桜流し 獅子神敬一が死んだ。
四月の二日、桜が散り出す頃のことだった。
村雨にその死を伝えたのは真経津だった。
「——は?」
「死んじゃったんだって。試合には勝ったのに。獅子神さんらしいよね」
真経津は薄く微笑んで言った。「獅子神さん、死んじゃった」と告げたその時も、彼は同じ顔をしていた。
「……いつだ」
「今日。ボク、さっきまで銀行にいたんだ。ゲームじゃなかったんだけど、手続きで。そしたら宇佐美さんが来て教えてくれた。仲が良かったからって」
村雨はどこかぼんやりと真経津の言葉を聞いていた。
「あれは、……獅子神は家族がいないだろう。遺体はどうするんだ」
「雑用係の人たちが連れて帰るって聞いたよ」
「そうか」
「銀行に預けてる遺言書、あるでしょ。時々更新させられる、お葬式とか相続の話とか書いたやつ。獅子神さん、あれに自分が死んだ後は雑用係の人たちにお葬式とか後片付けとか任せるって書いてたみたい。まあ銀行も、事情が分かってる人がお葬式してくれた方が安心だもんね」
「そうだな」
「宇佐美さんはお通夜が今日の夜で、お葬式が明日だろうって言ってた。村雨さん、行くでしょ」
「ああ」
「じゃあ雑用係の人たちに詳しく聞いといてよ。それでまたメールしてね」
「分かった。……あなたはこれからまた出かけるのか?」
真経津はきょとんとして頷いた。
「うん。叶さんと天堂さんに獅子神さんが死んじゃったって言ってくる」
「メールで済むのにか」
真経津は仕方ないなあ、とでも言いたげに苦笑した。
「友達が死んだことくらい、顔見て伝えたいでしょ」
「……そうだな」
じゃあね、と軽やかに席を立って、真経津は病院のカフェテリアを出て行った。
その背を見送って、村雨もまた、ゆっくりと腰を上げた。
獅子神が死んだ。
臆病で善良なあの男が、死んだ。
午後の業務を正確にこなしながら、村雨は胸の内でその言葉を繰り返していた。
獅子神が死んだ。
銀行で死んだ。
いつ会えなくなるか分からないと言ったのは真経津だったか、叶だったか。
その通りだと思っていた。ハーフライフに籍を置く以上、いつその日が来てもおかしくない。村雨だって真経津に負けている。村雨に勝った真経津も、天堂と戦った際には入院するほどのダメージを受けた。村雨は恐れでも願望でもなく、ただ知っている。人はいずれ必ず死ぬし、銀行賭博に関わるなら、その死は常に鼻先を掠めるのだと。
だから獅子神を鍛えてやった。彼は友人だった。得難い友で、失いたくない人間だった。タッグマッチの後も、請われて何度か彼の練習に付き合った。彼がその臆病さと生への執着を以って賭場を生き延びるのを、村雨は手伝ってやりたかった。
獅子神は善い人間だった。努力家で、お人好しで、素朴な男だった。人間として生きることに長けていて、情が深かった。真経津を起点に広がった交友関係の中で彼は常にみなに親愛を分け与えていた。それが当たり前のことであるかのように、獅子神は四人の友を愛した。
だから村雨も彼を友として愛した。
本当に、得難い友だった。
だが彼は死んだ。
村雨の手の届かないところで。
「村雨先生、何かあったんですか」
「何かとは」
更衣室で隣り合った同僚に尋ねられて、村雨は淡々と聞き返した。同僚は首を傾げて言った。
「うーん、なんかこう言葉にしづらいんですけど、なんだろうな、やなことでもありました?」
見抜かれたことに驚きながら、村雨は軽く頷いた。
「友人が亡くなったと連絡を受けて」
「えっ」
「三歳下の男ですが。急だったもので」
「えっ、えっ、お通夜とか」
「顔を出すつもりではいます。なので夜は少し抜けますが、当直には戻ります。明けの休暇は葬儀に出席するので連絡はとれないつもりでいてください」
「わ、分かりました。あの、ご愁傷様です」
「どうも」
気遣わしげな同僚の視線を煩わしく思いながら、村雨はスクラブスーツを脱いだ。
獅子神の雑用係——元奴隷の園田は、葬儀の日程を尋ねる村雨のメールに淡々と返事を寄越した。死の経緯が経緯なので、あまり目立つような式にはせず、ごく少数の知人だけに知らせるのだと言う。宇佐美の推測通り、通夜が今夜で、告別式は明日。亡くなった当日に通夜を行い、死亡診断書から二十四時間が経過した直後に荼毘に付すのは、賭場の存在を秘匿したい銀行の要請だそうだ。
『村雨先生にご出席いただければ、獅子神も喜ぶと思います』。村雨は園田からのメールを見つめ、そうか、あの男が喪主を務めるのだな、と不意に理解した。獅子神に家族は無い。喪主を務めることができるのは、もはや彼らしかいないのだった。
村雨は園田が喪主として立つ告別式に友人として訪れる自分の姿を想像した。どこかよそよそしく、目の前に線を引かれたような光景。当たり前だ、村雨は獅子神の友人でしかないのだから。だが生前の獅子神が示した愛情と、葬儀の参列者でしかない自分達の姿は、どこかちぐはぐに思えた。獅子神は友人だ。大切な、村雨が人生で初めて得た親友の一人だった。獅子神もきっとそう思ってくれていたと村雨は信じた。だが獅子神が村雨に与えた献身的な友愛も、村雨が獅子神に捧げた祈りにも似た親愛も、葬儀という公の場ではただ友人という肩書きに収束して、村雨と獅子神の間に黒々とした線を引く。
