穂村尊奮闘記 了見が体調を崩したらしい。そう尊が聞かされたのは、彼と会う約束をしていた当日の朝だった。
『体調が優れない。今日は来ないでくれ』とだけ書記された書き記された簡素なメールには、謝罪も埋め合わせについても書かれていない。元々肝心なところで言葉の足りない男ではあったけれど、さすがに予定がキャンセルにされた時にここまでの短文で済まされるのは珍しかった。それだけ体調が悪いということなのだろうかと思うと、少々気にもなってくる。
メールに了承の返信はしたもののどうにも気になり、もやもやと引っ掛かるものがある。それをなんだろうと尊が首を傾げていると、ふと部屋の壁に掛けられたカレンダーを見て、思わず「あっ」と声が出た。
カレンダーの数字の上には、今日から数日間続く祝日の部分に赤で花丸の印がつけられている。これにより尊は、自分で感じていた以上に今日を楽しみにしていたのだと気が付いたのだった。
この連休にあわせて、確か了見はスペクターを含めた他のハノイ全員に休暇を取らせると話していたのを覚えている。だとしたら、今あの家には誰もいないのだろうか。そうなると、彼はたった一人で寝込んでいるということになる。
(……)
まあ、第一に彼は年上の男だ。小さな子供でもあるまいし、自分の面倒くらい自分で見られるだろう。――そうは思えども、尊に他の予定もないからなのか。テレビをつけてみても気はそぞろだ。つい、ちゃんと休んでいるだろうかと考えてしまう。それを続けていれば自然と心配にもなってきて、結局じっとしていられなくなった尊は手早く荷物を纏めると、家を飛び出していた。
了見はしっかりした男だし、尊と違って頭も良いからそう馬鹿なことはしないだろう。来るなと言われたから来てやった。くらいの、そんな嫌がらせにも似た軽い気持ちで尊は鴻上邸へ向かうのだった。だからといって、本気で病人の療養の邪魔をするつもりなどはないけれど。
道中で適当に、あっても困らなそうなレトルト粥やゼリー、冷却シートなどの物資を買い込んで、ビニール袋片手に辿り着いた鴻上邸の前に立つ。インターホンを鳴らしてみるものの、待てど暮らせど返答はない。
ないのならば、それはそれで休んでいるのだろうし、安心でもあるのだが。そうなると尊は、このままずっと玄関先に立ち続ける羽目になってしまう。
「あ。……そういえば」
――確か先日、一人でも訪問可能なように、ついにこの家のロックを解錠するための生体認証を登録しておいたと言われたのを思い出した。告げられた時にはいよいよそこまできたかと感慨深く思いなしたものだが、大抵了見と共に家に来るのがほとんどなので中々使う機会は訪れず、すっかり存在を忘れかけていた。カメラの位置が分からずに時間は要したが、これによりなんとか中に入ることに成功した。
勝手に上がり込んでいいのかは少し迷ったものの、まあ鍵を渡されているようなものなのだし、不法侵入ではないだろう。ここまで来たのなら寝顔のひとつでも見て帰ってやろうとも思う。尊は結局そのまま中へと踏み入った。
見慣れた広いエントランスホールを抜けて、廊下へ足を進める。途中にいくつかの部屋の前を通ったがどこも明かりはついておらず、やはり今、この家には了見一人しかいないようだ。廊下を進んでいくと、一室だけ半端に開いた扉から漏れている光があるのを見付けた。そこは記憶通りならば、書斎だった。
「――あの野郎」
休んでいないじゃないか。
子供ではないのだからと信頼しようとしていたのが馬鹿らしい。考えてみればこの男、仕事が関わる自分を省みないタイプのバカだった。額に青筋が浮かぶ心地になりながら、尊は力任せに扉を開開けるると室内へ押し入った。
「おい病人! 調子悪いくせに、何やって……んだ……?」
そう文句を言いながら中へ入って行くと、デスクには確かに、了見が座っていた。しかし尊がきたというのに、彼はPCの画面に顔を埋もれさせていて反応を示さない。
「……鴻上?」
不審に思ってもう一度声を掛けてみると、三拍も四拍も空けてから、そこで漸く了見は尊の存在に気付いたようだった。項垂れていた頭を緩慢な動作で持ち上げて、重たそうに瞼の下の青い瞳を覗かせる。
「…ん……ほむら、か…?」
普段の怜利さなど欠片もない、ぼんやりとした調子で名前を呼ばれた。その様子に尊は反射的に眉を顰めてしまった。
「お前、もしかして相当具合悪いんじゃないのか? 顔が真っ赤だぞ」
「……へいき、だ」
そう言いながら見栄を張った了見は椅子から立ち上がろうとするが、すぐにふらついて椅子に逆戻りしてしまう。これはどう見ても平気ではないだろう。
