【了尊】fake/fateオメガバース①
この世に存在する性別は男女の二つだけではない。
男女から更に細分化されたアルファ、ベータ、オメガの三種の性。これは人類の進化とともに発現した後天的な性別であり、現代社会においては一種のステータスのようなものとなっている。
優秀な人材が多いとされるアルファ性は
その能力だけに留まらず、容姿さえ整った者が多い。まさに成功の人生が約束されたような人々からの羨望の対象であり、より優秀なαをパートナーに持つことはそれ以外の大半の性別を持つ者にとっては悲願になりつつあるともいえる。
とはいえ、アルファの数は人口の5%にも満たない。大半の人間はそのような夢物語には縁遠く、世間ではベータ同士の婚姻が最も一般的である。
しかし同時に、羨望される側がいればその逆もまた存在した。人間は皆、平等に産まれるものではないからだ。
大多数の人間がベータ性に分類される世界で、アルファと同じくほんの一握りだけ存在するのが「オメガ」と呼ばれる特殊な性を持つ性別だ。彼らは総じて繁殖に特化した性質を持ち、その特性故に社会的地位が低く、差別されることも多い。
その特性というものの一つに「発情期」というものがある。オメガの成長過程で身体の成熟とともに訪れるそれは三ヶ月に一度、約一週間ほど続き、その間は日常生活に支障をきたすほどの強い性欲に襲われる。個人差こそあるが、発情期間中のオメガは基本的に自己では抑制の利かない強烈フェロモンを発し、アルファ、ベータを問わず番のいない者を誘惑してしまう。そのため、社会生活を営む上での支障が非常に大きい。それ故、彼らはまともな職に就くことさえ難しく、社会的な弱者として冷遇されることも非常に多かった。
子供を産むだけならアルファでも、ベータでも可能。故に世間的に見て、独身のオメガ性の人間は劣等種とされている。抑制剤の開発が進んだ現代では昔に比べれば大分マシにはなったものの、それでも根強く残る偏見は未だにあるのも事実だった。
彼らだけに存在する特徴とするならば、他に子を授かりにくいアルファの子でも、発情期に種子を植えれば確実に子を成せるという一点と、生まれ落ちた瞬間から数少ないアルファに対し運命の番と呼ばれる特別な繋がりを持った相手が存在していることなのだが。しかしそれも、運命になど出会えず人生を終える者、子を成すための道具として使い潰される者も後を絶たない結果を生んでいた。
これはそんな、運命に翻弄される者達の話だ。
「この前卒業した佐藤って先輩、運命の番に出会ったんだってさ」
授業の合間の休憩時間のことだ。クラスメイト達の交わしている会話が偶然尊の耳に入ってくる。窓際の席に座る尊は頬杖をつきながら、何となしに彼らの会話に耳を傾けていた。どうやら話題の中心は最近付き合い始めたらしい二人のようだ。
「え、マジ?」
「進学予定のキャンバスに通う先輩だって話なんだけど、もう結婚の約束までいってるらしいよ」
「うわぁ……電撃結婚じゃん……」
「恋愛なんて興味ないって、言ってたのに今じゃ真逆って部活の先輩が言ってた。そこまで変わっちゃうなんて、凄いよねぇ」
きゃっきゃと楽しそうに話す彼女達の声は、どこか他人事のようで――実際無関係な彼女達から見れば、所詮他人事なのだろうけれど。
そのオメガの先輩とやらは、きっと今まで散々な人生を送ってきたはずだ。聞けば大学入試だって性別で落とされかけていたのを訪問先の大学でアルファの番に出会ったことで評価が一変したのだと聞く。正直胸くそ悪い。
「いいなぁ。私も運命のアルファ様に出会いた〜い」
「バカね。ベータのあたし達には、そんなの無理に決まってるでしょ。だからってあんたはオメガになりたいと思うわけ?」
「いやぁ、ちょっと無理。もし番に出会えなかったり拒否られたらもう最悪じゃん」