彼を彼岸へ送り出す時、村雨はその傍にはいられない。
それが寂しかった。
宗派はどこで行うか、と村雨は園田に尋ねた。少し間が空いて、『無宗派で行いますので、お気遣いなく願います』と返事が届いた。無宗派葬でも通夜を行うのだな。村雨はそんなことを思いながら、他の三人も連れて出席する旨を送信し、ぼんやりと宙を眺めた。
真経津から訃報を聞いたのが今日の昼だ。勤務の合間にこうして葬儀の予定を確認したが、やはり帰宅して喪服に着替えている時間はない。いつものスーツにネクタイだけ黒を締めることにして、村雨は再度スマートフォンを手に取った。
真経津たちに通夜と告別式の予定を連絡し、特に真経津には服装の注意をする。真経津からはすぐに『お通夜って喪服じゃだめってほんと? 喪服じゃなかったら何着るの?』と返信が届いた。例によってCCに入った全員への返信だったので、すぐに天堂が返事をする。近頃は喪服でも問題ない場合が多いし、何より亡くなったのはあの獅子神なのだから、死者を思いやる気持ちがあればどんな服装でもいいだろう、というのが天堂の意見だった。叶は暗い灰色のスーツと喪のネクタイにすると言う。そこから通夜と告別式の持ち物、香典の表書き、供花と話が流れ、村雨はそのうちにスマートフォンを置いた。
無宗派の式だから数珠はいらない。行きがけに香典袋と筆ペンを買って、表書きは喫茶店かどこかで書いてしまおう。中身は相場なら一万円程度だが、賭場で億のやりとりをしていた獅子神の霊前に供えるのが一万円の香典とは、少し滑稽な気もする。原義通りに香木でも送ってやった方がいくらかマシかもしれない。あの人はいい香りのするものが好きだから。だが、ああ、獅子神はもうその香りを味わうことはできないのだ。
村雨は蛍光灯の光の中に舞う埃を見るともなしに見つめ、そうか、獅子神は死んだのだな、とただそれだけを考えていた。
夕闇の中に雨が降っていた。
職員玄関を出た村雨は、傘を広げて天を見上げた。重い雲が仄白く空を覆っている。その合間から、生暖かい雨が蕭々と降り続いていた。
桜流しだな、と村雨は歩き出しながら呟いた。
三月の末に咲いた桜を囲んで花見をしたのは先週だった。
何かの話の流れで、天堂が、奉職する教会の近くに桜の穴場があるのだとふと漏らし、いつものように真経津が花見をしたいと駄々をこねたのだった。
こういう時、計画するのは大抵叶で、細かな算段をつけるのが獅子神だった。叶がさっさと日時と集合場所を決め、雨天順延、食べ物は持ち寄りと宣言した。獅子神はぶつくさ言いながらドリンク類は叶、菓子やつまみは天堂、レジャーシートと紙食器類は村雨が用意するようにと割り振り、食事は自分が用意すると当然のように言った。真経津をものの数に入れないのも獅子神らしかった。
当日は穏やかに晴れた暖かい日で、花見は大いに盛り上がった。村雨が用意したシートは呆れるほど大きかったので、全員が寝転がってもまだ余裕があった。真経津は早速横になって時折降る桜の花びらを食べようとはしゃぎ、叶と天堂は腹這いになって悪辣な相談を繰り広げながら酒を飲んでいた。村雨は獅子神の持ち込んだ五段重を攻略するのに忙しく、桜はたまに見上げる程度だった。
獅子神は——獅子神はどうしていただろうか。
獅子神はたしか、自由な友人たちを眺めながら、けらけら笑ってお茶を飲んでいた。チートデイだと言って菓子をつまみ、自作の唐揚げを食べては難しい顔をし、そしてしばしば、桜を見つめていた。
天堂が穴場だと言うだけあって、そこはぽっかりと穴が空いたようにひと気がなかった。神さびた神社の裏手に数本だけ巨きな桜の古木が残っていて、生垣との間に囲われたその場所は、穏やかな静けさに満ちていた。
遠くから川べりの桜祭りの歓声が聞こえていた。そう距離は離れていないはずなのに、どこか別の世界のさざめきのようだった。
そのさざめきと、ギャンブラーたちのはしゃぎ回る声を聞きながら、獅子神はただ嬉しそうに、桜を見ていた。
薄紅色の花びらが金の髪を彩っていて、ああ美しいなと、村雨はただそう思ったのだった。
だが、その獅子神はもういない。
あれが獅子神が見た、最後の桜だったろう。
獅子神に触れた桜は、あの花弁が最後だったろう。
そして村雨が、桜の下で微笑う獅子神を見るのは、あれが最後だったのだ。
「獅子神、」
美しかった。
やわらかな日差しの下、桜を浴びて楽しげに微笑む彼は、美しかった。
春の光。
甘い風。
桜が舞って、彼の髪を乱す。
甘く垂れた目尻に皺を寄せて、彼が微笑する。
村雨、と笑う。
ああ。
獅子神。
獅子神、あなたは——。
は、と我に返って、村雨はいつの間にか止まっていた足を再び動かした。
傘を深くさし目を落として、足早に車を目指す。
雨がしとしとと傘を打ち、桜を散らす。
