一歩も歩けない 重たい。
心地よく温かな、すっかり馴染んだ体温。けれど首に回された、というか乗せられた腕がなかなか重い。
「丸太かよ……」
ゆっくりと確認した視界の中、五条の恋人は珍しい姿勢で眠っていた。
いつもなら、寝相の安定しない五条が動けるようにと軽く抱いている程度なのに、今日の七海は俯せで、遠慮なく腕まで乗っている。抱かれているというより、重機に巻き込まれた気分だ。
へー、めっずらしー。
珍しいから起こしたくない。
ちょっぴり身体を動かし、五条は七海の寝顔を見つめた。
疲れたんだろうなと思う。
彼に任せた仕事は自分が行こうとしていたものだ。代わりに行けと言われたのが本家の馬鹿みたいな用事。ほんの数秒睨み合い、じゃあよろしくと彼に頼んだ。
五条が東京へ戻ったのは夜明けだ。
ちょうど列島を襲った台風は温帯低気圧になっていたが、だからといって激しい雨量に代わりない。
びしょ濡れになったのは何となく。帰宅を七海の部屋へ変えたのは、アイツが戻ったのを知っていたから。もちろん無事だとも知っていた。
まー、あれだ?
びしょ濡れな恋人が夜明けに訪れてきたら、盛り上がるだろう? ところが残念、七海はしっかりと七海だった。
叱られつつ風呂場へ放り込まれ、上がってみれば雑が十、丁寧が九十の仕草で髪を乾かされながらのお説教。今日もいい声だねえ、七海。素晴らしいバリトンボイスだよ。
んじゃこのまま寝るのかな、朝だけどおやすみーと思ったら、ねちっこく抱かれてしまった。ほんと面白い恋人だ。
五条は自分と七海の姿を確認する。
おいおい、これずるくない? 七海はしっかりとパンツを履いているのに、五条は素っ裸だ。
何度か達して満足して、あやすように愛おしむ七海に全て任せて寝てしまったのは僕だけど、僕が悪いの?
ほんの少し、咽喉がいがらっぽい。けれど咳き込んだら七海を起こしてしまうかもしれない。どうしよう、と思った時だった。
「……五条さん」
七海の指が五条の前髪に触れていた。
「どうしました」
「いや、えっと……」
見つめていたつもりだったのに、コイツいつの間に起きたんだろう。
五条は寝起きの、恋人のこの声が何となく苦手だ、腹の底がむず痒くなる。いつもより少し低くて、ハスキーとセクシーがごっちゃになりすぎだろう、腹が立つ。
何を言ってやろうと悩む五条の顔を、七海の太い指がなぞる。頬を撫で輪郭をたどり、その手は後頭部を引き寄せた。
少しだけ起き上がる七海の顔が近づき、五条の耳元でそっと囁く。
「おはようございます」
「う……、おはよ」
「どうしました?」
こいつ、絶対分かってるよな。二度も同じ質問しやがって。
五条は軽く眉根を寄せてみたが、七海のすました表情は変わらない。
「オマエ、性格わりーぞ」
「アナタと付き合っているんですよ、これ位でないと」
「朝から七海の声は反則だ」
「咽喉、大丈夫ですか」
アナタの声も。
「反則ですよ」
ゆっくりと、七海の顔が動く。鼻が五条の首元へ埋まり、白い歯がほんの少し肌を刺した。
「私が興奮するの、分かっているんでしょ」
「ふーんだ」
小さな痛みが連続し、五条はにやけそうになる顔を引き締める。
「なー、七海。そろそろ起きない?」
「こんな雨なのに? 今日はベッドにいませんか」
「え?」
五条は思わず窓を見る。
カーテン越しにでも分かる、今はとても良い天気だ。結果は温帯低気圧だけれど一応は台風一過だろうに、雨だって?
