人魚になりたい。
おかしな話だ。人間に憧れる人魚の話はそれはそれはもうポピュラーだが、人魚になりたい人間は(探せばそりゃあ何人も見付かるだろうけれど)そうそういない。あんまりいない。自分が存じ上げないだけかもしらんが、特にそんな話は聞いたこともない。
矛盾を承知で申し上げるが、海の中で暮らしたいわけでも、人魚にならなければ意中の女性と結ばれないわけでも、ない。ただ、ただ、自分も人魚ならばよかったのにな、と思う。
▪️
ぢゅう。太いストローから口の中に流れ込んだ液体が、ぴりりと痛覚を刺激して、ぱちぱちと弾けながら、しゅわしゅわと泡のように消えていった。鼻の奥に柑橘のかおりが広がって、いちごみたいな甘酸っぱさが舌先をあたためるようにほんのりと残る。
「……不思議な味だ」
「どお?」
「知ってるひとなのに知らないひとみたいな味わいです。おいしい」
「なにそれ、ウケんね」
モストロ・ラウンジのつややかなカウンターテーブルに肘ふたつと顎ひとつを乗せたまま、フロイド先輩は尖った歯を見せて笑った。ぐうっと背中を丸めて上半身を傾けているから、向かいあわせに立つ自分に向けられた不揃いのの虹彩を持つ瞳が上目遣いに柔くとろけて、甘ったるくって、かわいい。
ご機嫌なフロイド先輩は、長く、節くれ立った人差し指の腹で、カップに張り付いた結露を拭うように、ゆっくりと撫であげた。巻貝を模したおしゃれなプラスティックを先輩の目の前に置くと、中のドリンクがちゃぷんと控えめに波を打つ。ラッコちゃんにもらったスパイスをブレンドして混ぜてるんだって、から始まって、一番下の層は植物園で育てた朝摘みのいちごを使っているんだとか、真ん中はいろんな柑橘類をまぜて果肉ごとぶち込んでいるんだとか、炭酸がきついから後味がすっきりでしょ? だとか、とろとろの声で、楽しそうに教えてくれた。赤から黄色へ、やがて透明になり、色を失くすうつくしいグラデーションの中で気泡が爆ぜる様を愛おしそうに見つめて、そして、ご機嫌な話は続く。
「これ、アズールが考えたんだあ」
アズール。
「そんで、ジェイドがさっき試しに作ったの」
ジェイド。
「小エビちゃんに味見させよーと思って」
……小エビちゃん。
ほとんどが間接照明を光源とするモストロ・ラウンジの薄暗さをいいことに、くちびるを前髪の影に隠して、きゅっと噛み締める。俯けた顔を覗き込んだフロイド先輩が、もう一度小エビちゃん? と口にした。
ああ、人魚になりたい。
でも、エビの人魚はだめだ。他の魚がいい。でもそうしたら、そうしたら"小エビ"ではなくなるだけかも。困った。正しくは、人魚だったのならよかった、かな。違うかもしれない。だって、アズール先輩のことすらよく知らなかったと言っていたじゃないか。
なんだって望んだものとは違う蜜を吸わされて、こんなにも穏やかな声に撫ぜられて、貪欲で愚かしい人間は、泡となって消えることも出来ない。