俯いた視界に、水たまりに浮かぶ小さな花筏が映った。
ゆらゆらと揺れる桜の小舟を、ふと強く吹いた風が崩した。
不意に胸が焼けるような心地がして、村雨は息を詰めて強く目を瞑った。
(獅子神……)
獅子神。
なぜ死んだ。
通夜は滞りなく進んでいる。
小さな斎場のホールに設られた祭壇には生花が飾られ、獅子神の遺影が掲げられている。遺影の中の獅子神はどこか不機嫌そうな表情をして、まっすぐに前を、睨むように見ている。きっと銀行で身分証明のために撮られた写真を使った合成なのだろう。銀行に預けた遺書の更新と同じタイミングで都度撮影されるバストアップの証明写真が遺影に使われるとは、彼も思っていなかったに違いない。あなた、もっと写真を撮っておくべきだったな。村雨は胸中で遺影の中の獅子神に語りかけた。
写真。そう、写真をもっと撮っておけばよかった。もちろん、彼の写真や動画は豊富にある。何せ身内に叶黎明がいるのだ。配信のアーカイブや、SNSにアップロードされた画像の中に、獅子神は無数にその姿を残している。ほとんどは叶や真経津に苦言を呈し眉間に皺を寄せているところで、いくらかは無邪気に笑っているところ。生き生きと動き回り、怒り、笑う獅子神の姿。
けれどそれは、村雨に向けられたものではなかった。
村雨は写真を撮る習慣がない。スマートフォンのカメラ機能も、メモ替わりに使うのが精々だった。だから村雨は、獅子神の写真を持っていない。村雨を見る獅子神の写真も、二人並んだ写真も、一枚も持っていないのだ。それが今更悔やまれた。彼がそこに、村雨の隣にいたことを、村雨を見て笑ったことを、写真に残しておきたかった。村雨が見た獅子神を留めておきたかった。
村雨だけの、獅子神を。
三つ隣に座った真経津が腰を上げる。献花の順番が来たのだ。小さくクラシックの流れる中、参列者が列を作って祭壇へ向かう。斎場のスタッフから白花を手渡され、一人ずつそれを献花台に捧げている。
参列者は村雨の予想よりも遥かに多かった。年齢も性別もばらばらの人々が、皆悲しげに顔を歪め、あるいは涙をこぼしながら、獅子神の遺影に手を合わせている。
やがて隣席の叶が立ち上がり、すぐに村雨もそれを追う。真経津は手にした花をぽん、と跳ねるように献花台に置き、遺影を見上げて微笑んだ。唇だけで何かを囁き、礼をすることなく席へ戻っていった。続く天堂は美しい所作で花を献げ、十字を切った。黙祷ののち、やはり彼も、遺影に微笑んで去った。叶は大股に祭壇の前へ進み出ると、そっと花を置いて、深々と一礼した。彼は遺影にちらりと目をやり、唇を噛んで、再び大股に歩き出した。
村雨の番が来る。
手渡された花は白百合だった。しっとりと重い花を胸の前に持ち、祭壇に礼をする。顔を上げると、祭壇の真ん中に、ぶすくれた顔の獅子神がいる。その表情が今更ながらにおかしくて、村雨はふと微笑んだ。一歩進んで、白百合を静かに献花台へおさめる。そうだ、確かに、白の似合う男だった。
下がって小さく手を合わせた。故人に話しかけるのだ、と祖父の葬儀の際に兄に教えられたことを思い出した。幼い村雨礼二は全くもって非科学的だと思ったが、それでも手を合わせて、祖父の安らかなることを祈った。それから随分大人になったというのに、今、友の遺影の前で、彼に何を言えばいいのか村雨は分からなかった。瞑目したまま、村雨は呟いた。獅子神。なぜ死んだ。
村雨は踵を返して席に戻った。
無宗派の通夜なので、儀式めいたものはほとんどない。献花が終わればそのまま帰っていく参列者もいるし、残る者もいる。村雨たちは園田が最後の挨拶を終えるまで席についていた。
閉会ののち、園田は四人の元へやってきた。疲れた顔で笑い、彼は頭を下げた。
「皆さんお忙しいのに、来ていただいてありがとうございます」
「お礼を言われるようなことじゃないだろ」
叶が首を振った。
「急なことだったが、参列者が随分多かったな。みな獅子神くんのご友人か」
天堂が尋ねると、園田は苦笑した。
「半分くらいは元奴隷です。……ほんとは、通夜をする予定じゃなかったんです。あんまり急すぎるし、獅子神さんの遺言も派手にするな、葬式なんかしなくていいって書いてあって。でも、元奴隷の連中に獅子神さんが亡くなったことを伝えたら、みんな獅子神さんを見送りたいって。明日の葬式は銀行関係の人も来るし、元奴隷はちょっと顔を出しにくいですからね。それで急遽通夜もすることになって」
「慕われていたんだな、獅子神くんは」
「そりゃもう。めちゃめちゃ恩がありますよ、俺たちは。……俺たちは皆さんみたいなギャンブラーじゃないですからね。いずれどこかで負けて、負債に耐えられずに地下落ちしてた。その相手が獅子神さんで、拾ってもらえて本当に幸運でした。あの人は俺たちを……まあそんなに理不尽には扱わなかったし、殴ったり、殺したりもしなかった。メシも食わせてもらったし、風呂にも入れてくれた。あの人は俺たちを奴隷として扱ったけど、俺たちはあそこで奴隷の『人間』でした。モノじゃなかった。追い出された時、結構な数が残りたがったんですよ。でもまあ、そうもいかなくて、残れなかった連中の方が多かった。そいつらが今日、みんな来てたんです」
