幕開け幕間「風見、離れろ――ッ!」
その声が聞こえた次の瞬間には、激しい閃光と衝撃が風見を襲った。走馬灯を見る暇もなくそのまま意識はブラックアウト。そして目が醒めた時、事態は悪い方向に進んでいた。
「設備の強度は確かめたか?」
「……はい、抜かりなく」
コン、と硬質なガラスを叩く音。音を立てた主の顔を、風見は未だ見れずにいる。
急遽地下シェルターに用意された、電波をも遮断する特殊強化ガラスの檻。その中に、既に風見の上司が入っていた。相手はぐるりと自分の行動範囲を見渡すと、再度通信手段として配置した黒電話から語り掛けてくる。後ろにいる部下にも聞こえるように、こちら側の電話はスピーカーの状態だ。
「そうか。ベッドや椅子は君が?」
「入用かと思いましたので」
「悪いがベッドも毛布も不要だ。片付けてくれ」
その言葉に、思わず「ですが、」と反論の言葉が出た。後ろにいる部下たちから緊張した空気が伝わってくる。対して上司は、風見の次の言葉を待つことなく首を横に振った。
「君達を動かしている間、僕一人が呑気に寝ている訳にもいかないだろう。気遣いには感謝するが、とりあえず机と椅子があればいい」
「……お言葉ですが、貴方に倒れられる訳には、」
「倒れる程時間を掛ける気はない。短期決戦でいく」
迷いのない言葉に、嫌な予感がする。短期決戦、とは言っても現状は爆弾に使われている火薬の原料も分からず、敵の目的も不明だ。その上、この上司は直接動くことが出来ない。
であるならば、誰かが彼の手足にならなければならない。それが自分や部下たちであるならば一向に構わないが、上司は今、それ以外の選択をしようとしている。
「何か策がある、ということでしょうか」
「『彼』を協力者にする」
「……何故です」
その『彼』が誰を意味するのか、説明されずとも分かった。上司が恐れる相手。しかし巻き込むべきではない一般人で、まだ子供だ。この男は風見たちではなく、そういう相手を自分の手足として使おうとしている。
風見の声音に非難が混じったのが電話の向こうにも伝わり、すぐにやや饒舌な言葉が返ってきた。
「君たちにはもっと任せたいことがある。それこそ、公安でなければ動けないような案件だ。それに、一課との橋渡し役が欲しい。こちらの情報の提供だけでなく、向こうの情報も簡単に得られるような存在が理想だ。捜査を止めた手前、この段階で君や他の部下たちがそれを担うのは難しいだろう」
「それは……そう、かもしれませんが」
「…それにだ、風見。『彼』のことは君もよく知ってるはずだ。あの子の事件に対する嗅覚と優秀さは、必ず状況を好転させてくれるだろう。君は専用端末を至急用意して、『彼』のサポートに付いてくれ」
「……分かりました。では、」
「それと今回、君はあまり前に出過ぎるな。人目に付くところでは、特に」
「……犯人に既に顔を知られているから、ですね」
――『江戸川コナン』という少年を此処まで連れてくるように。
風見が言葉少なに命じると、部下二人はすぐさま頷きエレベーターに向かう。今の自分には、上司の決定を覆せるような材料は何もない。致命的なミスを犯した風見よりもあの少年の方が有能であり適任であることは、疑いようもなかった。
モーターの駆動音と共に風見と上司が二人きりになると、相手が再度口を開く。
「何か不満か、風見」
「……いえ、別に」
「そうか。……ああ、そうだ。ベッドの撤去ついでにこの机と椅子も替えてくれないか。もっと、…そうだな、悪の組織の幹部っぽい奴がいい」
「ふざけている場合ですか!」
冗談交じりの言葉に、風見は思わず顔を上げて怒鳴ってしまった。ガラスの向こうにいる上司が――降谷が、真っ直ぐこちらを見ている。その首元に、首輪型の爆弾が嵌められていた。
そう、降谷は爆弾を仕掛けられた。それも、転落しかけた風見を助けようとして。
それにも関わらずこの男は、風見と目が合うと「やっとこっちを見たな」と笑った。その顔に、「なぜ、」と言葉が零れる。
「何故って、お前な。ずっとこっちを見なかっただろ。叱られた犬みたいに」