教室の片隅で繰り広げられる夢見がちで残酷な会話を、尊は窓の外へ視線を向けながら静かに聞いていた。呑気にそんな会話ができるということ自体、幸せなことだというのに。それはまさに他人事だからこそ口にできる、あまりにも無神経な会話だった。
その無神経に晒される側。――そちら側に位置している尊にとってここは、反吐が出るような世界だ。
尊は元々『ベータだった』。
六歳の時、ある事件に巻き込まれた。連れて来られた施設では、ベータ変異させることで減少傾向にあるオメガ性を人工的に作り出そうという研究が違法的に行われていた。
不運にも攫われて投薬実験を施された結果、尊の身体は後天的なオメガへと変質してしまったのである。やがて施設からは救い出されたが、変えられた性別が今日日元に戻ることはなかった。
普通のオメガと違い、不完全な人工オメガである尊は通常よりも発情期の頻度が少ない。一般的な周期の三ヶ月よりも長い半年に一度来るかどうかという程度な上、オメガ特有のフェロモンさえ撒き散らさない。正確にはフェロモン自体は発しているものの、非常に微弱なそれは他者を誘惑する効果を持たない。マイナスだらけの変異。それでもフェロモンによって他者を誘惑せずに済むことだけは有難かった。
抑制剤さえ服用していれば周囲に影響が出ることもないため、政府が下した特例措置にて普段はベータと性別を偽って、普通の人間と変わらない生活を送れている。
けれど、そこには一つだけ問題があった。それも、致命的な問題が。
この日、学校を終えた尊が向かうのは病院だ。
「エマさん、こんにちは」
受付を済ませて診察室に入ると、予約してあるので当然だが見知った顔の医師がいた。いつもお世話になっている担当医である彼女は、今日も変わらず高潔な白衣を格好良く身に纏っていた。
「あら尊くん、いらっしゃい」
その女性こそが尊のかかりつけの医者であり、バース性の研究にも精通している女性研究者の別所エマだ。
「今日は定期検診よね。最近調子も良さそうだし、今回はこっちの薬に変えてみようと思うんだけど。回数は朝夜一錠ずつね」
「違和感があればすぐに来い、ですよね」
簡単な問診と触診をこなしながら、何度も繰り返してきたやりとりを交わす。この病院で処方されている抑制剤は市販のものに比べても効果が高く、副作用も少ないので助かっている。オメガ用の保険適用外なので値段は高いのだが、尊達の存在は国家機密クラスだ。経過観察をこの病院で取るという条件付きで、特別措置によりこれらは無償で提供されていた。もちろん、守秘義務はあるし、万が一にでも情報が漏洩すれば大変な事態になるので扱いには十分注意しなければならないのだけれど。
「……あの、先生」
手渡された薬を仕舞い込んだところで、ふと気になったことを訊ねてみることにした。
「何かしら?」
「……運命の番って、僕にもいたと思いますか?」
「あら、あなたそういうの興味あるの?」
意外そうな声音に、苦い顔をする。興味があるのはどちらかといえば逆の意味で、なのだが。
「そういうわけじゃないんですけど……ちょっと、クラスで話題になってたから」
暗く沈んだ顔を見せる尊の様子から何かを察したエマは、僅かに悩む素振りを見せた後、モニターにグラフのような画像を表示させた。そこには運命の番と結ばれたオメガの数を集計した、ここ20年ほどの記録を纏めたもののようだった。それを見る限りでも運命に出逢う確率というのは非常に低いもので、それこそドラマのような、期待すべきではない奇跡なのだということがわかるほど低い結果だというのがわかる。
「確かにアルファとオメガの番は特別な繋がりがあるって言われてるけど……これを見てもわかるように、あくまで都市伝説みたいなものね。権力、財力のあるアルファ側躍起になって探し回れば確率も上がるでしょうけれど、そうそう巡り合う数字じゃないわね」
「ですよね……」
よかった、と小さく漏らした声は、恐らくエマにも聞こえていただろう。尊が気にかかったのは、学校での噂話が原因だ。