「どこがだよ! ほら、寝てないとだめだろこれは」
寝室に連行しようと肩を貸してやると、了見は素直に体重を預けてくる。その体は服の布越しでもわかるほど熱く、足取りもかなり覚束ない。
「薬は飲んだのか?」
「朝だけ……」
「じゃあ、なんか食べてから飲まなきゃだな。キッチン借りるからね」
了見をベッドに押し込めた尊は、勝手知ったる他人の家とばかりにずかずかとキッチンへ歩いていく。頻繁に訪れているとはいえ、覗くことなどそうない他家の冷蔵庫の中身など、今どうなっているかなどは知るはずもない。とりあえず手当たり次第に棚の扉も開けてみたところ、奥の方にいかにも高級そうなレトルト食品の箱を見つけた。中身はカレーライスのようだが、病人にカレーは重すぎる。大体米も炊いていないようなので、安物だが自分で買ってきた粥を食べさせるのが一番良さそうだと判断した。
「鍋とガス台、借りるからな」
この場にいない人間に許可を求めても了承を得られるはずもないのだが、一応は承諾を得られた体でレトルト粥を鍋に移し替え、火に掛ける。それがふつふつと温まってきたと頃、背後からガタンと物音が聞こえ、同時に弱々しい声が聞こえてきた。
「……おい……何をしている……」
振り返ると、ふらふらと危なっかしい足取りでこちらへ向かってくる了見の姿があった。
「は!? 何起きてきてるんだよ! あんたの昼飯を温めてるに決まってるだろ!」
「私の……? なぜ」
「なぜって、何も食べてないままじゃ薬飲めないだろ」
「……くすり」
それきり急に黙り込む了見。どうしたのだろうと顔を覗き込もうとしたところで、ぐらりと体が傾いていくのが見えた。
「うわっ!?」
慌てて手を伸ばし支えてやると、どうやら眩暈を起こしたようだ。了見はそのままずるずると床に座り込んでしまった。
「大丈夫かよ!?」
「…めまいがする……」
そう言う声は掠れていて、今にも消え入りそうだ。これは本格的に不味いかもしれない。
「あーもう、いいから大人しく寝てろって」
とにかくまたベッドに寝かせてやらねばと思い、一度火を止めた尊は半ば引き摺るように了見を寝室まで運んで行った。ベッドの上に横たわらせると、今度こそ抜け出して来るなよと念押ししてから布団を掛けてやる。その間も了見はされるがままだったので、やはりかなり辛いのだろう。だったら起きてくるなと思うわけだが。
「ちょっと待ってて、今お粥持って来るから」
「……」
返事はなかったものの、今はそれに構っている場合ではない。まずはこの病人に何か食べさせてやらなければと急いでキッチンへ戻っていく。
それから数分後。出来上がった卵粥を持って再び寝室へ入ると、今度はちゃんと言いつけを守っていたのか、それとも動く気力さえなかっただけなのか。了見は寝かせた時のまま、大人しく横になっていた。
「お待たせ。起きられるか?」
声を掛けると、緩慢な動きではではあるがなんとか自力で上半身を起こして見せる。それを見届けてからサイドテーブルにお盆を置き、食べやすいように茶碗によそった後にレンゲを添えてやった。
「熱いから気を付けろよ」
そう言って手渡すと、のろのろとした動きで受け取りはするものの、持っていられないのか膝の上に器は乗せたまま、レンゲを持つ手にも上手く力が入らずに、一向に口まで運ばれていかない。
「? ……っ、」
それでもどうにかこうにか一口分を掬って口に運持って行くまでは持っていくまでは漕ぎ着けたが、今度は冷ますのを忘れて口に入れたものだから、慌てて水を飲ませてやる羽目になる。
(あ、これ無理なやつだ)
悟った尊は早々に見切りをつけ、代わりに自分がレンゲを手に取った。ふうふうと少し冷ました後に、食器を奪われて呆然としている了見の口元へ持っていってやる。
「……ほら、あーん」
普段ならばふざけるなとでも言いたげに睨まれるのだろうが、今はそんなことはなく。むしろ素直に口を開けたので、そのまま流し込んでやった。了見はそれをゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。しかしそれも、たった三口程度で止まってしまう。
これ以上はもう食べられそうにない気配がして、仕方がないから残りは後で尊が食べるようにした。味自体は悪くなかったと思うので、単純に食欲がなかったのだと信じたい。
それはそれとして、他人に食べさせてやる機会自体がそうそうないものだから、なんだか餌付けをしているような妙な気分になった事実は否めない。残った粥をお盆に戻して薬を出している間に了見の瞼がとろとろと落ち始めたものだから、尊は慌てて声を掛けた。
「おい、寝るなら薬飲んでからにして」