「そうじゃありません」
「じゃあ、なんだ?」
「……いえ、べつ」
「別にと言うのなら、その『今なら自分への憤りで死ねます』みたいな顔をやめろ」
「っ、」
そこまで感情を表に出していたつもりはなかった。しかし、相手は降谷である。彼は言葉に詰まった風見を見ると、受話器を片手に仕方なさそうに肩を竦めてみせた。
確かにこの上司の言うとおり、風見はあの時迂闊に近付いた自分に憤っていた。そして、自分を助けて爆弾を嵌められた降谷にも。
「……何故、自分を助けたのですか」
「部下が爆風で落下しかけたのを見殺しにするほど、薄情じゃないつもりだが」
「直後に犯人が近づいてきたじゃないですか」
「すぐに引き上げればよかったって? 君、自分が何kgあるのか分かってるか? 意識のない人体を引き上げるのは結構大変なんだぞ」
呆れたように降谷が言う。その態度がわざと作られたものであり、その目的は挑発であると、風見は分かっていた。
「まぁ結果的に、君も僕も生きている。それでいいじゃないか」
「良い訳無いでしょう!」
頭では分かっていた。しかし感情の方は、そうはいかなかった。飛び出した声は他の何よりも大きく、地下シェルターの中で反響する。分厚いガラスの向こう側で降谷が片眉を上げたのが見えた。
降谷はあの時、犯人確保を選ぶべきだった。自分のミスで失神した風見など見捨てて。そうすれば、その選択さえしていてくれたら。
「貴方のソレは、とても無事だとは言えない……ッ」
降谷は今頃、こんなところに閉じ込められずに済んでいた。
少しでも二つの液体が混じれば発火する爆弾を首に巻かれることもなく。いつ遠隔で爆発するか分からない緊張感に襲われることもなく。そして事件は閉幕し、人々が水面下で危機にさらされる必要もなかった。
――その機会を奪ったのは、迂闊だった自分だ。
そう思うと、風見の胸は締め付けられた。よりにもよってこの男を、敬愛する降谷零を危険に陥れてしまった、その事実に。
だからずっと、降谷の顔を見れないでいたのだ。
「風見、」
不意に、降谷が風見を呼んだ。返事をすると、彼は普通の顔で滔々と語りだす。
「確かに君は迂闊だった。迂闊にも、あの男に近付き過ぎた。だが警察官であれば、助けを求める相手を見捨てることは出来ないだろう。だから、アレは、そうなって然るべきだった」
「……はい。間違いなく、自分のミスです」
「そうだな。そして僕は、君のミスをカバーした。僕は君の上司だからな。これも当然のことだ」
「ですからそれが、」
「あの時の僕は爆風を受けて身体にダメージが残っていた。君をすぐに引き上げるのは不可能だった。そして犯人は運良く僕をその場で殺さなかった。その目的はまだ不明だが、いずれ分かる。犯人の正体や爆薬の中和剤もだ。いずれ判明するモノと部下の命なら、命の方が大事だろう」
「……しかし、」
「僕の部下は優秀だ。一人失えば、補充人員が同じレベルに達するまで長い時間が必要になる。違うか?」
その言葉に、風見は何も答えられなかった。視線が下がっていく。
降谷の言いたいことは理解できる。仕方なかったのだ、と。そしてこの程度は、ここからいくらでも挽回出来るのだ、と。
それでも風見は自分が許せなかった。グッと、受話器を握り締める。そこに、やけに明るい声音が降ってきた。
「難儀な奴だなぁ、君は」
「は……?」
「せっかく僕が上司としての合理的な回答を並べてやったのに、それでも自分を許せないんだろう?」
「……はい」
「っはは、そうか」
頷くと、降谷は笑った。嬉しそうな気配すら漂うソレに、風見の眉間に自然と皺が寄る。……誰の為に、ここまで思い詰めていると思っているのか。
「僕の為だろ? だから嬉しいんだ」
「口に出てましたか?」
「いや? でも、顔に書いてあった」
言いつつ、降谷は黒電話の本体を持ち上げた。そのままガラスの檻のギリギリまで近付いてくる。
「君が生きていて、僕の為に心配して、怒ってくれているのが、嬉しい」
「……は、ぃ」
その蒼が、場に不相応な程綺麗だった。私人の、降谷零としての言葉に、声が喉に張り付いたようになって、不格好な返事が漏れ出る。