いわく、佐藤というあの先輩は、出会った瞬間に互いに運命だとわかったと言っていたらしい。その瞬間に世界が塗り変わるような感覚に陥ったのだとか。
まるで神の福音だったとでも言いたげなその話は、尊にとっては恐怖以外の何者でもなかった。
(……もし、本当に運命の相手なんてものが存在するなら)
それはきっと、尊が尊でなくなってしまうということだ。顔も名前も知らない誰かのために今ある自分が作り替えられてしまうなんて、考えただけでぞっとする。
「まあ、あなたの場合は更に特殊だし、あまり気にすることはないんじゃないかしら」
「……そう、ですよね」
その言葉に少しだけほっとする。
通常のオメガでさえ運命と遭遇するのは稀なのだ。後天的な、それも人工的な変質によってオメガ化した尊に対となる運命の相手など、とてもいるとは思えない。そもそも現れたところで、相手はきっと、尊など拒絶するに決まっていた。
どちらかといえば運命の番が現れるよりも、この壊れた性が正常に戻る確率の方がまだ望めるのでは、とすら思うほどに。
「──ねえ、尊くん。まだ、アルファの男の人は怖い?」
突然の質問に、尊はしばし考える素振りを見せてから口を開く。
「……怖い、ていうか、嫌い、です」
思わず伸びた手が頸の裏を摩る。そこには傷跡一つついてはいなかったものの、視覚的情報と事実は異なる。
「番なんて、いらない。僕は一人でいい。一人がいい、です」
「……そう」
エマはただ静かに、痛ましげに微笑んで、それ以上何も言わなかった。
――しかし、必要がないと思ってはいても、向こうから勝手に現れる。
そんなことも、ある。
尊がデンシティ・ハイスクールに通い始めてから二回目の春。午前にある入学式の後、午後から二年生以降を含めた始業式がある時間の関係で、学園内外は入学生の親を含めた来賓で賑わっていた。
そんな中、尊は午後からの始業式に合わせて登校し、教室へ移動する道すがらだった。一年間着用して体格にフィットしてきた代償にくたびれてきた制服を纏う尊とは違い、真新しい制服に身を包んだ後輩達が緊張と期待に満ちた眼差しで歩く光景がどうにも眩しくて。人の多い場所を歩く気にならず、時間もまだ早いからと人気のない裏庭に移動して、時折昼食をとっているベンチに腰掛けた。
上を見れば桜の花がまだいくらか残っており、そこから舞う花弁が頬を掠めては去っていく。少し強めの風にはらはらと舞い落ちるその美しさにほうっと息を吐けば、人の多さに疲弊していた心が安らいでいくのを感じた。
ぼうっと桜を見上げながら物思いに耽っていると、ざりっという砂を踏む音が耳に届く。誰か来たのは感じ取れたが、こちらが先約だと言わんばかりに無視を決め込んだ。その直後に、頭上から軋むような、奇妙な音。
「危ない!」
「え」
男の声がしたのとほぼ同時に強い力で腕を引かれて、そのままベンチから引き摺り下ろされる。直後、さっきまで尊がいた場所に折れた枝が落下し、激しい音を立てて地面に叩きつけられた。
「な……」
何が起きたのかわからずに呆然とする尊を他所に、腕を引いた張本人は素早く尊の様子を見渡し、覗き込んだ。
「怪我はないか?」
見たこともない、宝石のような鮮やかな青い瞳。これが物語であれば、もしかしたら運命の相手だとか、そういうこともあったかもしれない。しかし尊が感じたのは、そんな甘やかなものなどではなく。
男は銀糸の髪に青い瞳に凛々しい眉、長くたっぷりとした睫毛は女性に勝るとも劣らずで、配置された顔のパーツはきっと美しいものを造ろうとするとこんなかんじになる。というものをまさにそれを体現したかのような容姿をしていた。
これまで尊が見てきたどんな人間よりも美しくて、──それと同時に、ひどく、吐き気がした。
(……なんだ、こいつ)
