雨の日は古傷が痛む。
あの日。
僕は麻里が入院する病院に向かっている途中で事故にあった。
バイクから投げ出された瞬間、麻里が生まれてから母さんが亡くなるまでのことが頭を駆け巡った。なるほど、あれが走馬灯か。
病院で目覚めたとき「どうして無傷なのかさっぱり分からない」と医者に告げられた。
警察の現場検証によると事故の衝撃でヘルメットが外れ、そのまま地面に叩きつけられたらしい。事故現場にも僕の血の跡が残っていたそうだ。本来であれば「とても見れたものではない」顔になっているはずだ、と。
もう一つ「大変残念なことですが…」と前置きがあり、麻里が亡くなったことを知らされた。僕は別段驚かなかった。おかしな話ではあるが麻里が息を引き取る瞬間、確かに彼女は僕の腕の中にいた。しかし、夢の中だったんだろう、と一蹴されることはわかっているのでこのことは僕の胸中にとどめている。ただ、麻里の温かさとその重みは今もまだ僕の腕の中に残されている。
父を亡くし、母を亡くし、唯一の身内である妹をも失った僕のこと皆が気遣う。大丈夫、後を追ったりはしないよ。
麻里と──に約束したんだ。最後まで生き抜くって。
──?
──、って誰のことだろう。
「現場から回収した君の私物の中にこれが入っていたんだけど」
雨の日の、薄暗い病室。
警察官に見せられたのは見覚えのない定期入れ。中には見知らぬ母子の写真が入っている。「とある事件に巻きこまれて亡くなった刑事さんのものらしいんだ。特に問題がなければ遺族に渡して良いだろうか」と。
僕が渡しに行きます。
唐突に喉から飛び出しかけた言葉を慌ててぐっと飲み込む。どうしてそう思ったのだろう。誰のものかもわからないのに。
「…よろしくお願いします」僕が独り言のように言うのを聞いて二人の警察官は僕の部屋を辞す。
一瞬視界が大きくゆらぎ、気づくと目の前に一面の彼岸花。
不意に懐かしい声が遠くから呼びかける。
───────と伝えてくれ。
吸い寄せられるように意識が戻る。
時間にして三秒、呼吸一回分。
「あの!」僕の突然の呼びかけに部屋を出かけた警察官の足が止まる。「どうしました?」
「あの…彼は…事件の中も懸命に戦い最期まで生き抜いた…とご家族の方に伝えてください。」
相手は多少怪訝な顔をしていたが、分かりました、と言ってドアを閉めた。雨の音と僕だけが取り残される。
…ありがとな、暁人。
雨音の向こうから懐かしい声が僕を呼ぶ。もしかして、──?
どうしてだろう、とても近くにいたはずなのに、あんたの名前が思い出せない。
何もなかったはずの右手が痛む。
──、もう一度、会いたい。
…暁人、俺のことは忘れろ。
何もなかった右目が痛む。
──、もう一度名前を呼びたい。
…幸せになれよ。
何もなかった胸の奥が痛む。
──、僕を一人にしないで。
雨の日は古傷が痛む。