遺影を見上げ、啜り泣いていた男たちがそうなのだろう。村雨たちとはまた別の場所から、獅子神を愛していた人々。彼の死を悼む人々。
「ねえ、獅子神さんには会えないの?」
真経津が祭壇の前の棺を指して言った。園田は苦笑して棺に向かう。覗き込む真経津の前で、園田は棺の小窓を開けた。
「あれ」
「ね?」
中は空だった。白い内張の中に花束一つだけが置いてある。
「エンバーミング……というか、見た目を整えるのが間に合わなくて。顔だけなら無傷だったんですけど、腰から下がね、潰れて……しまっていて」
園田が言葉に詰まり、小さく鼻をすすった。
そういえば獅子神の死因を聞いていなかったな、と、村雨は初めて気づいた。
「さすがにね、そんな状態で納棺するわけにもいかないでしょう。だから今日はこうだったんです。今晩中には棺に移ってもらって、明日は蓋も開ける予定ですよ」
「そっか。じゃあ獅子神さんには明日さよならするね」
「……はい。そうしてあげてください」
棺の中にぽつんと転がった花束を撫でる真経津に、園田は泣き笑いのような奇妙な表情でそう言った。
翌日も桜流しの雨が降り続いていた。
斎場の外の桜並木が、雨に打たれてはらはらと花びらを散らしているのを眺めながら、村雨はホールに足を踏み入れた。
昨日より少しだけ大きな祭壇と、昨日と同じ遺影。
そして棺。
かすかに薬品と、血の匂い、それから死臭がして、村雨は息を詰めた。
ああ。
「村雨さん」
真経津が手招いている。喪服を着た彼は最前列に座っていた。
「おい、そこは遺族席じゃないのか」
「獅子神さんに遺族はいないでしょ。雑用係の人に席順聞いたら、せっかくだから一番前に座ってくれって言ってたよ。座席も一列に並べちゃったから、親しい人から前に詰めていく感じにするんだって」
そうか、と村雨は頷いた。昨日は人の入れ替わりがあったから気にならなかったが、確かに獅子神には親族がいない。最前列の端の二席が雑用係——つまり喪主と遺族代わり——の席となり、その隣から、村雨たち四人の席となるのだという。獅子神さんと知り合った順ね、と真経津が無邪気に言うので、村雨は黙って真経津の隣に腰を下ろした。それからすぐに天堂が現れ、村雨から一つ空けて着席する。最後にやって来たのが叶で、彼は押し黙ったまま村雨の横に座った。
小さなホールは段々と人で埋まっていった。聞くともなしに人々のさざめきを聞いていると、獅子神の投資家仲間や、彼が出資して起業した経営者などが多いようだった。園田は昨日、「呼ばないと後日が面倒そうな人だけとりあえず連絡した」と言った。彼らがそうなのだろう。
聞き覚えのある声がして振り返ると、カラス銀行の行員が、最後列に腰を下ろしていた。獅子神の担当行員だった。こちらに気づいて会釈をする。その隣にいるのは主任の宇佐美だ。もう一人、おそらく銀行員だろう出で立ちの男が、その隣に座った男に話しかけている。おそらく、賭場で死んだ獅子神の葬儀でトラブルが起こらないよう監視する意味もあるのだろう。喪服に身を包んだ行員たちはどこか死神めいていた。
やがてBGMが少しずつ小さくなり、司会のスタッフが開式を告げた。
園田がマイクを手にして立ち上がった。
「本日はご多忙の中、獅子神敬一の葬儀にご会葬いただき、ありがとうございます。獅子神には家族がおりませんでしたもので、獅子神の秘書を勤めておりました私、園田が喪主を務めさせていただきます。獅子神の希望によりまして、本日は無宗派という形で執り行うこととなりました。今流れておりますのは、故人が生前、自分の葬儀でかけてほしいと申しておりました曲になります。皆様もご承知の通り、獅子神は用意周到で、また少々悲観的なところがございました。本人もまさかこれほど早くこの『葬式プレイリスト』の出番が来るとは思っていなかったと思いますが、皆様に好きな楽曲をご紹介できることには、喜んでいるのではないかなと思います。……短い時間ではございますが、どうぞよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げて、園田はそっと腰を下ろした。
「葬式プレイリストだって。獅子神さん、面白いこと考えるね」
真経津が耳打ちをしてくるのに、村雨は小さく肩をすくめた。
「無宗派での葬儀は大抵間が持たない。読経も説法もないからな。音楽を流しておけばとりあえず取り繕える。あなたも考えておいたらどうだ」
「ボクお葬式しないもん」
実に真経津らしい答えだった。
BGMが少し大きくなる。獅子神が選んだ曲だと思うと、耳を傾けねばならない気がしてくる。ブランデンブルク協奏曲。第三番、ト長調。第一楽章。ゆったりとしたメロディに、村雨はいつかの獅子神を思い出した。