ひっくり返ったようなソレに、くつりと降谷が笑った。
「なぁ風見。僕は自分の選択を後悔していない。遅れは取ったが、勝算がない訳じゃない。僕も君も生きている」
電話越しの声は自信に満ちていた。その首には、銀に光る爆弾が付けられている。それでも降谷の顔は、声は。
「それでも許せないというのなら、」
一点の曇りもなく、風見に向けられていて。
「お前が救ってみせてくれよ、俺を」
一瞬、風見の世界の音が止まり、その言葉だけが全てになった。
そこで立ち止まるのか、と煽られたような気すらした。それしきのことで、こんなところで立ち止まっていていいのか、と。
「──臨むところです」
気付けば、答えが出ていた。
自分はミスを犯した。そして、降谷を危険に晒した。現在も、降谷は命の危機の只中にいる。それは疑いようもない事実だ。
「自分の不始末は、自分でカタを付けます」
公安警察であるのならば。ほんの少しでも、立ち止まっているべきではない。喩え、己の不甲斐なさに折れそうになっていても、だ。
降谷と目が合う。すると相手は、満足そうに頷いた。
「もう大丈夫か」
「はい。発破を掛けていただいたお陰で目が覚めました」
「そうか。ガラスさえなければ、今すぐ頭を撫でくりまわしてやるんだが」
「……それは結構です。自分は子供でも犬でもありませんので」
「僕に褒められるのが好きなクセによく言う」
「……ともかく、ご心配をお掛けして申し訳ありません。自分は大丈夫です」
からかい混じりの言葉をわざと無視して頭を下げる。と、受話器の向こうから柔らかな声がした。
「元より心配はしていない。君は、自力でも這い上がれるタイプだからな。それでも言葉を掛けたのは、ただの僕のエゴだ」
「エゴでも何でも構いません。引っ張り上げていただいたのは事実ですので」
「そうか。……なら、エゴのついでに一つ頼まれてくれないか。命令じゃない。僕からの、個人的なお願いだ」
「はい、何でしょうか」
改まったその様子に、風見は居住まいを正す。少しの沈黙の後、降谷は風見の目を真っ直ぐに見て口を開いた。
「死ぬなよ」
「は、」
「今回、君が僕の弱点だとバレた可能性もある。こちらに揺さぶりを掛けるために、君の命を狙うかもしれない。だからさっき、前に出過ぎるなと言ったんだ」
「な、にを、」
「言っておくが冗談じゃないぞ。僕は本気で言ってるからな」
何を馬鹿なことを、と続けたかった言葉は、降谷の真剣な声と表情に封殺されてしまう。
風見が弱点などと、そんな言葉をそんな顔で言われては、返せる言葉など何もなかった。こんな状況でそんなことを言い出す降谷を、狡いとすら思った。
「とにかく死ぬな。今回も死神を遠ざけて生き残ってくれ」
「……それが、個人的なお願いですか」
「ああ、極めて個人的なお願いだ」
「っ、なんで貴方はそうやって……!」
「そうやって?」
「……いえ、分かりました。善処します」
言いつつ、風見は自身の腕時計を確認した。地下シェルターに降りてきてから、思ったよりも時間は経過していない。今から此処を出て、何を為すのかを瞬時に頭の中で組み立てていく。
「もう行くのか」
「ええ。貴方の言う通り、やることは山程ありますので。まずは不要な家具の撤去と、机と椅子の交換、でしたね」
「そうか。早く戻ってきてくれよ、君が居ないとなると些か暇だ」
「はい。良い子で待っていてくださいね、降谷さん」
「良い子に待てたらご褒美でもくれるのか?」
軽口を叩くと、似たような軽口が返ってくる。
「……そうですね。では悪の組織の幹部に相応しい、とびきりのバーボンをお持ちしますよ」
「それはいいな。銘柄は君に任せるよ」
その言葉を最後に、風見は受話器を置いた。そのまま、エレベーターの方に向かう。その足取りに、迷いはない。
そんな風見の背中を、上司である年下の男は眩しいモノでも見るかのように目を細めて見送った。
アレが、アレこそが、降谷の愛する年上の部下なのだ。
「頼んだぞ、風見」
本格的に幕の上がる、その前。序幕と一幕の間の、幕間の話である。