わがまま姫薪さんはわがままだ。
まず人の言うことを聞かない。休めと言っても休まない。休暇申請の承認をするのが自分だからって、人には休めだとか僕が上から怒られるんだとか言うくせに、自分の有休は繰り越しすぎて上限を超えて変えているんだろう。
ワーカホリックなのは重々承知だし、仕事が好きなのは一般的に見て良いことだ。
だが別に薪さん1人で抱え込む必要のない案件でも飲まず食わず休まずでやるのはやめて欲しい。もともと小鳥のような量しか食べないし、胃弱なせいでエネルギー量の少なそうな、よく言えば胃に優しそうな食べ物しか摂らない。加えてひどい偏食ときた。手を替え品を替え、少しでも栄養のあるものを食べて欲しくて、オレはこの人のために料理の腕も磨かれつつあると思う。
寝ない、言うことを聞かない、食べないに悩むなんて、子育てする親じゃないんだから…と思ってしまう。
管区内で凶悪事件が起こり、第三が総出で何徹もしながら捜査を続けていたことは知っている。その間何の音沙汰もなくプライベートのLINEの連絡にも既読がつかないので、邪魔をしないように我慢していたのだが。金曜日の終業時刻間近、プライベート用のスマホからラインの通知が来たことに気がついた。
『終わった。今日この後僕の家に来い』
…今日…?今日の今日で?
ぽかんと口が開いたまま、えーっと今日の舞の習い事の迎えの時間は、土日の母さんの予定は、など瞬時に回想を巡らせ可否を考える。捜査はもうひと段落したのか、もし可能でもこれから諸々準備しても日付は超えてしまうが何時までなら待ってくれるのかなど色々聞きたいこともあるのに、オレに返答の余地を与える前に東京への最終便の航空券を送ってきた。どうやらこれは薪さんの決定事項らしい。
部下に断りを入れて定時で上がってすぐに土日も持つ分の食材の買い出しをしてから舞を迎えに行き、舞と母の分の夕食の準備をする。幸い母も土日は家にいる予定だったようで、東京で仕事が入ってしまってこれから東京へ飛ぶことを説明すると、快く送り出してくれたが些か嘘をついていることに心が痛む。
でもそれより何日も続く捜査が終わり、忙しさから解放されたあの人が真っ先にしたいと思ったことが"オレに会いたい"なのかと想像したら舞い上がるほど嬉しくて、あれから何を言っても全く返信も既読すらないのにウキウキと準備を進めてしまっている。
きっとドアを開けたらすぐに出迎えてくれてくれるだろうから、抱きしめてお疲れ様ですとキスをしたい。そして明日は薪さんの好きなものを作ってあげて食べさせたい。
あれもこれもと準備していたら搭乗時間ギリギリになり、危うくグランドスタッフに呼び出されてしまうところだったが走って搭乗口へ向かい飛行機へ飛び乗った。
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到着時刻については先ほどLINEをして、それには既読が付いたので確認はしてくれているはずだ。とっくに日付は超えている時刻のため、合鍵を使いそっと扉を開け、ドアの向こうにいるであろう愛おしい人を想像して心が踊る。
「あれ?」
玄関はセンサーライトで電気がつくものの、続く廊下とリビングの電気はすっかり消えており、既に冷房が切られた室内はやや蒸し暑い。そして、まず待ち焦がれた恋人の姿がない。
荷物を玄関に置き、寝室を覗くとひんやりとした心地よい空調のなかに、肌触りの良いタオルケットに包まれた愛おしい恋人が横になっていた。
ひとを九州から急に呼びつけておいて寝ているのか、と思うがこの人の疲労とすーすーと穏やかな寝息が聴こえると顔が緩む。
でもせっかく会いに来たのだから、キスくらいはさせて欲しい。
「…おい。手ぇ洗ったのか」
シャワーに入ってサラサラの髪を撫で、キスをしようと目を閉じ顔を近づけたところで急に低い声が聞こえびくりと動きが止まる。
「まさか、手も洗わずにこの僕に触れようっていうのか?今また巷であのウィルスが流行っていることを知らないのか?手を洗って、イソジンでうがいしてからだ」
「あ、まきさ…こんばんは。すみません…」
オレは蛇に睨まれた蛙か?
キッと睨まれて、その場から動けない。起きていたのか、はたまた頭を撫でたから起きたのか。まぁ確かに、非常識だったか…と思い直していそいそと洗面所へ向かう。
石鹸でしっかりと手を洗い、言われた通りにうがいもする。我ながら健気すぎて気の毒になる。今日の今日で自分の用事もなんとか片付け、海を隔てて急いでやってきた仮にも恋人にばい菌扱い…それでもオレはこの人がかわいくて、大切で、好きでたまらない。
「薪さん!手もしっかり洗ってうがいもちゃーんとしました!さぁ!」
部屋は暗いままのものの、ベッドの上で体を起こしていた薪さんに抱きついた…のになんか腕を突っ張られて拒まれている。
「おまえ、汗の匂いとタクシーの匂いが染み付いてる…シャワーも浴びてこい…」
オレ、泣いていいですか…?
怪訝そうに顔を顰める薪さんに心が痛む。この夏はとびきり暑くてそりゃ汗もかくし、ここに来るまで急いだのだから仕方ない。来てくれて嬉しいと労いの言葉ひとつなく、到着してから意地悪ばっかりだ。
*
ハグを拒否したら涙目で青木がこう言った。
「薪さん、あなた、どうしてそんなにわがままお姫様なんですかっ…!」
泣きそうな顔してこちらを見上げるこいつがかわいい。急いで来てくれたのだろう。いつもしっかりと上げている前髪も乱れ、汗っかきのこいつの匂いが濃くて酔いそうだ。
汗の匂いなんかちっとも嫌じゃない。むしろ逆だ、なんて気色が悪くて言えるもんか。ただ、夏のタクシーの匂いはどうもダメで、タクシーの運転手のおっさんの匂いが青木のシャツにまで移ってしまっているのでそれは勘弁してほしい。青木だけの匂いなら嬉しいくらいだ。
来てくれて嬉しい。会いたかった。忙しい日々から解放され、おまえに1番に会いたかった。そう素直に言えたらどんなに良いだろう。
でも僕は素直じゃないから、意地が悪いことばかり言ってしまう。おまえが僕に必死になったり涙目になったりするのがかわいいから。
「なんだ、おまえは僕の王子様じゃなかったのか?
舞の絵ではいつも僕はなぜかドレスを着せられていて、お前は僕を守るナイトの格好をしているじゃないか、こーちゃん…?」
「こ、こーちゃん…」
「僕はお前にとってのお姫様なら、お前にだけはいくらでもわがまま言っても良いと思ってたんだが…違うか?」
さっきまで涙目だったのに今度は顔を真っ赤にする僕のかわいい青木。コロコロと百面相する様子は、いくら見てても見飽きない。
「わかったらさっさとシャワー浴びてこい。10分以内に戻って来なかったら寝るからな。その代わり、戻ってこれたら……」
今度は目をぎらつかせて男の目をするのが堪らない。早く戻ってきて欲しい。早くおまえの匂いでいっぱいになりたい。おまえで僕をいっぱいに満たしてほしい。
物心ついた頃からわがままが言えない環境、何か欲しいなんて言えなかった僕が唯一おまえにだけは言えるんだ。…なんて、全部は言ってやらないけど、戻ってきたら抱きついて言ってやる。
「おまえが全部ほしい。僕は、わがままだから。」