あまいもの 糖分補給は大事だ。気持ち良く音の海を泳いでいたのにいつの間にか現実に引き戻されていることがある。そんな時はだいたい糖分が不足して集中が切れてしまった時だ。脳を動かすのに使えるエネルギーが糖だけというのは、恐らく生物としては合理的なんだろうが少し面倒な仕組みだ。
空腹感がある訳でもなく血糖値を上げるだけなら飴でもチョコでも何でもいい。手近に何もなければ、常備しているブドウ糖タブレットを口に放り込むことになる。美味くも不味くもない、ただ甘いだけのアレはあれで合理的だし、脳みそに直接染み渡る感じがいい。
腹が減っていると感じる時は、十中八九食い物の匂いがしている。仁科がどうやって俺の空腹を察知しているのか不思議で仕方がないが、腹が減ったなと思う前に既に食料が用意されていることが多い。自分ではそのつもりがなかったのに、その美味そうな匂いを感知した途端に腹が鳴り、空腹に気付くこともしばしばだ。
そこから鑑みるに、嗅覚は鋭い方なのだと思う。それも甘い匂いには特に敏感で、考えるより先に手が出てしまうことがある。今までは相手がほぼ仁科だけなので気にしたことなどなかったが、最近は少し事情が変わって、困ったことが出てきた。
朝日奈のことだ。
ひょんな事から関わることになったスターライトオーケストラのコンミス、朝日奈唯。仁科が適当に相手するだろうと放っておいたら、気づけば何故かうちの部屋に出入りするのが当たり前みたいになっていて、いつの間にかそれにも慣れてしまった。それどころか、姿を見ると声を聞くと不思議と音が溢れることが増え、曲もいくつか出来た。
いや、部屋に居るのも曲ができるのも、そこは問題じゃない。
最初に気づいたのはスタオケの練習時。ボウイングが気になって指摘をするため楽譜に書き込みをしようとして、朝日奈の背中側から手を伸ばした時だ。話をしながらも、それが気になって仕方なかったのを覚えている。もっとよく確かめたかったのに仁科に邪魔された。
そういえば、うちのキッチンで急にケーキを作り始めたこともあった。やけに楽しそうなのが印象的だったのと、サンプリングに夢中でその時はあまり気にならなかった。そのうちケーキの焼ける匂いがし始めたあたりで思い出したが、部屋中が甘い匂いでいっぱいになり訳がわからなくなった。
次に機会が回ってきたのは、ライブ帰りに遭ったトラブルで、車中泊をすることになったあの日だ。急にライブのゲストとして板に上がらせた時も、泊まりになることが分かった時も、どんな状況も楽しめる豪胆さが気に入った。
早朝目が覚めた時、やけに車内が静かで、人の気配もないのが妙な感じだった。仁科の姿は見当たらず、少し離れた席にこんもりした毛布が見えた。シートに横たわっているのが朝日奈だとすぐ分かったが、何故かピクリとも動かない。念のため息をしているか確認してみると、毛布を被っていてわからないだけだったらしい。ほっとした途端にふわりと甘い匂いがした。
気になっていたのは、これだ。
朝日奈が起きそうにないのをいい事に、無遠慮に顔を近づけてみると、やはり間違いない。朝日奈から甘い匂いがする。シャンプーか柔軟剤の類なのだろうか。甘くて美味そうだ、と思った。
その頃から、何かがおかしい。
朝日奈が一定の距離に近づくと、甘い匂いを感じるようになった。そればかりか、仁科に言われるまで自覚がなかったが、その匂いに釣られて姿を目で追ってしまう始末だ。どうやら『朝日奈=あまいもの』という図式がインプットされてしまったらしい。
そのおかげか、朝日奈の顔を見ただけで食欲が湧いたり空腹を感じたりするようになる、という副作用も生じ始めた。
スタオケの札幌での公演終了後、溢れてきた音を曲にしたくて籠っていたら、横浜へ帰るその日だというのにまた朝日奈が現れた。
生まれた曲はまるで砂糖菓子のような甘ったるい旋律で、まだ出来たというには程遠かった。それなのにどうしても朝日奈の顔を見たら音が聞きたくなって、聞けば音を重ねたい欲求に駆られた。
更にいい音になりそうなこの曲を、早く完成させたくなった。
「楽しみにしてて」
