【ミナアレ】この身で奪えるもの、すべて◇
最近、鷹梁の帰りが遅くなった。理由は肩すかしなほど単純で、俳優業で奮闘しているからというだけだ。前に演じた役が好評だったせいで、木曜夜の十時なんかにやるドラマにも抜擢された。今回のあらすじを聞いたら、人当たりのいい男が裏では七人の女と付き合っていて……とかいう退屈そうなもので、この前も同じようなやつ演っただろと言ったら「あれは脇役だし、相手は二人だよ」と苦笑していた。
「悪役ばっかりだ」
主役サマはそう言って、よそいきの清潔そうなシャツを着たままソファーに寝転がっている。
俺はここのところCM撮影などはあるものの、合間にトレーニングは出来ているし生活リズムは整っている。だからこそ朝早くに出かけて夜は不規則に帰ってくる鷹梁の一部始終を目の当たりにするわけで、朝のランニングに誘うタイミングすら逃すようになっていた。この俺が気を遣っているなんておかしな話だ。こうして鷹梁が夜の九時に帰ってきても、水飲むか、しか聞けていない。
「のむ」
か細い返事に舌打ちをこらえながら、俺は細長いグラスに蛇口から水を直接そそいだ。ウォーターサーバー置いてもいいのかも、と部屋を借りるときに鷹梁が言っていたが、まだバラエティ番組の端にも立っていない頃の話だ。
酒をのんできたわけじゃないらしいが、疲れているのには変わりない。俺が戻る頃には鷹梁は起き上がって座っていて、微笑んでグラスを受け取るくらいにはなっていた。たぶん空元気だろうが。
「撮影、きついのかよ」
自分も同じように水を汲んできて隣に座った。グラスの外側まで濡れている。
「いや、大丈夫。スタッフさんも共演者の人たちも優しいし」
水を飲み込んだあと、苦しそうに息を吐くくせに。
「昨日何時まで台本読んでた」
「あー……何時だっけ。そんなに夜更かししてないよ」
ごまかすのも下手になった。重症だ、と思って立ち上がり、壁にあるパネルを操作する。電子的な「追い焚きをします」という音が流れた。振り返ると鷹梁が「もう風呂に入るのか」という顔をしている。
「お前用だ」
「僕? 僕まだご飯作ってないよ」
「疲れた人間に作らせた飯なんか食いたくねぇ。俺だって肉焼くくらいはできる。いいから入ってこい」
「大和は?」
「俺はもうさっき入った。飯はお前があがってから食う。だからお前が風呂に入らねぇと俺は飯が食えねぇ。分かるか?」
鷹梁は「でも」と言いそうな口をして、そのまま閉じる。俺がわざと弱みを突いたことを分かっていて、だが正論でもあると思っているのだろう。分かったよ、と呟いた男は、重たげな体を持ち上げた。
できれば長風呂をしてくれたらいい。その間に、退屈なドラマが終わるように。
焦げ付いた肉とちぎったキャベツで夕飯を終え、歯を磨いた直後の鷹梁を寝室へ押し込む。
よろけつつベッドに腰掛けて、鷹梁は不思議そうに俺を見上げる。座るんじゃなくて寝ろ、と肩を押す俺と、不満げに体に力を入れる向こうとで、変なバランスをとっている。
「ねえ、怒ってる?」
「ように見えるか」
「見えるよ、半分ね。心配してくれてるのは分かるけど」
鷹梁は俺の腕を引き、一緒にベッドへ倒れこんだ。俺が押し倒す形になるが嬉しさはちっともない。寝ろ、と喉に力を入れて言うと、不透明な瞳がすっと細められた。
「久々の夜なのに。だめ?」
苛立ちがふつふつと沸き上がる。欲しいシーンにはタイミングがあって、今じゃないことは確かだ。俺は鷹梁の顔すれすれのところへ乱暴に手をついた。
「お前はそんな誘い方しねぇだろうが」
鷹梁は目を丸くして、それから気の抜けた声で、ああ、と呟く。
「そうだね、今のはヒロイン側の台詞だったかな」
俺がシーツをぐしゃりと掴んで、鷹梁がそれを見る。白い手が力のこもった拳をなだめるように握った。こういうのが上手い。嫌味なくやってのけるし、この男にほどかれてしまうならそれでもいいと思わされる。害がないように見せかけて、心地よく嵌まって抜け出せない。
そんなことまで、誰が見抜いた。ただのんびりと笑う男の、瞳の奥にある水底の温度を、誰が知って引きずり出したのか。
「君に触るのはこんなに落ち着くのにな」
鷹梁がゆっくりと瞼を閉じる。そのまま体が脱力していくのを見て、俺は大きなため息をついた。でかい体をずらして布団をかけてやって、そのまま自分も横になる。
俺達にはせまいベッドだった。いつかキングサイズを、と言ってはいるが、たぶん互いに今のままでもいいと思っている。
「……やめちまえよ、他の奴に触るくらいなら」
緊張がほどけていく目元に手を触れる。無意識だろうに、鷹梁は小さく唸って頬を寄せた。
翌朝、俺は家を出ようとする鷹梁の前に立ち塞がった。二人が立てば埋まってしまう玄関で、手押し相撲さながらの距離で向かい合う。
「大和? あの、僕もう出ないと……」
「俺も行く」
「え?」
ジャケットを着ている。バイクの鍵も持っている。見て分かんねぇか、という目を向けると、鷹梁は律儀に首を振った。
「今日は撮影だな?」
「そうだよ、だから……」
「俺も行く」
「えぇー……?」
わかんないよ、と苦笑する鷹梁の顔は、たぶん昨日よりは血色がいい。それでも外に出ればまた消耗して、光のない目で帰ってくるのは分かりきっていた。その様子をただ見ているだけの俺ではない。
「邪魔はしねぇ。カメラの後ろに立つ」
水色の目が、くるりと丸くなって俺を見上げる。俺は鷹梁の顎を掴んで引き上げた。
「俺を見ていればいい。視線も台詞も、感覚もすべて俺に向けろ。他の役者はマネキンだと思え」
何か言いたげな口は、俺の指に挟まれていてうまく動かないらしい。ぱっと手を離してやると笑いがもれた。
「ふふ、あはは……そんな撮影見たことないよ」
毒気のない笑顔に、ようやく胸のつかえが一つ取れた心地がする。だが、まだだ。全部ちゃんと見届ける。期待で塗り固められた演技が全部無駄だったということを、俺が証明してやる。
はっきりと承諾はしないだろうから、勝手に鷹梁の腕を掴んで外に出た。今日初めて浴びた涼やかな空気を、お前もちゃんと味わえばいい。
「僕、もうどこの撮影にも呼ばれないかもなぁ」
後ろから声がする。いつもの能天気な調子で。
「それでいい。暇なら筋トレに付き合え」
「ふふ。そうだね。ご飯もいっぱい作ってあげるよ」
鷹梁が横に並ぶ。俺を見る瞳は、朝のほうがよほど似合いそうな、善良な色をしていた。
END