嫌な汗が背中を伝う。胸の底から込み上げるような嫌悪感に、吐きそうになる。この目の前の男は危険だと本能が警鐘を鳴らすも、身体が思う通りに動かない。理性とは裏腹に、尊の身体は目の前の存在に対して拒絶反応を示していた。
「……あ……」
何か言わなくてはと思うのに言葉が出てこない。動揺で固まる尊の様子がおかしいことにようやく気づいた男の視線が、訝しげに下げられる。目が合った瞬間、男の眉間に皺が寄ったのを尊は見逃さなかった。
「きみは、まさか……」
──ばれる。直感でそう、思った。
『え、お前って、オメガなの?』
昔、祖父母の田舎で暮らしていた頃。仲が良かった数少ない友人の一人に言われた言葉だ。
それまでは毎日一緒に遊んで、笑い合っていたのに。幼かった尊は深く考えずに自分がオメガだと友人に話してしまい、その直後から、彼らから向けられる目が変わった。
まるで汚いものでも見るように尊を蔑み始めたのだ。
『ごめん。オメガは家に呼んだらいけないんだって』
それ以来、遊びに誘われなくなった。クラスでも浮いた存在となり、距離を置かれた。中学に入ってからもすぐに噂は回り、上級生からは性的暴行を受け、そこで尊は──そのうちの一人に、項を噛まれた。同意のない、強制的な番契約。もちろん尊と番う気などさらさらなかった相手は、直後に番契約を破棄してきて、その時の反動と後遺症から尊は登校ができなくなった。
中学を卒業する頃までその生活は続き、いい加減嫌になっていた時だ。成長に合わせて強力な発情期が訪れる可能性を考慮し、都会で最先端の医療サポートを受けられるいう名目でデンシティに移り住まないかとの打診が入ったのは。
逃げるように田舎を出た尊は自身の第二の性をひた隠し、ベータと偽ることで漸く普通の生活を手に入れた。
それを
(日常が、壊される)
本能が叫ぶ。この男の前にいてはいけないと、告げてくる。
「──ッ、すみ、ません……怪我はないので。大丈夫、です」
失礼します。男の様子を窺う余裕などなく、慌ててそれだけを捲し立てて足早にその場を立ち去った。
後ろで男が何事かを言っているような気がしたが、振り返ることなく校内に飛び込み廊下を走り抜ける。男子トイレに逃げ込んだ尊はそのまま個室に入ると、鍵を閉めてうずくまった。
(なに。なんだ、あれ)
シティにきてから、こんなことは一度もなかった。おそらくさっきの男はアルファなのだろう。容姿だけ見ても、あの造られたような美しさは明らかだ。しかしこの不調の意味はわからない。運命の番だなんてものでは、とてもなかった。男を見て尊が感じたのは、そんな甘やかな感覚でも
、幸福感でもなく──吐き気を催すほどの嫌悪だった。
「、ぇ……」
込み上げる嘔吐感から便座の蓋を開けて顔を突っ込む。びちゃびちゃと吐瀉物が陶器を叩く音がして、胃液のすえた臭いが充満した。
早い時間に学校へ着いていたのが幸いし、尊はどうにか、始業式から空席を作るようなことにはならずに済んだ。
「ねえねえ、新しい理事長、見た?」
式典時間までのあいだを教室で過ごす訳だが、今年で二年生を迎えるクラスは一年の時とは違い、希望進路に合わせて再編されている。
ちらほらも顔見知りもいはしたが、特別仲の良い友人を作らなかった尊は運良く得た窓際の席から桜、が散ってすっかり寂しくなった校庭をぼんやりと眺めていた。だからだろうか。教室の後方で固まっている去年からクラスが同じ女子達の会話は、聞きたくもない尊の耳にも一方的に流れ込んでくる。
「そういえば今年度から変わるんだっけ?」
問われた女生徒は何も知らないようで首を傾げると、興奮した様子の女生徒はぐっと顔を近付けて声を潜めた。
「なんかね、パパの話だとすっごいお金持ちの資産家って話なのよ」
その話を聞いて真っ先に思い浮かんだのは、でっぷりと肥えた成金のような男だった。金にものを言わせれば何でもできると過信しているような男が、学校の理事長をすることで地域貢献していイメージでもつけたいのだろう。
「イケメンかな?イケメンだといいなぁ」
