口端の拭うと、それ以上に掛ける言葉はないとばかりに背を向けた。
迷いなく歩いていく背中が憎らしい。不霊夢なら尊に言ったかもしれない言葉を吐く聡明な男が憎らしい。
今の尊には、まっすぐに立っていることさえ難しいというのに。
憎々しげに眺めていた背中が小さくなり、やがて夕闇に溶けた頃。気が抜けたのか、一人残された尊はその場にぺたん、と座り込む。
なんだか、ひどく疲れた。久方振りに人を殴ってしまった手の甲はまだ、鈍い痛みと熱を帯びている。
了見が何をしたかったのかなど、あれしきの会話ではちっとも尊の理解には及ばない。けれど本来、イグニスの消失は彼の目的を考えれば喜ばしいことのはずだ。だというのに、先ほど見た彼は少しもそれらしい言葉を口にはしなかった。雰囲気にも感じられなかった。
むしろ、尊とともに悼んでさえいたかのような、そんな気さえした。
「……ぜんぜん、わかんねぇ」
もう、何も考えたくない。今はまだ、荷が重い。そう思った。思考を先延ばすことは逃げだとわかっているけれど、尊はいくつもの事柄を同時に処理できるような上等な頭など、持ち合わせてはいない。
そのままぐらりと、固い石畳の上に寝転がる。汚いとか、行儀が悪いとか、そういう小言はやはり
もう聞こえてはこない。
──暗いのは嫌いだ。辛い日々の記憶は必ず、その先の悲しい現実まで呼び起こすから。
けれど今だけはその暗闇の泥濘に、少しだけ安堵も覚えていた。
どんな情けない嗚咽も、波の音が。どんな無様な泣き顔も、夜の闇が覆い隠してくれるから。