[雨想]雨に唄えば「ありゃー……降ってきちゃったかあー……」
書店で買い物を終えた想楽は、いつの間にか降り出していた雨にため息をついた。
予報ではもう少し遅い時間から降り始めると言っていたのに……とスマホの時計を見てぱちりとまばたきをする。
「うわ、もうこんな時間ー?」
想像していたよりも一時間以上遅い時間が表示されていて、想楽はしまったと表情を曇らせた。
このところ仕事が忙しくて、書店に来るのはずいぶんと久しぶりのことだった。
買い逃していたシリーズものの新刊や、大学で必要な資料、一希に勧めてもらったちょっとマニアックな文学作品など、あれやこれやと探しながら書店の中を巡っていたらついつい楽しくなって、うっかり時間を忘れてしまっていたらしい。
「まずいなー……急がなきゃ」
想楽は買ったばかりの本をトートバッグに詰め込むと、代わりに折り畳み傘を取り出してポンと開く。
深い緑色のそれを差して歩いていると、まるでフキの葉を傘代わりにするコロポックルのようだと言っていたのはいったい誰だったか。
一応これでも一七四センチあるんだけどなー。
つん、と唇を尖らせて、想楽は書店の軒先から一歩外へ飛び出した。
「雨……あんまり好きじゃないなー……」
足早に街を歩きながら、そんなことを想う。
ざあざあという雨音が、思考をかき乱すから。
買ったばかりの本たちを、それを入れたお気に入りのトートバッグを濡らしてしまうから。
急いで歩くと泥水が跳ねて、足元を汚してしまうから。
想楽にとっての雨はさながらノイズのようなもので、自分の中にじわじわと入り込みそのかたちを変えようとする厄介な存在だった。
そのノイズから自身を守ろうと深く傘を差せば、今度は視界が閉ざされる。
濃い色の傘は雨だけでなく日の光までをも遮って、想楽の周囲を暗く閉ざすのだ。
わずか直径五十センチという狭い円の中。
この中だけが正しく自分自身であることを許される唯一の空間なのだと思えば、息苦しくてたまらなくなる。
先を急がなければいけないのに、足取りが重くなる。
久々のオフだったとはいえ、やはり雨の日に予定を入れたのは失敗だったな。
想楽はとうとう足を止め、先方に断りの連絡を入れようとスマホを取り出す。
「北村」
LINKを立ち上げ、今まさに通話ボタンを押そうとしたところで、その相手の声がした。
「え」
驚いて顔を跳ね上げれば、自宅で想楽を待っているはずの雨彦の姿がそこにあった。
「え、雨彦さん、なんで」
「なんで……とはご挨拶だな? 急な雨に降られちゃいないかと、お前さんの身を案じて迎えにきたんだが」
そう告げる雨彦は、しかし傘を持たずにカフェの軒先で雨宿りをしていた。
本来傘を持つべき左手には、雨宿りの礼のつもりかカフェのロゴマークがプリントされた紙カップが握られていて、想楽は挨拶をするのも忘れてそれを指摘する。
「迎えって……傘持ってないじゃないですかー」
「近くに車を停めてあるのさ。雨はさほど嫌いじゃないんでね」
雨彦だけにな、なんて、聞かれてもいないことを言ってくつくつ笑う雨彦を見て、想楽はなんだか毒気を抜かれてしまう。
「さて、無事に出逢えたことだし、車に移動するか」
雨彦はそう言うと、濡れるのも構わずに軒先から一歩飛び出して、無理矢理想楽の傘の下に入り込んでくる。
「ちょっ……やだ、うそでしょ、雨彦さん自分の身体の大きさを考えてよねー?」
「うん? ああ、道理で頭がつかえるはずだな」
「あーめーひーこーさーんー?」
言外に背の低さを皮肉られ、想楽がじとりと雨彦を睨む。