まだ天堂と知り合う前、獅子神が言うところの「身内」が四人だったころのことだ。真経津の部屋でだらだらとゲームをするのに付き合い、そのまま泊まったことがあった。スマブラでオールする、と意気込んでいた真経津は早々に脱落した。今は叶が近々実況するゲームの練習をするといって、延々PvPのマッチングをしている。叶はこの手のゲームがやたらと上手かった。
獅子神はソファに半ば寝そべるように腰掛け、叶がワンショットキルを決め続ける画面をぼんやりと眺めていた。ゲームの中で不意にクラシックが流れる。ヴェルディのレクイエム。Dies irae。
「これよく聞くな」
「定番だな! ちなみにオレが今皆殺しモードに入ったからBGMが変わったんだぜ、敬一くん」
「んだその物騒なモード」
「プレイヤーが残り三分の一になると、プレイヤーを一定数以上脱落させたキャラに三十秒だけボーナスバフがかかるシステム」
獅子神がふと溢した言葉を拾って、叶がコントローラーを操りながら楽しげに言った。
「ゲームとか映画でよく採用されてるんだ、この曲。だいたいヤバいことが起こってるシーン」
「まあ、終末の歌だからな」
村雨が口を挟むと獅子神は「終末?」と首を傾げた。
「この曲は『レクイエム』、ヴェルディのミサ曲だ。死者の安息を祈る聖歌だな。最も有名なのがこのメロディで、通称怒りの日。世界の終末において、キリストが全ての生者と死者の行いを審判する日を表した典礼文にメロディをつけたものだ。メロディと詞の印象強さでよく映像作品に引用される」
「へえ……」
「ジャン、ジャン、ジャン、ジャン、ジャンて入りからコーラスに入って、ディエスイレ! って最初のとこがもうすごいドラマチックだよな。ていうかヴェルディのレクイエム全体的に装飾過剰でオレ好き」
「内容としては『ダビデとシビラの予言の通り、世界が灰燼に帰す怒りの日、審判者が現れ全てが裁かれる、その恐ろしさはどれほどか』といったところになる。一般に『怒りの日』と呼ばれるのはほんの数分の部分だが、とにかく掴みが強い」
獅子神は目を丸くして頷き、それからふっと自嘲するように笑った。
「オレ、こういう教養みたいなのなんもねえからさ。こういうの知ってると面白いことって色々あるんだろうな」
叶がちらりと村雨に視線を寄越す。村雨はなんでもない顔をして言った。
「興味があるなら学べばいい。あなた、勉強するのは好きだろう。それにいわゆるクラシックは堅苦しい教養の枠で捉えられがちだが、単純に音楽としても優れたものが多い。好きな曲を探せばいい。好きな曲が見つかって、興味が湧いたなら、その曲の構造や意味、背景を学び、歴史を知ればいい。そんなものだ」
「……そうかな」
「そうだ。あなたの好きな曲を見つけろ。そのうちプレイリストにして聞かせてくれ」
「……ん」
獅子神ははにかんだように笑った。
「オレのアガるクラシックプレイリスト見る? 惑星とか威風堂々とかワグナー色々とか入ってるぜ」
ゲームの手を止めた叶が掲げた音楽配信サービスのプレイリストを覗き込む獅子神を、村雨は微笑ましく見ていた。
そういう一夜が確かにあったのだ。
——そうか。あの時のプレイリストを、あなたは作ったのだな。
村雨はブランデンブルク協奏曲がフェードアウトしていくのを聞きながら、あの日を懐かしんだ。
「ご友人の皆様より、お別れの言葉を賜ります」
司会のスタッフの言葉に、同じ列に座っていた男が腰を上げた。獅子神と同年輩の、明るい髪をした男だった。
スピーチの内容は当たり障りのないものだった。男は個人投資家で、獅子神とは顔繋ぎのためのパーティで知り合い、近々ベンチャー企業に共同出資する話をしていたのだという。獅子神を勤勉で忍耐強い人間だったと褒め、彼が亡くなって寂しいと嘆いた。時折言葉に詰まり、目に光るものを浮かべる彼は、確かに獅子神の友人であるらしかった。
「敬一くんのともだち、初めて見た」
叶がぽつりと呟いた。いつもギャンブラーたちだけで集まっていたので、それ以外の人間関係は、お互い全く知らない。
「獅子神くんには獅子神くんの人生がある。……あった。彼は善良な男だったからな。友人も多かったろう」
「えー、そうかなあ。獅子神さん、臆病だしちょっと腰がひけてるとこあるから、ともだち少なそう。ボクたちだって、ボクがあの時CCに村雨さんと獅子神さんを入れてなかったら、友達になってなかったと思うよ」
「蒸し返すようだが、あなた、いきなり知らん人間をCCに入れるのを止めろ」
「そのおかげで獅子神さんと友達になれたのに」
「それはそれだ」
「ワガママ!」
真経津がケラケラと笑った。周囲から白い目が向けられるのを全く気にせず、真経津は組んだ足に頬杖をついて微笑んで遺影を見上げていた。
「——同じくお別れの言葉をいただきます、村雨様、お願いいたします」
「あれ?」
きょとんとする真経津にちらりと意地の悪い笑みを残して、村雨は席を立った。
礼を済ませて、スタンドマイクの前に立ち、正面の遺影を見上げる。
昨日はここで手を合わせても、彼に何を言えばいいのか分からなかった。
