深夜の居酒屋事情「おう、まだやってるだろ」
そんなぞんざいな物言いで暖簾を潜った男の顔を見て留三郎は嫌な顔になった。
よりによって何かとぶつかり合う同輩が閉店間際に来店すればそりゃあ変な顔の一つや二つするだろう。
「てめぇもんじ、なにしに来やがった」
漸く最後の客も捌け、これから店仕舞いをしようという時のこれである。勿論、これで冷やかし等と言おうものならボッコボコに叩きのめすのは太陽が東から昇ることと同レベルの常識なので敢えて口にはしないでおく。
「分かるだろ、酒と飯」
日本酒1合、今季のやつ辛口で…と要望を口にし、此方の返事を聞く前に何故か持参していたスーパーの袋を漁り始めた。取り出したのはなんと青銀の肌艷やかな鯖が2匹。その他にも出来合いの白和えやら金平まででてくる始末。おい、お前ここを何だと思っている。
「暖簾外してくるからちょっとまて」
本来なら入り口も施錠している時間である。一応友人である潮江文次郎が最後の客なのだ。この論外の訪問にこれ以上便乗されるのはさすがにきつい。留三郎が暖簾と看板を店の入り口にしまい込んでいる間に文次郎はおかずを皿に盛り、これまたスーツの上着を脱いでここの割烹着を羽織っていた。すでに鯖の脂の匂いが立ち始めている。
「前からお人好しだと思っては居たが、まさかここまでとはな」
割と好き勝手しながら苦言を零す文次郎を、留三郎は呆れた目で見遣るが、見られた事に気付いた文次郎の方も同じような半眼で留三郎を見返す。理由はこれだ、直球で言うがこの店は別に留三郎のものではないからだ。元々この店は留三郎が気に入っていて何度も通っているひっそりとした居酒屋だった。老夫婦と、若い男1人で切り盛りしている店だった。勿論文次郎も、留三郎に誘われて何度か来たことのある店である。しかし先週従業員の男が車にはねられ腕を折り、また店の主人たる夫も風邪を拗らせて入院したのである。1週間程で退院出来るという話ではあるが、流石に老婦人1人で店を開けるのは骨が折れるだろう。慌てて転けられて文字通り骨を折られても困る。故に事情を知ってしまった留三郎が、少なくとも主人が退院して落ち着くまではと名乗りをあげたのである。幸い、会社勤めでないのが幸いだった。フリーランス故昼間は今受けているだけの仕事の図面を引き、夕方からはこうして期間限定居酒屋の代打をやっているのである。これが、文次郎が留三郎をお人好しと呆れている理由である。
文次郎が焼き上げた鯖を皿に盛る頃にはすっかり留三郎も店仕舞いを済ませていた。文次郎が食材を持ってきたのは、できるだけこの店の食材の在庫を減らさない様にするためでもある。単に、留三郎が食べたいと零していたのを聞いていたのもあるが。
文次郎が割烹着を脱ぐと留三郎が文次郎気に入りの日本酒を徳利に入れて持ってきた。勿論代金はガス代諸々上乗せして支払うつもりである。
「あぁ〜つっかれたー!」
「おうご苦労さん」
心底くたびれたという様子で留三郎が文次郎の横に座った。ちゃっかりお猪口を二つ持ってきてたのはわかっていたので、留三郎の分も注いでやる。文次郎が食前の文言を唱えている間、頂きます!と元気に手を合わせた留三郎が、皮のパリパリに焼けた塩鯖に箸を入れ、ふっくらとした白身を口に含むとお猪口の中身を一気に流し込む。
「あー、これだよこれ。」
酒精で赤らんだ顔を満面の笑顔にして喜ぶ様は、実は文次郎の好きなものの一つである。が当の本人は露ほども知らず、そして文次郎自身も打ち明けるつもりもない。ただ、お人好し故苦労する性分を阿呆だと思いつつも労ってやりたいのは、単なる学生時代からの情だけではない事も文次郎は分かっていた。以前、文次郎が焼いた魚を幸せそうに頬張って居たため好物なのだろうと当たりはつけては居たが、こうして喜ぶのを見ると態々深夜までやっているスーパーマーケットで探し回っただけの甲斐はあったと、文次郎も内心喜んだ。
「なあ文次郎」
「何だよ馬鹿留」
何時もはこの一言ですぐ喧嘩になるというのに、仕事後の疲労か、それともアルコールで気分がいいのか、留三郎はニコニコと頬杖をついて文次郎を見つめたままである。
「仕事辞めたらさ、俺たちで居酒屋やるのもいいんじゃないか?」
「馬鹿言え、そういう話はせめて定年間際になってからしろ」
人の気も知らないくせに、と文次郎はからりと笑った。