ざく、ざく、ざく。何日もの間降り続いた雪をかき分けて、光王子は真っ白な森を進みます。ブーツの中に雪が入るたびに立ち止まっては雪を出すことを何度も繰り返しているうち、光王子は人ひとり歩くのにちょうどよい一本道を見つけました。
深い森の中ですから何か動物が通った跡のようにも見えますが、それにしては歩きやすく、道のすぐ横の地面は他の場所と比べると不自然な雪の山ができています。
シャベルかなにかで雪をどかして作られたらしい道は、木を避けながら、ずっと先まで続いているようです。
「どこに続いているのかな」
手袋をしていてもなお冷える指先に息を吹きかけ、光王子は一本道に導かれるまま森を進んでいきます。しばらくすると、ざっ、ざっ、ざっ、と雪を踏みしめるような音が聞こえてきました。しかし、光王子が周囲を見回しても近付いてくる人影はおろか、雪原を歩く野生動物の姿もありません。
さらに進むと小屋があり、積もった雪にシャベルを突き刺す人の姿がありました。
雪を踏みしめる足音のように思われたものは、溶けた雪に濡れるのを防ぐ程度にしかならなそうなぼろぼろの防寒具を着た彼が錆びたシャベルを振るう音でした。シャベルを数回突き刺して切り取った雪の塊を放り投げ、放り投げ、放り投げ。一定の速度を保って同じ動きを繰り返しています。
ざくっ、ざっ……ざくっ、ざっ……雪を放り投げるときに腰をひねる動作があり、翻った防寒具の裾から黒い毛の束がちらりと姿を現します。それを見るなり、光王子は大きく手を振って駆け出しました。
「おーい、充ーっ!」
光王子の呼びかけに気付いてか、ぼろぼろの防寒具を着た彼は動きを止めます。深く吐いた息を白い煙に変えて、光王子の方に振り向きました。
「……うるさいのが来なくなってせいせいしてたところだったんだがな。あんまりはしゃいでると危ないぞ」
錆びたシャベルの切っ先を雪に突き立てて、変声を経た少年の声で叫びます。その言葉に光王子が返事をするまでもなく、光王子は雪で足を滑らせて尻もちをついてしまいました。
「だから言ったろ。はしゃぐと危ないって」
ぼろぼろの防寒具を着た少年は、心配しているようでどこか小馬鹿にするような含みをもたせた口調で言いながら光王子に歩み寄ります。
「どう危ないのかを言わなかった充が悪いよ」
「それはそれは、ご無礼をお赦しください王子様。聡明な貴方様のことですからご理解いただけるかと思い込んでいた僕が悪うございました」
「……本当に悪いと思ってるの?」
光王子の問いかけに少年は、くくっ、と含み笑いをして光王子に手を差し伸べました。
人間の手……の形をしてはいますが、その手はどう見たって人間のものではありません。指の先まで獣そのものな毛むくじゃらで、そのうえ真っ黒で鋭く尖った爪まで生えています。
化け物だ! 誰しもがそう叫んで逃げ出すようなところを、光王子は一切の恐れを抱かないどころか微笑みすら浮かべます。
「人狼にも最低限の心得はあるようで安心しましたよ。……けれど」
「けれど、なんだ」
「さっきの侮辱は許しません♡」
それから光王子は真っ黒な手を掴んで、思い切り引っ張りました。
あまりに突然のことに少年は前方に倒れ込み、光王子に覆いかぶさるような姿勢で雪原に手をつきました。
「……っ! おい、光! いきなりなにすんだ、危ないだろうが!」
「本当なら首をはねる……まではいかなくても、それなりの重罪をこれだけで許してあげたんだから感謝してほしいくらいなんだけど」
「お前なぁ……それ俺以外にやるなよ」
「心配しなくたって、恩赦を与えるのは充だけだよ」
光王子はころころと笑い、少年の顔を隠していたフードをそっと外しました。
深い青の髪、空を思わせる瞳。丸い頭の上にはふさふさとした狼の耳があり、それが人間に限りなく近い姿をした少年――充が人間ではないことを知らしめています。
充は「俺が言いたかったのはそういうことだがそういうことじゃなくて、……まあ、いいか」と納得できないことがあるように呟きます。
したり顔で笑っていた光王子でしたが、どちらかが近付こうとすれば簡単に唇が触れ合うような距離で、突然大きな声を出しました。
「充! 口の端っこに血がついてる!」
光王子が指したところ、右頬あたりを充は黒い毛に覆われた手の甲で拭いました。するとどうでしょう、薄く塗り拡げられた鮮血の下で、唇の端がぱっくりと切れてしまっているではありませんか!