「ん……」
返事はあるが、なかなか目が開く様子がない。なんとか薬を飲ませようと、尊は水と錠剤を手に了見の目の前に差し出した。
「ほら、薬飲め」
しかし了見はそれを受け取る素振りも見せず、ただぼんやりとこちらを見ているだけだ。どうやら熱だけではなく眠気のせいで意識が朦朧としているらしい。仕方がないと水と錠剤を自分の口に含んだ尊はそのまま口付けて、少しずつ了見の口内に注いでいく。こくりと喉が動いたことを確認して口を離すと、了見は虚ろな目でこちらを眺めていた。
まだ何かして欲しいのかと問えば、小さく首を横に振られる。ならばなぜこちらを見ているのかと思いつつも、まあいいかと、それ以上の追及はしなかった。そんなものよりも、さっさと残りの錠剤を飲ませてしまわなければ。大人は1回3錠が用量の薬だから、最低あと2回はこのやり取りをこな繰こなさなければいけない。さすがに面倒臭くなってきたが、まあ仕方がないだろう。そう自分に言い聞かせながら、もう一度水を含んで唇を重ねた。
何度かそれを繰り返して漸く最後の一粒を飲み込ませると、尊はほっと息を吐いた。これでようやく眠れらせてやれる。あとは薬が効いてくるのを待っていれば快復してくるだろう。食器も片付けなければならないので立ち上がろうとしたのだが、それは叶わなかった。何かに引っ張られるような感覚に下を向けば、相変わらず目は開いていないものの、その手がしっかりと尊の服の裾を握り締めている。
「どうかしたのか?」
「……」
呼び掛けてみるが、反応はない。どうやら無意識でやっているようだ。どうしたものかと対処に困ったが、そういえば尊が幼い頃に、両親がいなくなってから風邪で寝込んだ日の記憶が蘇ってきた。あの時の心細さを思うと、どうにも振り払うのに気が引けた。結局はベッドの脇に舞い戻る形で落ち着いた。
「調子狂うなぁ」
そう言いながら、手持ち無沙汰の尊はすることもないので眠る了見の頭をそっと撫でてやる。いつもはこんなことを絶対にさせるような男ではないのに。それだけ弱っているのだと思ったら、つい溜め息が零れた。
「なんでそんなに無理するかな」
理由はなんとなく察せられる。この連休中二人で過ごせるように休ませた他の人間の分まで一人で業務をこなしていたのだろう。しかも恐らく、体調が悪いことを誰にも悟られないよう気を張っていたのだ。そういう誤魔化しが得意な男なのだろうが、それにしてもここまでくるともはや病気の域だ。その原因のひとつに尊が背負わせた、ネットワークの監視も含まれているのだろうから。少なからず、尊は責任は感じずにいられない。
「……僕のせいで倒れたみたいじゃん。いい迷惑」
聞こえていないのを良いことに皮肉を言ってはみるものの、その言葉には感情が伴わない。心にもない発言なのだから当然だ。こんな風に、身体を壊すほど無理をしろとは望んでいない。
「ほんと馬鹿だお前。ばか。ばーか」
言いながら、起きない程度に頬を軽く抓ってやると、端正な相貌の眉間にきゅっと皺が寄った。酸っぱいものでも食べた時のようなその顔がなんだか可笑しくて、思わず吹き出す。
「はは、まぬけ面」
普段はどちらかと言えば世話を焼かれているのは尊のほうなので、立場が完全に逆転しているこの状況が少し面白くなってもきた。そこへ、ふいに了見が小さく何かを呟いた。よく聞き取れなくて耳を近付けてみると、今度はもう少しはっきりとした声で言葉が紡ぎ出される。
「……とう、さん…」
ぽつりと口に出た音に尊は身を強張らせたが、それきり声はなく、覗き込んだ表情も辛そうではなかった。なのでそれ程悪い夢を見ている訳ではなさそうだ。
(寝言かよ……)
身構えた緊張の分、気が抜けると一気に脱力感が襲ってくる。だがそれと同時に、なんとも言えない複雑な気持ちも込み上げて来たのだった。
夢にまで出てくるほどに、この男の中で父親の存在が心を占めている。そんなことは、とうに知っているけれど。それでも少しだけ、面白くないなと尊は顔を顰めた。
「ふん。……次は尊って呼ばせてやるからな」
聞こえるはずもない決意を口にしながら、尊は椅子に座ったまま了見の隣に傾けて、前半身をベッドに乗り上げる。そうして空いた手で、いつの間にか力が抜けて垂れ下がっていた了見の手をそっと取り、ぎゅっと握った。自分より少しだけ大きくて骨張った男の手は、それでも細くて綺麗だが、普段はもっとひやりとしているそれはいつもより熱を孕んでいた。
「早く良くなれよな」
やはり、ふてぶてしい彼でなければ調子が出ない。目を覚ました時には普段の彼に戻っているといいなと願掛けをし、尊も少しだけ眠ることにするのだった。