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    oimo_1025

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    oimo_1025

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    記憶喪失りょの話。

    #了尊
    haveRespectFor

    Lost 記憶喪失になった、らしい。正確には記憶障害というのだが。
     わたしは事故に遭って数日の間、生死の境をさまよっていたようだ。それを病室で目覚めた際や、その後も甲斐甲斐しく病室に通い看病をしてくれていた人物――スペクターと自らを名乗ったのでそう呼んでいる。敬称をつけたらやめて欲しいと懇願され、よく分からないまま呼び捨てることになった――が丁寧に説明してくれた。
     彼はわたしの家で生活している同居人だった。仕事上では秘書のような存在なのだと聞かされたが、まるで身に覚えのない話で、本当に自分の話なのかと疑ってしまう。しかし彼の他にも、後から現れた父の知人だと主張する男女三人からも同様の話を聞かされたので、どうやら本当の話らしい。
     ひとまず覚えていることは、一般的常識や物の名称。それとやたらと ネット関係の知識は豊富であることが不思議だったが、わたしの仕事がネット関係だと聞き納得した。
     自分自身については、ひとつも思い出せなかった。
    まず名前。――鴻上了見。それがわたしの名だという。父の名は聖。半年ほど前に亡くなって、他の血縁者はいないそうだ。寂しいのような気もしたが、悲しむ者が少ないのは不幸中の幸いだ。
     正直な話、忘れたのが自分のことであったのも良かったように思う。日常生活における基本的な知識を失っている方が、遥かに生活を送るのに難儀するからだ。
     もちろん自分のことを覚えていないのは不便だ。けれど食事のマナー、礼儀作法、交通ルールや法律。それらが分からなくなっていたとしたら、きっと今以上にスペクター達に多大な迷惑をかけていたに違いなかった。

     海に接した崖の上、そこを拓いた場所にある広い屋敷が私の自宅だった。やたらと広い割に物が少なかったが、これがわたしの好みなのだろう。広さで落ち着かないということはなかった。
     家の中を一通り案内される中、一部屋だけ立ち入らないよう忠告された二階の開かずの間。どうやらそこは父の研究資料が遺された部屋のようなので、今のわたしが不用意に触れるべきではないということなのだろう。迂闊に触って貴重な資料を喪失されてしまっては事なので、そこに不満はない。
    「少し、散歩に出てきます」
     この家で暮らすのにも慣れてくると、私は定期的に気分転換も兼ねた海沿いの散歩に出るようになった。時折公園の入り口付近で店を広げている移動式カフェで食事を摂るのが数少ない楽しみの一つでもある。
    「いつもの、お願いします」
    「あぁ、……いらっしゃい。いつもの、ね。少し待っててくれ」
     この店は記憶を失う前から通っていた店だったようで、初めて顔を出した時には酷く驚かれた。どうやら世間話くらいはする間柄だったようで、彼はわたしの記憶についての話を多少なりと耳に挟んでいたらしい。気まずい思いをさせてしまったようだが、心配の言葉を掛けてくるあたりに彼の人の良さが滲んでいる。
    「なぁ、まだ自分のことはなにも思い出せないのか?」
     ソーセージの焼ける音を伴奏にしながら香ばしい匂いに乗せて、顔を合わせる度に尋ねられる挨拶のようになってしまった問いを今日も受ける。わたしがいいえと答えると、店主はそうか、の一言と、いつもするように眉根を寄せた名伏し難い表情を見せた。
     毎度このやりとりの後に彼が見せる、どこか不満があるような、安堵するような気配が一体どこから発現しているものなのか。それがわたしには検討もつけられなかった。

    「ッ、鴻上!」
     カフェを出てから公園内を散策していると、突然聞き覚えのない声に呼び止められた。――いや、手を掴まれ、引き止められた。
    「?……あの、」
    「おまえ、なに。記憶ないって、なんだよ……!?」
     引き止めた相手は私と歳の近そうな、けれど少しばかり歳下にも見える少年だった。一見すると大人しそうに見える眼光は強い力を放っていて、掴まれている手の力もなかなかに強い。
     彼の気が動転している状態であるのは人目でわかった。けれども、当然のように私は目の前の彼には覚えがない。
    「……すみません。どなたでしょうか?」
     相手が名乗ってくれない以上、こちらからはそれを問うしかない。すると彼は淡紫の瞳を見開かせ、半端に開いた唇を戦慄かせる。はく、と音のない開閉を経た後に絞り出した声は「……なんだよ、それ」と、目の前の現実が受け入れ難いといった様子だった。
    「わたしはどうやら記憶を失っているらしく。申し訳ないのですが、きみのことが分からない」
     ぎり、と掴まれた手に、短く切り揃えられた爪先食い込む。それだけ強く握られていたというはなしで、正直に言えば痛いのだが。それ以上に目の前の少年の様子がわたしには気掛かりだった。
    「…………なに、それ。意味わかんない」
     淡紫が一瞬、焔を走らせたような朱に染まる。触れた場所からカタカタと伝わる震えはいっそ憐れなほどで、記憶をなくしたと知った時のわたし自身よりも、よほどショックを受けているように見えた。
    乱れた息遣いは過呼吸とまではいかないが、放っておくのは少し危うさを感じさせる。
    「すみません。そのうち思い出す可能性もあるそうですが……ひとまずなんと呼べば良いだろうか。名前を教えてくれると有難い」
    「……いや、いい。覚えてないんだろ。だったら忘れていろよ。僕のことなんか」
     提案はいとも容易く突っぱねられる。
    正直意外だった。今の状況に陥って以来、思い出してくれと言われたことはあっても、忘れていろと言われたことはなかったからだ。
     伏せられた少年の表情は読めなかった。けれど、握られたままの手の上にはぽとりひとつ、雫が流れ落ちた。
    「なんだよ」
    「うそつき」
    うわ言のように抜けていく声に連なって、ひとつ、またひとつとぬるい涙が肌の上を舐めていく。
     なぜ、彼は泣いているのだろう。忘れられたことが悲しいのだろうか。しかし彼は、自分の口で忘れていろと言っていたのに。
    「すまない」
     きっと、奇妙な光景だったろう。真昼の公園で泣き出す男と、その男に手を掴まれたまま立ち尽くしているわたしの図は。
     振り払おうと思えばもちろんできたが、どうしてだろうか。やはり、それをする気にはならなかった。触れている温もりは知らないはずなのに、懐かしささえ覚えていて、頭が混乱する。
     そこに失くしたなにかがあるような気がして、わたしはもう一度尋ねずにはいられなかった。断られてももう一度、きっと何度でも問うのだろう。
    「教えてくれ。……きみの、名前を」
     目の前の相手を、このままずっと『きみ』としか呼べない。
    それは一体、どうしてだろうか。

    この時のわたしには、それがとても。耐え難い拷問のように感じられたのだ。

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