そりゃあ身長一九〇センチを越える雨彦からすれば、一七〇と少しの想楽はコロポックルのようなものだろうが。
「……あ」
思わぬところで先ほどの答えを思い出し、想楽はすっきりとした気持ちともやもやする気持ちの間で「うーん」とうめく。
「そう難しい顔をしなさんな。ほら、傘を貸しな。俺が差してやろう」
言うが早いか雨彦は想楽の手から折り畳み傘を取り上げると、すっと二人の頭上に差しかける。
「あ……」
その途端、あれだけ窮屈だと思っていた世界がまばたきするような速さで広がっていく。
想楽に重い影を落としていた傘は遥か頭上に遠ざかり、雲の向こうからわずかに透ける日の光が想楽の周囲を優しく照らす。
遮られていた視界もクリアになって、待ちゆく人たちが差す色とりどりの傘の花が、想楽の目に鮮やかに飛び込んできた。
雨脚も少し弱くなってきたのだろうか。
鬱陶しいとしか思えなかった雨音は一転、心地良いヒーリングミュージックのように想楽の耳を柔らかくくすぐって、思わず、ほう、とため息をつけば、先ほどまで苛まれていた息苦しさも雨に溶けて消えていくような気がした。
「車まで、こいつを持ってちゃくれないか」
ぼうっとする想楽の手に、あたたかい紙カップが握らされる。
中身は紅茶のようで、蓋の隙間から香ばしくも柔らかい茶葉の香りが漂ってきた。
あたたかな湯気とともにそれを深く吸い込めば、あれほど想楽を苛んでいた暗い気持ちが嘘のようにほぐれていく。
「車はあっちだ」
雨彦の大きな手が、想楽の背に添えられる。
そっと支えるように添えられたそれに後押しされると、重くて仕方がなかった足が軽やかに一歩を踏み出した。
「いい子だ」
雨彦が目を細める。
果たして褒められたのか、子供扱いされたのか。
よく分からないながらもじっと雨彦を見上げれば、いったい何が嬉しいのか雨彦はふわりと笑みを返す。
想楽の疑問を煙に巻くようにも見えるそれに噛みつこうと口を開きかけるけれど、ぐいっと腰を押されてタイミングを逃してしまう。
悔しいけれど、雨彦と想楽はコンパスの長さがちがうので、一瞬でも気を抜けばあっという間に置いて行かれてしまうのだ。
弱まったとはいえ雨はまだ降り続いていて、買ったばかりの本たちのためにも濡れるのは遠慮したいところだった。
そう思ってふと自分の肩を見たけれど、雨に濡れた様子はなくて、え、と目を丸くする。
頭上を見上げれば、傘はすっぽりと想楽の身体を覆っていて、そのまま視線を下げて雨彦を見れば、想楽とは反対側の肩がしっとりと濡れているのが目についた。
「あめ──」
それはだめだと声を掛けようとするけれど。
「きたむら」
ひときわ柔らかい声で名前を呼ばれて、想楽はなにも言えなくなってしまう。
しーっ、と内緒話をするようにウインクをひとつして、雨彦は今にも鼻歌を歌い出しそうな顔で想楽を伴い歩いていく。
ずるい。
そんな顔をされたら、そんな声で名前を呼ばれたら、甘えてしまいたくなってしまうじゃないか。
雨彦の言葉の通り「いい子」になるのが悔しくて、想楽はえいっと傘の下から飛びだすように大きく一歩を踏み出す。
「おい、北村」
おいて行かれた雨彦が、慌てた声を出して追いかけてくる。
それがなんだか楽しくて、想楽はずんずん先へと歩いて行った。
雨は苦手だ。
雨音に思考がかき乱されるし、お気に入りの道具たちも汚れてしまう。
それでも。
今日のこの雨のことは嫌いではないかもしれない、と。
困り顔で追いかけてくる雨の名前をもつ男を振り返って、想楽は微笑むのだった。