「あんた好きねえ」
「そりゃーなんだってキモいおっさんよりイケメンのほうがいいじゃん!ね、穂村くんもそう思わない?」
「……え…僕に振らないでよ」
いきなり話を振られたことに驚いて、しかしそれを表に出すのも癪なので小さく溜息を吐く。話題を振ってきた女子はそれが気に入らなかったようで、「何その反応〜」と拗ねた声を出したが、尊の顔色があまり良くないことに気が付くと、「大丈夫?」と気遣われた。
ギリギリまで机で突っ伏して回復させた後、始業式が始まった。式でやることといえば新入生への歓迎と祝辞の言葉を生徒会長が延べ、ほぼ座ったまま来賓や教員の長い話を右から左に聞き流しているだけなのでそれほどの苦ではない。
しかし、残るところ新しい理事長の紹介と挨拶のみとなったところで事件は起きた。
「理事長、ご挨拶をお願いします」
進行役の教頭の指示により壇上に上がってきたのは、見覚えのある男だった。短髪と呼ぶには少し毛足の長い跳ねた銀の髪色と、遠目から見てもわかる整った容姿。ギリギリ二十歳になったばかりか、というくらいの年若い男だったから考えもしなかったが、今朝の男が新しい理事長だったのかと、今更知ることになった。
「……っ!」
思わず叫びそうになった口を慌てて塞ぐ。
「あれが新しい理事長!?」
「え、めっちゃ若!それにイケメンじゃん」
尊の動揺は、理事長に気をとられていた周囲に伝わらなかったようだ。ざわざわとどよめく生徒達を宥めるアナウンスの後、静寂が戻った頃に壇上から生徒達を俯瞰し眺めていた理事長が口を開いた。
「初めまして、皆さん」
よく通る声低音がスピーカーから流れ出し、ざわついていた空気がしんと静まり返る。
「この度、新学期より当校の理事長をさせていただくことになりました。鴻上了見です」
声までかっこいい、と騒がしくならない程度の小声で会話する女子達。壇上の男は自身が就任に至った経緯や、この学園を今後どのように発展させていきたいのかをすらすらと、抑揚のない声でと述べていく。
耳障りの良い声、とは思う。しかし尊
にとってはどうにも受け入れ難い。理由は不明だが、苦手だ。耳に流れ込んでくる声は次第に尊の中に渦巻く不快感を増長させていった。
「……ですので、新入生の皆さんは学園生活を有意義に送るためにも、ぜひ勉学、スポーツ、それ以外でも様々な分野に興味を持ち、積極的に取り組んでいってほしいと考えます。私達はそのサポートを惜しみません」
そう締めくくり、理事長──了見は、一礼して壇上から降りていく。
今朝のこともあり、尊の不調はそこで最高潮に達していた。気分が悪い。座っているのも辛い。
「それでは、理事長よりお言葉を賜りましたので、これで入学式を終了と──」
がしゃん、と大きな物音がするとともに、女生徒の悲鳴が上がる。
「穂村くん!?」
「ちょっと、どうしたの!?」
突然倒れた尊に周囲が騒然とする。近くにいた生徒達が慌てて駆け寄り声をかけるも、尊の意識は徐々に遠のいていく。
まずい、と思いながらも指一本動かせななかった。覗き込んでくる生徒の顔もぼやけていて、おそらく去年から見知った誰かだろうとは思うけれど、判別が利かない。
(あ、だめだ。これ)
意識を手放す間際、視界を掠める青色を、見たような気がした。
夢を見ている。そう思ったのは、目の前の光景があまりにも現実離れしていたからだ。
まず、自分がいた。それから顔の見えない誰か。
尊はその誰かと親密な関係なのか、相手に寄り掛かったり、逆に寄り掛かられたりと、まるで恋人同士のような距離感で接していた。
『──』
その誰かが尊の名を呼ぶと、それに答えるように目の前の自分は嬉しそうに笑う。
(……なんだ、これ)
こんなものは当然尊の記憶にはなくて。なら、願望だとでもいうのだろうか。──そんなはずはない。尊は誰も求めていないし、愛してもいない。
こんなものは、知らない!