そう告げると、返ってきたのはとびきりの笑顔だった。それまでに見た中で最高に眩しく見えた。
「ひゃ…!」
まん丸に目を見開いて見上げてくる朝日奈が、すぐ目の前にいる。無意識に伸ばした俺の手がその肩を引き寄せていたからだ。実際に見つめ合っていたのはほんの一〇秒足らずだと思う。朝日奈の頬が染まっていくのを観察するには十分事足り、朝日奈が状況を理解して何か行動を起こすには少し足りないくらいの時間。
「笹塚ごめん今マイン見たんだけ…ど。あー、もしかしてお邪魔……だったかな?」
声がした方に目を遣ると、楽器を提げた仁科が所在なさげに入り口に佇んでいるのが見えた。そういえば三枚目の譜面を出したときに、この際トリオで弾くのもいいかと思って仁科にマインしておいたんだった。タイミング悪いな。
同じく朝日奈も仁科の存在に気づいたらしく、慌てた様子で俺の腕をすり抜け、顔を背けてしまった。動いた拍子にまたあの甘い匂いがする。
それで急に思い出した。
「腹減ったな……」
「……お前さあ。人のこと呼びつけといて、いまそれ言う?」
ポカンと呆れ顔の仁科と俺とを交互に見比べていた朝日奈がくすくすと笑い始めた。仕方ないだろ、起きた時から腹は減ってたのにもう一時間近く経ってるんだ。
「もう仕方ないですねぇ。じゃあ支度しますね」
そう言って部屋を出ようとした朝日奈が、直前で突然立ち止まりくるりとこちらを振り返る。
「あ!」
すぐ後ろまで追いついていた俺に気づくと、いったい何のつもりなのか、朝日奈がビシッと人差し指を立てて鼻先へ突き付けてくる。
「笹塚さんはキッチン入って来ちゃだめですよ!」
「なんで」
「だって。すぐつまみ食いとかしそうですもん」
「あはは、確かに。ねぇ朝日奈さん。油断してると、食事までになくなっちゃうかもよ」
仁科のやつ、余計なことを。そんなに食べたらつまみ食いじゃない事くらい分かってる。
「じゃあ味見」
「言い方変えてもバレてますって。でもなくなっちゃうのは困ります。二〇分くらいでできますから、もうちょっとだけ我慢してください」
「横で見てるだけならいいだろ。音も録りたい」
「あー、揚げ物の音ですか? いいですけど、危なくないかなぁ」
そんなことを言い合いながら三人揃ってリビングへ戻ることになった。音を重ねるのはもちろんだが、こんな他愛もない会話をするのが楽しいと感じるなんて、今まで考えたこともなかった。
俺たちの前に朝日奈が現れてから、まだそんなに日が経っているわけでもないのに、確実に何かが変わってきている。それも見知らぬ世界が広がるような、とでも言えばいいだろうか、なかなか不思議な感覚だ。
「はーい、お待たせしましたー! どうぞ召し上がれ!」
本当に二〇分ちょっとで色とりどりの料理がテーブルに並んだ。中央には山盛りの唐揚げが二皿あり、その間にはゆで卵と枝豆が入ったポテトサラダがガラス製のボウルごと置かれている。それから銘々の取り皿にはケチャップ炒めのスパゲティとブロッコリーやミニトマトも盛られており、野菜たっぷり具沢山の豚汁に白飯を添えれば豪華唐揚げ定食の出来上がりといったところだ。
「うわぁ…すごく美味しそうだね」
「ん。どれも美味かった」
「えっ、お前、やっぱりつまみ食いしたのかよ」
「違う。朝日奈が」
横で見てたらひと口食べさせてくれただけだ。調理の合間に朝日奈が味見するたびにひと口、まるでヒナが親鳥から与えてもらうみたいな感覚でちょっと面白かった。
「ん? 呼びました?」
まだエプロンを付けたままの朝日奈がひょこっとキッチンから顔を出した。手招きで呼ぶと、束ねていた髪をほどきながらちょこんと俺の隣に腰を下ろす。
「あれ? 先に食べててくれて良かったのに」
ついでに作り置きの惣菜用の下ごしらえをしておくのだと言っていたが、せっかくの出来立てなんだから冷めないうちに食べたほうがいいんじゃないだろうか。それに。
「一緒に食べたほうが美味いだろ」
「ですね」
うれしそうに笑う朝日奈を見てると、変な視線を感じた。仁科がまるでハトが豆鉄砲を食らったみたいな顔でこっちを見てる。俺の顔になにか付いてるか?