これに驚いた光王子が充の口周りをよく見ると、ろくに手入れもしていないらしい人狼の唇はところどころ皮が剥けて、水の抜けた木の表面のような痛ましい有り様でした。
「王子の友人として恥ずかしいと思わないの? ほら、はやく立って!」
詰め寄ってきた光王子の気迫に圧されて充が立ち上がると、光王子は充の手首を掴んで、まるで自分の家であるかのように充の家の扉を荒々しく開いて中に入りました。
パチパチ薪の爆ぜる小さな音がする暖かい室内をずかずかと進み、光王子は充をベッドに座らせて
「保湿の油を塗ってあげるから動かないで」
聞き分けの悪い子どもを諭す口調で言い、ポケットから小瓶を取り出しました。
「余計なお世話だ。……お前、俺をペットかなにかと勘違いしてないか?」
光王子の手元で瓶の蓋が開くのを、充は少し呆れたように見つめます。居心地が悪そうに尻尾を揺らしはしますが抵抗はせず、小瓶の中身でテカった指先で唇を触られるのを大人しく受け入れました。
「ん、けっこうにおうな……」
「そう? でもこれ塗っておくとないのとじゃ全然違うんだから。充のおかげで実感できたんだけどね」
緩やかに弧を描く唇にはひとつの傷もなく艷やかで、充は思わず見惚れてしまいます。
「確かにお前はきれいな口をしているな」
充は光王子の唇にそっと手を伸ばして、親指の腹で愛おしむように撫でました。
「んむぅ……当たり前でしょう? 謁見の間の玉座に座る者として身だしなみは大事なの」
「なるほど。さすがは王子様だ」
黒い、毛むくじゃらの指が薄い唇の形をゆっくりとなぞります。すると、光王子の頬にほんのりと朱が差します。
「……ねぇ、そんな毛むくじゃらの手で触っても分からないんじゃない?」
光王子に言われて充は手を止めます。
光王子の言うとおり、充の人狼の手では弾力は分かりますが、皮膚の感触はあまり伝わってきません。
「言われてみればそうだな」
充は光王子の顎から項の方に、手を滑らせるように移動させ、光王子の顔を引き寄せました。
「もっと、感触が分かるところで触らないと……な?」
一音一音はっきりと、充は意識的に唇を動かして光王子に囁きかけます。光王子は言葉を紡ぐ唇をぼんやりと見つめ、許可を言い渡す代わりに目を瞑りました。
スタンプを押すかのように数回、唇を重ね合わせたとき、光王子が「あっ」と小さく叫んで充の胸を押し返しました。
「充の血、口に入っちゃった……」
血を怖いものだと思っているのでしょう。光王子は顔を青ざめさせて、縋るような視線を充に向けます。
「それは大変だ。見せてみろ、取ってやるから」
光王子は充の言葉に素直に従いって口を開けます。ピンクの舌先に、よくみると赤い色が少しだけついています。
充は爪が刺さらないよう慎重に光王子の舌を引っ張り出し、自らの血がついた舌先をべろりと舐めあげました。
「んひゃぁっ?! な、なに、ひて」
「動くな。ここに王子様の舌を拭くのにちょうどいい布なんて無いんだよ」
舌先から根本へと這わせ、わななく唇を塞いで舌を絡ませ。もう光王子の口に入った充の血は取れているばかりか、唾液といっしょにさらに流れ込んでしまいます。最初こそ抵抗していた光王子でしたが、錆びた鉄の味にだんだんと酔ってきたようで、しばらくすると光王子の方から舌を動かし始めました。
充を見下ろす姿勢をとっていた脚から力が抜けて、いつのまにかボロボロの床に座り込んだ光王子がベッドに腰掛ける充に縋り付くような形になっていました。
耳まで紅潮させて荒い息を吐く光王子の唇をてらてらと濡らしているのが唾液なのか小瓶の中身なのかすら、もうわかりません。
「やっぱり、お前の唇は俺と違ってきれいだな」
充は混ざった唾液の糸が切れるのも待たず、艶めかしく濡れそぼった光王子の唇にちゅっ、と音を鳴らして吸いつきました。