「……っ!!」
目を開けて最初に目に入ったのは、白い天井と蛍光灯だった。次いで、自分が寝かされているベッドを囲むカーテンが視界に入る。
「……?ここ、は……」
呼吸をすると独特な消毒液の匂いが鼻をつく。どうやら保健室に運ばれたようだった。
「目を覚めましたか」
声に気付いたのだろう、閉じられていたカーテンが開いて中に入ってきたのは、倒れた原因とも言える相手。先程壇上で見たばかりの理事長──鴻上了見だった。
「……ッ!?」
慌てて身体を起こせば、ぐらりと視界が揺れる。貧血でも起こしたのか、すぐにベッドに逆戻りだ。
「無理をするな。倒れたばかりなんだぞ」
「う……」
「養護教諭は少しの間席を外しているから、私は代理だ。呼んでくるから、横になって待っていなさい」
尊の様子から、まだ不調は続いていると判断したのだろう。呼ばれた養護教諭は、いくつかの簡単な診察の後、貧血のようだが念のために病院で看てもらうようにと指導を受けた。
「親御さんは在宅?」
「あ、…いえ。僕一人暮らしなので」
「……そう。ならどうする?タクシーか、もう少し休んでいても大丈夫だけれど、自分で行けそう?」
タクシーなら確かに楽だが、祖父母の仕送りで一人暮らしの学生にとってはなかなかの痛手だ。自力で行くと答えようとしたところで、想定外の案が滑り込んできた。
「ならば、私がお送りしましょう」
「は……?」
「いいんですか?理事長」
養護教諭の視線が尊と了見の間を行き来する。その目には就任早々生徒のために自ら動く理事長への驚きと、感心が浮かんでいた。
「ええ。このまま一人で帰すのは少し心配ですから」
「……わかりました。私はまだ出られなくて。すみませんが、お願いしてもよろしいでしょうか?」
すっかり真面目な好青年に絆された教諭は、そうと決まればあっさりと後のことを了見に任せ保健室を出て行ってしまう。
「……へ?」
二人きりにされてから数秒、尊は漸く事態がとんでもない方向に進んでいることに気付く。
「かかりつけ医はどこですか?」
「ひ!い、いえ、僕一人で帰れますから」
さっさと出て行こうとベッドから降りるのを、しかし了見が手を掴んで止めた。
「まだ万全ではないはずだ。ここできみを一人で行かせれば、任されたこちらの業務放棄になる。……どうやらきらわれてしまったようだが、取って食いはしない。今日のところは大人しく送られてほしいのだが」
有無を言わさぬ、とはこのことだろう。尊が無理矢理振り切って出て行けば、養護教諭から尊を任されたこの男は理事長就任初日から体調不良の生徒を放置したとして、責任を問われることになる。「うう……」
いくら彼が不調の原因なのだとしても、初対面の理事長をそこまで困らせたい訳でもなければ、尊とて悪者にはなりたくない。
「……デンシティ中央病院」
ぼそりと、小さな声で答える。それがかかりつけ医のことだと、了見はすぐに理解したようだった。
「わかりました。では、移動しようか。穂村、立てそうか?」
「はい……あれ、名前…?」
「ああ。倒れた時に周囲の生徒達が呼んでいたいからな」
なるほど、と納得しながら差し出された手を取る。再び具合が悪くなるのではと危惧したが、やはり違和感は覚えたが幸い再び倒れるほどの激しい苦痛までには至らなかった。
(慣れ…?)