帰り際、園田に可能なら弔辞をと言われ、当直の最中もずっとそれを考えていた。
獅子神に何を言うのか。何と言って、彼を送り出せばいいのか。どうやって、彼に別れを告げればいいのか。
一夜が明けて、ようやく心が決まった。
「獅子神」
前置きなく、弔辞を広げることもなく、村雨は口を開いた。
後列の参列者がわずかに騒つくのを感じる。村雨は口の端を上げて続けた。
これは村雨から獅子神への別れの言葉だ。礼法も、常識も、知ったことか。そもそもギャンブラーに弔辞なぞ依頼する時点で、喪主の園田もそんなもの期待していないだろう。村雨がどういう人間かを知っていて言い出したのだから、彼はきっと単に、ギャンブラーたちからも獅子神を送る言葉を得たかった、それだけなのだ。
「……獅子神。マヌケめ。私たちの中で、最初に死ぬのはあなただろうと思っていた。あなたは注意力が足りず、考えなしで、臆病なくせに無謀だ。いつか運が尽きてあっさり死ぬ。誰にでも分かっていたことだ」
誰かが声を荒げるのが聞こえた。宇佐美が宥めているから、きっと銀行の関係者なのだろう。獅子神、あなた、銀行にもシンパがいたのか。村雨は少しおかしく思う。
「あなたはお人好しだった。初めて会ったのは真経津に強引に連れて行かれたクラブだったな。そこでもあなたは細々真経津の世話を焼き、解散した後も真経津の部屋であの散らかりように怒鳴り散らしながら片付けをしていた。どれだけ人がいいのか、それともただのアホなのかと私は訝ったものだ」
ソファに転がってゲームをする真経津と、クッションを抱いて早々に戦線離脱した村雨の横で、獅子神は文句を言いながら物を片付け、掃除をし、時々ゲームに口を出しながらいつまでも動き回っていた。少しは休めばいいものを、と思ったことを覚えている。
「あなたは人をもてなすのが好きだった。あなたの料理は美味かったし、あなたの選ぶワインはいつも料理によく合っていた。私たちの好物を好みの味で仕上げて胸を張るあなたは少々愉快だった。なぜそんなに試行錯誤してまで私たちのために料理をする? いいように使われているとは思わなかったのか? ……思わなかったのだろうな。あなたは、人の喜ぶ顔を見るのが好きだった」
園田が小さく鼻を啜った。彼ら奴隷は、王として君臨しているはずの獅子神の、そんな取り繕えない善性と優しさを、最も間近で見ていたのだった。
「あなたはマヌケで、臆病で、不注意で、善良で、献身的で、向上心に満ちた人間だった。学ぶことに貪欲で、いつも焦燥を抱えていた。けれどそれを人に向けることなく、あなたはいつも私たちを——友を愛した。私たちがあなたの献身と愛情に報いることができていたのか、私には疑問だ。あなたは私たちが返そうとする以上に私たちを愛した。あなたは得難い友だった」
村雨はもう一度、遺影を強く見上げた。
「あなたが最初に死ぬだろうと、私は確かに思っていた。あなたは優しすぎたし、献身が過ぎたから。いつかその不注意さと、優しさで、身を滅ぼすようなことになるだろうと危惧していた。あなた、私がどれだけ忠言しても聞き流していたからな。……だが獅子神、これは早過ぎる」
誰かが啜り泣いていた。目の奥に熱を感じながら、村雨は遺影を睨んで続ける。
「獅子神。なぜ死んだ。なぜ『事故』になど遭った。即死などするな、マヌケ。生きてうちの救急に来れば、私が助けてやった。何を引き換えにしても、私があなたの命を繋いでやった。私の手の届くところにいれば、あなたを死なせたりしなかった。こんなに早く、あなたを失ったりしなかった。また来年も花見をしようと言っただろう。来年は弁当にアスパラのベーコン巻きを入れるんだろう。天堂と真経津が喧嘩しないように、道明寺も作るんだろう。なぜ死んだ。嘘つきめ。私はもう二度と、あなたと桜を見られない」
桜の下の獅子神を思い出す。その間の抜けた、柔らかな微笑みと、日に透ける金の髪を思い出す。真経津のはしゃぐ声と、叶の含み笑いと、天堂の皮肉げな笑い声を思い出す。
夢のようなあの桜を思い出す。
「獅子神。もう二度と会えないとは、どうしても信じられない。まだあなたに何も伝えていない。あなたに感謝も、愛も、幸福も、何も伝えられていない。私たちがどんなにあなたを愛していたか、どんなにあなたに感謝していたか、あなたと過ごせてどんなに幸福だったか、何も伝えられていない。……だがもうあなたはいないのだな」
遺影が涙で滲んだ。寂寥が胸に迫り、村雨は小さく息をついた。
「獅子神。これを言うのは癪だが、最後だからな。あなたがいなくて寂しい。あなたがいないことが辛い。あなたを失って、とても、悲しい。あなたともっと過ごしたかった。馬鹿をやって、笑っていたかった。だがこれでさよならだ。さようなら、獅子神。せめてあなたの今が、安らかであることを祈る」
深く礼をすると、涙がこぼれ落ちた。気付いたのは最前列の身内くらいだろうと、気にしないことにした。