「仁科さん、どうかしたんですか?」
「え、ああ。いや…何でもないよ。今日はちょっと、いろいろ面白いものが見れて、頭が追い付いてないみたいな感じ」
朝日奈に気を取られてたが、そういえば今日の仁科は何だか挙動がおかしい気もする。妙にテンションが高いかと思えば急に黙り込んだり。
「なんだそれ、仁科にしては珍しいな。熱でもあるのか?」
「それはこっちの台詞だって。ああもう、冷めないうちにいただこうよ」
「どうぞどうぞ。豚汁はおかわりもありますからね」
「それはうれしいね。じゃあいただきます」
「いただきます」
唐揚げを一口ほおばる。うまい。シンプルな醤油味で生姜が効いてる。揚げ具合も最高で、すごくジューシーだ。続いて豚汁を啜ると、今度は野菜の甘みや旨味が口いっぱいに広がり、箸が止められない。すると今度は朝日奈がこっちをじーっと見てくる。
「どうですか? お口に合います?」
「……ん。美味いな」
「よかったー! じゃあ私も。いただきまーす」
朝日奈が満面の笑みで唐揚げにかぶりついた。いい食べっぷりだ。朝日奈の幸せそうな顔を眺めてると、より美味しくなる気がするのが不思議だ。仕事でクライアントとの会食が避けられない時なんかは、居心地が悪くて苦痛しかないのに。相手でこうも変わるものか。
「ホント美味しい。それにしても、あの短時間でよくこんなに色々作れるもんだよね。朝日奈さんすごいな」
「えへへ、それほどでも。でもイチから作ったのって唐揚げと豚汁くらいですよ。ポテサラだってお惣菜コーナーのをアレンジしただけだし。買ったもの仁科さん知ってるでしょ?」
「知ってるからこそって言うか、元がわかるだけに出来上がりにびっくりしてるっていうのが正直なとこかな」
確かに、横で見ていたが調理時間のほとんどは揚げ物をしていたように思う。その合間に電子レンジと調理台とコンロの間を行ったり来たりしていた。急に手伝うと言い出して枝豆を剥いたりしていた仁科は電話応対で早々に戦線離脱したので、ほぼ朝日奈ひとりだ。完全に段取りと手順が頭に入っているらしく、動きに無駄がない。そうしたらだんだんいい匂いがしてくるから、さらに腹が減るなと思っていたら、どうやら顔に出てたらしく、仁科には内緒だと言いながら味見させてくれた。
一番興味を引いたのは、ゆで卵の殻の剝き方だ。どこから見つけてきたのか、ジャムの空き瓶らしい小瓶に少量の水とゆで卵を入れたと思うと、カシャカシャとマラカスの様に振り始めたのには驚いた。俺が録音しているから音が出るようにわざわざそうしたのではなく、そういう剝き方があるのだと言う。殻に細かいひび割れを起こし、その割れ目から水が入り込むことで卵殻膜が浮いてするりと簡単に剝けるのだと。サラダに使うので早く冷めて一石二鳥とも言っていたな。面白そうなのでひとつ試させてもらったが、微妙な力加減が難しくてぱっくり割れてしまった。割れたゆで卵を手に俺が固まっていると、朝日奈はそんな失敗作も刻んでしまえば同じことでしょと、くすくすと笑いながらあっという間にポテサラの具に加えてしまった。
「ねぇ笹塚さん、こっちも食べてみて」
ちょうど取り皿が空になったタイミングで唐揚げがひとつ、ひょいと飛び込んできた。
「ん? さっきのと違うな」
こちらも醬油ベースには違いないが、少し甘みとコクがある濃い目の味付けで、白飯が恋しくなる感じだ。よく見ると衣に胡麻も混じってる。それに、どこかで食べた覚えがある味に似てるな。なんだっけ。
「あれ? もしかしてお皿によって味が違うの?」
「言ってませんでしたっけ? たくさん揚げるし、折角なので二種類作ってみました。そっちが普通のお醤油ベースの生姜風味で、こっちが──」
「ちょっと待って、ここまで出かかってる」