「すんげーいい天気だけど」
「連休でいい天気の日は、外へ出たくなる人も多いでしょう」
「そーかもね」
七海の手は恋人の絹糸のような髪を撫で続ける。
「私も外で軽く食事をして、本を読むのが好きなんです」
「じゃあ行こうよ」
「またの機会にしませんか。それよりも誰かの目にアナタが触れる方が、今日は嫌なんです。だから雨です」
「……へー」
もぞもぞと動く五条へ七海の腕が絡みつき、彼は思わずつぶやいた。
「おっも」
「我慢なさい」
「おっけおっけ、いいよ」
預けられた頭を抱きしめ、額にキス。そのついでに五条は笑う。
「一瞬で寝やがるとかさあ」
枕を引き寄せた五条は頭を沈め、晴れた空から視界を閉じる。
「って僕を寝かしつけたくせに」
「いえ、寝かしつけられたのは私ですね。腹が減って起きました」
ベッドに転がる五条は、ぱかりと口を開く。
寄せられたパンをもごもごと食べながら、五条はベッドへ腰をかける七海をねめつけた。
「美味しい、けど」
バターが塗られ、香辛料と砂糖がたっぷりとかけられたパン。
もちろん美味いが、パン好きの七海が常備するようなもんじゃない。なんであんの? の答えは質問前に振ってきた。
「アナタが来ると思って買っておきました」
「ふーん……」
指に砂糖がつくのもいとわず、七海は大きめに千切ったシナモンロールを五条へ与える。
「珈琲でも飲みます?」
「いらない。……なあ、大丈夫だったね、オマエ」
「ええ。アナタから任される仕事はきっちりやりますよ。確認をしにいらっしゃらなくても大丈夫です」
「パン、買ってた癖に」
自分は缶ビールを飲む七海を見上げつつ、五条は甘い指をねっとりと舐めた。
「七海がどんな顔してシナモンロールを買ったのか見たかったな」
「別に。こんな顔ですよ」
七海は指を自由にさせながら、飲み干し、空になった缶をサイドテーブルに置いた。
「五条さん、もういいですか?」
「何が?」
「そろそろ行きましょうか」
「もう夜じゃん、どこにだよ」
時刻はすっかり夜だ。
カーテンを開ければ、綺麗な夜の星空が見えるだろう。それほど今日は良い天気だった。
「外へじゃありませんよ。寝る、と」
五条の唾液で濡れた指が彼の背を撫で、辿り着いた尻をぎゅうと握った。
「飯を済ませましたからね」
ぎし、とベッドが鳴る。
空いた手はベッドへ付き、体重が寝る恋人へかからないように。覆いかぶさる七海は赤い唇へ口付けを落とす。
軽いキスは触れては離れ、焦れた五条に噛みつかれた七海はニィと笑った。
「捕まって、早く」
「え? って、おい。何すんだ」
いきなり抱き上げられた五条は苦情を言う。
「五条さん、頭を引っ込めなさい」
ぶつけますから、と言いながら、七海はすたすたと歩き出した。
「あっぶね」
「言ったでしょ」
ドアはぎりぎりセーフで通過、五条よりも七海がきちん避けた。
「引っ込めろって言われたってさあ。僕は亀じゃないんだけど」
「寝ると飯を済ませたでしょう。だから次は風呂ですよ」
「はあー?」
文句を言う代わりにきつく首へ抱き付いても、七海は平然としている。
「昨夜はすみませんでした、朝かもしれませんが」
「うん?」
「一人で風呂へ突っ込んで。びしょ濡れの五条さんに風呂場でがっつくのはと遠慮したのですが……」
「一人でお風呂場閉じ込められて寂しかったしー、びしょ濡れで来た僕の立場は?」
「我慢したんですけどね。でも」
「でも?」
「我慢したところで風呂場でがっつきたくなったから、連れてきました」
「へー」
到着した浴室は入浴の準備がすっかりと整えられていて、着地した五条は口角を上げた。
背中を大きな鏡に預け、半ば腕で首を絞めたままの七海を引き寄せる。抵抗どころか、腰をきつく握られたのが面白い。冷たいだろう鏡も気持ちが良かった。
「オマエさ、おもしろいよねー」
「そうですか」
「なあ、七海。明日も晴れるかなあ」
「さあ、どうでしょう」
「外で軽く食事して、本読もうぜー?」
「申し訳ないんですが連休は今日まで、明日からまた仕事です」
え?
五条は目を丸くした。
「お前さあー! 我儘が過ぎんじゃね?」
「アナタ程ではないですよ」