村雨が席に戻ると、天堂が膝を軽く叩いた。この男なりに慰めているようだった。真経津は村雨の肩にこてんと頭を乗せ、「さみしいね」と小さく笑った。叶は何も言わず、膝の上で固く拳を握り締めていた。
弔辞は二人だけのようだった。BGMが変わり、真経津が「あ、カノンだ」とはしゃいだ声を上げた。パッヘルベルのニ長調カノン。チェロ四重奏のアレンジ。ああ、彼は、チェロが好きだった。あの低く柔らかな音色。
続いて弔電が読み上げられ、通夜と同じように献花を行い、やがて最後の別れの時が来る。
一旦棺が運び出され、しばらくのちに斎場に戻ってくると、スタッフが棺の蓋を開けた。強過ぎる消毒薬と、血の匂いが広がる。そしてかすかな腐臭。村雨には馴染み深い匂い。
死者の匂い。
「よろしければ、ご参列のみなさま、最後に顔を見てやってください」
園田がそう言って、スタッフの用意した盆の上から別れ花を手にとって、棺の中にそっと納めた。真経津が跳ねるように立ち上がって、花を摘み上げる。村雨も真経津を追って腰を上げた。
今日手にしたのは薔薇だった。薄い黄の薔薇を手に、村雨はゆっくりと棺に近づいた。
真経津は既に花を手放して、ただ棺を覗き込んでいる。俯いた顔に、慈愛にも似た笑みが浮かんでいる。
とうとう棺の前までやってきて、村雨はその中を見下ろした。
獅子神敬一だった。
眠るように目を閉じ、白い肌をファンデーションと頬紅で血色よく整えられ、微かに血と死の匂いをさせた、それは獅子神敬一だった。村雨の知る男だった。
「ああ」
村雨はまた涙をこぼした。
そうか。
そうなのだな。
村雨は内心で深く頷いた。
「あなた、死んだのだな、獅子神」
獅子神は答えない。当たり前だ、死んでいるのだから。
震える手で薔薇をそっと獅子神の耳元に置いた。金の髪の横で、彼を弔う花が瑞々しく咲いている。それがどこか滑稽だった。
呆然と棺を見下ろしていると、不意に隣に大きな男がやってきた。叶だった。叶は桜色のスイートピーを強く握り締め、獅子神を見つめて押し黙っていた。
それから引き結ばれた唇がくしゃりと歪み、「なんで死ぬんだよお」と震える声が叫んだ。白い頬を涙がぼろぼろとこぼれた。
「なんで死んだりするんだよ敬一くん、なんだよ、置いてくなよお。ばか。オムライスチャレンジの配信出てくれるって言ってたくせにい。オレをもっと見てくれるって約束したのにい」
叶は棺に取り縋るようにしてくずおれ、子供のように泣きじゃくった。
そんな叶の背を天堂が撫でる。彼は蘭を獅子神の手元に乗せ、「あなたが神のみもとに安らげることを」と言って、叶を立たせて戻っていった。
村雨は棺の脇に立つ園田を見やった。園田は目を真っ赤にして、獅子神を見つめていた。村雨の視線に気づくと、園田は少し瞠目して、それから苦笑して目元を拭った。
そうか。そうだな。
村雨は最後にもう一度獅子神を見て、そして踵を返した。
出棺はあっさりとしたものだった。園田たちはそのまま火葬場へ向かい、残った参列者は三々五々解散していく。
まだ鼻をぐずぐず言わせている叶を慰めながらなんとなく斎場に残っていたギャンブラーたちに近づいてきたのは、宇佐美と梅野だった。
「お悔やみを……とあなたがたに言うのも妙な話ですが」
宇佐美は会釈してそう言った。
「主任自らギャンブラーの葬式におでましとはな」
村雨が水を向けると、宇佐美は肩をすくめた。
「獅子神様はよい顧客でしたので。それにギャンブラーの皆様で、真っ当に葬儀を行なわれる方はそう多くはありませんからね。お別れを言えるものなら言いに来ます」
「死因は宇佐美さんたちだけどね!」
真経津が当て擦る様子もなく言う。ようやく涙の止まった叶が、「まあギャンブラーなんてそんなもんだもんな」と呟いた。獅子神の——仲のいい友人の死に打ちのめされてはいるが、ギャンブラーである以上、賭場での死については己のそれも他者のそれも叶は十分に理解している。突然訪れるそれに、そしてその対象が他でもない獅子神だったことに、苦しんでいるだけだ。
「宇佐美くん」
不意に、もう一人の行員を連れた、村雨の見知らぬ男が宇佐美に声をかけた。どことなく見覚えがある気もするが、記憶にはない。真経津たちも首を傾げている。
「お待たせしてしまいましたか、田中様」
「いや。——村雨くんだね。それに叶くん、天堂くんと、真経津くん」
「……失礼ですが」
突然名前を呼ばれ、村雨は男に向き直って言った。男は「失敬」と名刺を取り出した。
差し出された名刺にあったのは、与党参議院議員の肩書きだった。
なるほど、見覚えがあるはずだ。
「『観覧席』の方ですか」
「あー、見たことあるな。オレのゲームも何回か見に来てただろ」
叶が手を打って言った。この男はVIP客だ。当然、賭場の。とすると、付き従う行員は特5課員だろうと村雨は当たりをつけた。VIPの接待は基本的に特5の担当だったはずだ。
「君たちのゲームは何度か見させてもらっているよ。叶くんの試合は華やかで盛り上がるね」
「それはどーも」
「今日はどうしてこちらに? 獅子神のお知り合いでしたか」