朝日奈の説明を遮って記憶を辿ってみるが、なかなかピースが嵌らない。でも確かに知ってる味なんだ。
「どれどれ、俺もひとつ。へえ、こっちも美味しいな。あ…これってもしかして、ジンギスカンのタレじゃない?」
ああ、それだ。キッチンでソラチの瓶を見たな。そういう事か。
「仁科さん、正解! 前に成宮くんが、焼肉のタレには野菜や香辛料がたくさん入ってるから万能調味料だ、って豪語して下味に使ってたの思い出して。だったらジンギスカンのタレも結構合うんじゃないかと思って試してみたんです」
「熱心に選んでるからお土産に買って帰るんだと思ってたよ」
「ふふっ、それは別に取ってあります。種類がわかるようにこっちには衣にゴマを混ぜて、あとは隠し味に蜂蜜もちょっと足してみました」
……ん? はちみつ? そうか、蜂蜜か。
「なかなか研究熱心だね。これはついつい食べすぎちゃうなぁ。あ、笹塚。お前もご飯のおかわりする?」
「ん」
ちょうど俺の茶碗が空になるのを見計らったかのようなタイミングだ。自分が行こうかと立ち上がりかけた朝日奈を制して仁科がキッチンへ消え、それを見送る朝日奈の後ろ髪が揺れる。
「なぁ。あんた、蜂蜜好きなの?」
「え…っと、そうですね。結構好きかもです。あ、そうだ、いま使ってるリップ、蜂蜜入ってるんですよ。つけたてだと舐めるとホントに甘くってテンション上がるんですよね」
幸せそうに笑いながら半透明のチューブをポケットから取り出した朝日奈が、言葉の最後で唇を舐めるような仕草をするので目が離せなくなる。
いったいどんな味がするんだろうな。
「味見したい」
「……構いませんけど、食べ物じゃないんですよ?」
ティッシュで軽く拭った指にチューブの中身を少し取ると、その黄金色を躊躇なく俺の唇に滑らせてくる。ペロリと舐めてみるとほのかに甘い味がするが、どちらかと言うと味覚で感じた甘さよりも、柔らかい指が触れた際のふに、とした感触のせいで、鼻孔をくすぐる蜂蜜の匂いがより甘ったるく感じられる。
「甘いな」
「でしょ? ……って、あの、笹塚さん?」
俺の視線がずっと朝日奈の口元にあることに漸く気づいたらしい。味覚だけじゃなく触覚と嗅覚も一度に満たせるいい方法があるよな。
きっと、もっと甘いに違いない。
「そっちも味見したい」
「あ、味見…? ……まさか、や、だめですから!」
耳元から髪に指を差し入れ、後頭部を支えるように添えてやると、意図を察したらしい朝日奈が顔の前に手をかざすようにして防御してきた。
「ちょっと舐めるだけ」
「な、め……! そんなの全然ちょっとって言いませんし⁉」
朝日奈の細い腕を空いた方の手で掴んで押しのけようとしたが、思いのほか力が強くて一層ぐいぐい押してくる。
「そっそれに……いまは蜂蜜じゃなくてもう唐揚げの味だから!」
「は?」
甘いものの話をしていた筈が、急に唐揚げに変わって拍子抜けしてしまった。目の前にいた朝日奈はまたもや消え、つい今しがたまで座っていた椅子をバリケードの様にしてふくれっ面を見せている。
「もう! 何考えてるんですか! 油断も隙もないんだから!」
どこからどう見ても朝日奈は油断し過ぎだし隙だらけだと思うが、あの様子では自覚もないのだろう。今だって唐揚げの味と言っただけで俺が引き下がると思ってるなんて、おめでたいな。
まぁ面白い顔も見られたし味見は次の楽しみに取っておくのもいい。
「なに。もしかしてキスされるとでも思った?」
「……ちがうんですか」
まぁ違わないけど。
「あの程度でそんなこと考えるなんて。あんた、想像力も豊かなんだな」
「な……! それじゃまるで私がき…すして欲しいみたいじゃないですか」
「そう思うなら、そういうことだろ」
甘い匂いについ手が出たなんて言えるわけない。
でも、朝日奈の甘さで糖分補給もかなうとしたら、それはそれで悪くない。