朝夕に花待つころはチュンチュンと爽やかな定番の朝の代名詞を聴きながら仙蔵は隣の気配で目を覚ました。
この学年になってから珍しく、昨夜は文次郎が自室の寝具で眠っていたのだった。くわ、と山犬の様に大口を開き朝の空気を肺の奥にとりこむ同室の様子は、未だ濃く残る隈と相反して非常に満足げだった。
「なんだ文次郎、やたら機嫌が良さそうじゃないか」
いっそ鼻歌まで歌い出しそうな様子に思わず仙蔵は問いかける。
「ああ、実はな。」
そう切り出した文次郎は、聞かれた事自体が嬉しげな顔である。半ば兄弟の如き同室にすら余程聞かせたいのだろう。普段こんなに浮かれることの無い友の様子に仙蔵は半眼になった。長年の付き合いで分かるが、大体こういう時の文次郎は本当に喜ばしい事があったか、若しくは他者から見れば実に下らない"何か"があった時である。この浮かれポンチという言葉の例に相応しい様子に、どうやら今回は後者のようだ。
「留三郎の野郎がぐうの音も出せないほど完全な勝利を果たしてな」
「夢の中でか」
「夢の中でだ」
数百年後の未来ではドヤ顔と称される表情の、さらには見本になりそうなこの得意顔。
学年一ギンギンに忍者してると他者に言わしめる程ストイックな(しかも斜め上の方向に)男だが、犬猿の好敵手たる留三郎が絡むと本当になんというか。狂うというか、おポンチに拍車のかかる奴である。ちょっとは真面目に聞いてやろうかなと思った親切心を仙蔵は早速後悔しつつあった。
「勝ったと言えど夢の話だろうに。たかが夢で満足するような愚か者ではなかろうがお前は」
「確かにお前の言う通り夢の話に過ぎない」
仙蔵の言葉にうんうんと腕を組みながら頷く文次郎。
「だがしかし。しかしだ仙蔵。たかが夢と言えど奴との勝負だ。昨晩は奴との勝負の動きを思い描きながら床についたのだ。そして夢の俺はその通りに動きそして勝利を得たのだぞ。たかが夢とは言え試すだけの事はあろうよ」
なんせ奴の動きは6年間の付き合いで覚えている。だから、当然、故にそれが再現された夢で通じるなら有効性は無いとは言い切れぬだろう…というのか文次郎の理屈らしい。
流石に連日の徹夜で寝不足とは言え、ここまで馬鹿になるとは。仙蔵は放っておくべきではなかったかと少しだけ反省した。
「…と言うのが今朝の一幕でな」
「ハアァァァ!?」
というわけで白々輝く太陽が南中に差し掛かった頃、仙蔵は愚痴代わりに同室の奇行を暴露し、結果返答代わりの、酒精より沸点の低い留三郎の怒りが込められた奇声により食堂中の視線に突き刺される羽目になってしまっていた。
至近距離の大声量に思わず両手で耳を塞いだ仙蔵だが、悲しい事に自分と留三郎以外には下級生しか居らず…即ち一緒に面白がってくれる同輩達は不在であった。
「ばかもんじめ、高々夢で俺に勝った気になりやがって…!いい加減どっちが上か思い知らせてやる!!」
勝負だぁ!と箸を握りしめた拳を天に掲げる留三郎に仙蔵はうんざりした。己の同室が関わるとてんで馬鹿になる留三郎が残念に思えて仕方がない。勿論これはこの場に居ない文次郎にも言えたことである。
「息巻くのは良いがその辺にしておけ、行儀が悪いぞ」
留三郎の拳を掴み降ろさせた仙蔵が周囲に目配せする様子に釣られ留三郎も見渡すが、当然響き渡った声に耳目を集めたのだろう。やれやれといった様子の食堂のおばちゃんに始まり、3年やら4年やら、果ては用具委員の後輩のギョッとした顔や"あの"滝夜叉丸ですら引いた目に、流石に留三郎は大人しく仙蔵に従った。
だが矢張り気持ちは収まらぬのだろう。不貞腐れた様に唇を尖らす様子はまるで拗ねた時の1年にそっくりで、これも"は組"の血かと思わず仙蔵は吹き出した。
「…なんだよ、お前まで馬鹿にしやがって」
「いや何、は組の連中にそっくりでな。思わず」
敢えて1年の、とは言わない含みを正しく受け取った留三郎はムッと口を曲げいよいよ拗ねてしまったようである。
いい加減最高学年としていい歳した同輩の、昔から変わらぬ気安さと可愛らしさに思わず弄り倒してしまった仙蔵だったが、流石にこのままなのも気の毒に思えてきたのでフォローも含め仙蔵はこう補足してやることにした。
…というのは建前。正しくは朝っぱらから巻き込んでくれた同室への意趣返しである。
「まあそう腐るな。文次郎もやっと帳簿から解放されて上機嫌だったのだろうよ。寝てから覚めるまで…夢の中でまでお前のことで一杯だったんだ。中々"いじらしい"だろうあれも」
文次郎とて、何も鍛錬馬鹿が過ぎてここまで消耗したわけではなかった。学園長の突然の思いつきにより生まれた出費に、どうにか翌月の各委員の予算を絞り出すために連日寝ずの帳簿見直しをしていたのだ。それこそ日課の鍛錬や"勝負"すら我慢して。
それが漸く解放された安心感で思わず朝も待てずに恋しがっていたのだから、多少の事として仙蔵も目を瞑ってやる事にしたのだ。但し、当の文次郎は未だ無自覚のようであるが。
はぁ?と訝しむ様子で仙蔵の含みを脳で咀嚼している様子の留三郎だったが、段々時間が立つにつれ呆れから思案、終いには真っ赤に顔を変化させダラダラ汗を流しながらどもり始めた。
「おま、仙蔵、その言い分だと、文次郎、真逆…」
「なんだ知らなかったのか?」
留三郎の事だからてっきり鼻で笑って「しょうがないなあいつは」と小馬鹿にすると思っていたが、どうやら当の留三郎自身も気付いていなかったらしい。同室の仙蔵や意外と聡い小平太ならいざ知らず、治療健康にかまかけて色恋沙汰には疎めの伊作ですら気付いていたと言うのに。
おやまぁと仙蔵は思わず後輩の口癖を呟いた。
犬も食わぬは何とやら。犬猿の仲の癖にと思っては居たがどうやら留三郎自身も無自覚のままで成立していた関係らしい。
弄りつつも同輩の情として多少は仲を認めてきたつもりだったが、ここに来て仙蔵は面白がるを通り越して何だか馬鹿馬鹿しくなってきてしまった。
「あとはお前らで宜しくやってくれ」
あーあやってられんと茹だり顔のまま硬直する留三郎を尻目に、仙蔵は空の膳に両手を合わせた。
ご馳走様でした。