人魚の涙(※未完成鶴鯉月)─お前は、人魚の涙を見たことがあるか?─
幼龍は、上官である死神から突拍子の無い質問を受け、硬直する。
人魚。
日本各地に人魚伝承は残っているが、あくまでも伝承。実話かもしれないし、大衆を楽しませる目的で創作された物語かもしれない。其の真意は、目撃者、記述者のみぞ知る。
─………私は、見たことがありません…─
幼龍は、震える声で答えを絞り出した。
死神は無表情と無言を貫き、鋭い視線で幼龍を凝視する。其の姿に、幼龍は徐々に圧され、底知れぬ恐怖と緊張が心身に纏わり付く。
激しく脈打つ鼓動、額から流れる一筋の汗、への字に歪む唇。
己の答えは、可笑しかったのだろうか…
「…そうか。そうだろうな…変な質問をして済まなかった。」
─あの人魚は、滅多なことでは泣かんからなぁ…─
「…?」
死神は幼龍の肩を軽く叩き、執務室から退室する。
張り詰めていた糸が、解かれる瞬間。
幼龍は深く追求されなかったことに、一先ず安堵する。が、更なる混乱を来すことになる。
去り際に呟いた死神の台詞は、まるで、人魚を見たことがあるような言い回しではないか。
椅子に腰掛け、腕を組み、首を傾げて唸ること暫く…
─………殿、少尉殿。─
─…っ?!─
幼龍の両眼に、険しい顔を浮かべながら直立している死神の右腕が映る。
此の死神の右腕は、意味深な言葉を残して去った死神の懐刀。同時に、就任して間もない幼龍の補佐役でもある。
─扉を何度か叩いたのですが、反応が無かったので勝手に入らせて頂きました。少尉殿、私は兵舎の中でも警戒心を解いてはいけない、と、何度も釘を刺しましたよね…?─
─キェ…すまん…─
死神の些細な呟きを深く追求し、没頭過ぎた結果、死神の右腕が室内に入って来たことはおろか、接近していたことにすら気付けなかった。
普段なら早口の薩摩弁であれこれ言い訳する幼龍だが、今回は完全に自身の油断が招いた失態。
幼龍は死神の右腕の強烈な説教を素直に受け、猛省する。
死神の意味深な呟きも記憶の片隅へと追い込まれ、瞬く間に忘れ去られていった…