一体何に慣れるというのか。わからないまま、了見に先導されて保健室を出る。
荷物を持って裏手へ回ると、黒塗りのいかにも高そうな車が一台、待機していた。
(うわ、これ絶対高級車)
そもそも運転手が別にいる。
了見は後部座席のドアを開けて尊を座らせると、次いで自分も隣へ乗り込んできた。二人が乗り込んだことを確認し、車はゆっくりと前進を始めた。
「あの、」
「なんだ?」
「……その、お手間をかけさせてすみません」
尊としては彼のせいで倒れた感覚があるのだが、そんなもの了見は知る由もない話だ。
「問題ない。今朝は驚かせてしまったことだしな」
どちらかというと尊は今朝も彼に助けられた側なのだが。しかしそれを言うのはなんとなく憚られて、「いえ」とだけ返す。
「……あの、理事長っておいくつなんですか?」
ふと、気になったことを聞いてみただけだった。しかし了見は自分に興味を向けられたことに少し驚いたような顔をして、二三瞬いた後ですぐに表情を戻し質問に答える。
「今年で二十歳になる」
「やっぱり。その時で理事長なんてすごいですね」
「別に、大したことではないさ。この学園には元々父が寄付した多額の献金で運営されていた。二年生のきみなら知っていると思うが、前任の理事長は私利私欲のためにその資金を横領していたからな。そのため今回は私自身が就任し、その腐った膿を全て出そうという分けだ」
「……そう、なんですか」
「ああ」
前任の理事長は今日の式典のような、大きな式の時に挨拶を耳にするくらいしか尊も知らなかった。横領の話もネットニュースとクラスの情報通から得たものに過ぎず、今ひとつ実感は湧いていなかった。
「今後は老朽化した施設の建て替えや備品の交換を迅速に進めていく予定だ。不便な場所や古くなって危険な物を見つけたら、遠慮なく報告してほしい」
「……わかりました」
全くもって、真面目な男だ。彼が言うからには、今まで本当に届いていなかった全てに手を回すつもりなのだろう。
相変わらず胃がむかむかとする感覚は続いている。しかし、どうにもこの男、悪人という訳ではなさそうだ。
ちらりと横目に隣を窺えば、車窓から外を眺めていた視線とかち合った。それに驚いた尊はびくっと震えてしまい、了見が苦笑いする。
「そう緊張するな」
「……し、してません」
「表情が強張っているようだが」
「これは生まれつきです」
まさか、お前といると具合が悪くなるんだなどとは言えず、食い下がられたことにムキになって言い返せば了見は一層、興味を持った様子で尊を見つめていた。まるで微笑ましいものでも見るかのように目を細められて、居心地が悪い。
(なんかこの人……変な人だな)
そうこうしている内に車が目的地へ着いたようだ。窓から見慣れた病棟が見えてきて、ようやくこのなぞドライブも終わりだとほっと息をつく。
「病院の後は自分で帰れるので、ここまでで大丈夫です。送っていただいてありがとうございました」
ぺこりと頭を下げると、了見は暫し逡巡した後に渋々と了承した。まるで予め断らなければ外で待っているつもりだったかのような反応が気になって、尊が顔を顰める。
「気を付けて帰りなさい。…では、また学校でな」
理事長と一生徒など、そうそうかおをあわせるものでも無いだろう。に。そう言い残し、車を発進させる了見を見送りながら、なんだか不思議な縁ができたものだなと尊は思った。
その後は病院で一通りの検査と診察を受けた結果、特に異常は見られないので休養するように、とのことで自宅で安静にするよう命じられてしまった。
結局了見が目の前に来たことで体調不良を起こした理由は分からず、エマには先日の薬が合わなかったのかもしれないと言われ、また薬の種類が変更になった。
帰宅する頃には、やはり本調子でないせいかくたくたで、すぐに夕飯と風呂を済ませるとベッドへ潜り込む。
そのままうとうとと船を漕ぎながら、改めて今日の出来事を反芻した。
──理事長はやはり、とんでもなく小綺麗な男だったとは思う。女子生徒達が色めき立つのも仕方がないと思えてしまうくらいには。
「でも、なんか……」
なんだか、おかしいのだ。
何がどう、と問われても答えられないが、あの理事長のことが尊はどうしても苦手に思えた。性格が合うかどうかは知らないが、毛嫌うほどの要素などはまだ
見当たらない。
(ぜんぜん、わかんねえや…)
そうして考えているうちに、尊は眠りに落ちていた。この日の出会いが、尊のこれまでの日常をひっくり返すことになるなどとは、夢にも思わずに。