村雨が尋ねると、男は苦笑した。
「いや、ただのファンだ。彼は……獅子神くんは君たちとは違っただろう。ハーフライフに上がってくるプレイヤーは、大体が君たちのようにストレートにそこまで進んできた人間だ。持って生まれた才能があって、5スロットや4リンクは遊びにもならないような、天性のギャンブラー。だが獅子神くんは違った」
男はどこか熱に浮かされたように喋り出した。
「獅子神くんは、素質はあった。だがせいぜい4リンク止まりの才能だったし、実際彼は長く4リンクに滞留していた。危険を犯すこともできない、凡百のギャンブラーだった。それがある日……真経津くんと対戦した日から一変した。4リンクで地道に預金額を上げ、ハーフライフに上がってきた。そしてあの初戦、ライフイズオークショニアで初めてのタッグマッチを戦った。苦しみながら彼は開花した。泥臭く、形振り構わない戦い方のまま」
男の目にこもる熱に、村雨は見覚えがあった。これは御手洗暉を取り巻く熱狂と同じ種類のものだ。不完全なもの、未成のもの、洗練されないものへの憧憬と偏執。
この男は、獅子神敬一というギャンブラーの戦い方、生き様に熱狂したファンなのだ。
「私は獅子神くんのゲームを見るのが好きだったんだ。余裕を持った騙し合いでも、優雅な罵り合いでもない、必死で、泥臭い、けれど決して諦めない彼のプレイが好きだった。……だからいつか、こんな日が来るのではないかと恐れていた」
不意に俯いて、男はトーンを落とした。
「ハーフライフでも運が悪ければ死ぬことはある。実際、命を落としたプレイヤーも見たことがある。獅子神くんも例外ではないと分かっていた。その日が来る前に引退してくれないかと思ったこともあるし、できるだけ長く、できるだけ多く彼のゲームを見ていたいと思ったこともある。彼はいつもぎりぎりのところで勝っていただろう。だから私は恐れながらも、きっと大丈夫だと、最後には彼は勝って帰ってくるのだと、そう信じていた。信じたかったのかもしれない」
「獅子神さんの最後のゲーム、あなたも見てたの?」
真経津が尋ねた。男は小さく頷く。
「彼は勝ったよ。勝ったが、一歩遅かった。ペナルティに押し潰される寸前で勝利を手にして、対戦相手に『オレの勝ちだ』と笑った。それから……それから重石が落ちて、幕が降りた。しばらくして獅子神くんの勝利と、死亡がアナウンスされた。悪い夢でも見ているような気分だった。彼は勝ったのに」
「あそこでは、勝敗と生死は必ずしも同義ではないからな」
天堂がぽつりと言った。彼もまた、ハーフライフで生死の境を歩いたギャンブラーだ。
「相手の方が先に死んでいたから、獅子神くんの勝利は覆らなかった。彼は勝って、笑って、死んだ。だからせめて、お別れを言いたかったんだ。ありがとう、さようならと」
男は目元を拭って、それから実に政治家らしい笑みを浮かべた。
「銀行に無理を言ってついてきた甲斐があった。いい弔辞だったよ、村雨くん。——では、また」
男は宇佐美たちを連れて、斎場を足早に出ていった。
残されたギャンブラーは顔を見合わせ苦笑した。
「敬一くん、客までたらしこんでたのか。やるなー」
「あの分だと他にも熱烈なファンがいそうだな、獅子神くんは」
「なんかさあ、女性客じゃなくてああいうおじさんのファンがついてるの、すごく獅子神さんっぽくない? 御手洗くんもそうだけど」
彼らはゆっくりと出口に向かって歩き出した。
村雨は最後に一度斎場を振り返った。棺も、遺影も運び出され、ただ花の減った祭壇だけが取り残されている。
最後の別れが終わったのだ。
静まり返った斎場に、村雨は小さく微笑んだ。
さようなら、獅子神。
またいつかどこかで、その時は、ただ笑っていられるように。
強く瞑目して、村雨は桜流しの雨の中へ踵を返した。
——村雨礼二が失踪したのは、その三年後のことだった。
残されたメモには、「獅子神のところへ行く」とだけ、記されていた。
<エピローグ>
まだ五月だというのに、南国の日差しは容赦なく万物を照り付けていた。
巨大な麦わら帽子を被った真経津は、浮かれ切った観光客そのものの装いで空港を駆け出ると、タクシーの運転手にメモを突きつけて飛び乗った。
「Vacation」
「Yes 友達に会うんだ」
「Ah, you mean, to meet your friends」
「よく分かるね! そう、I'm going to see my friends for the first time in 4 years.」
運転手は大袈裟に喜んでみせて、市内への高速道路を軽快に走っていった。
街で軽く食事をし、土産物を買い込んで、またタクシーを拾って目的地へ向かう。中心部から一時間ほど、島の北部に程近い海沿いの住宅街が真経津の目指す場所だった。
多めに運賃を支払ってタクシーを降りると、潮の匂いのする風が吹き付ける。海だ、と真経津はにんまり笑った。
少し歩くと緑の木々の向こうに透き通った海がちらちらと見え隠れする。好奇心のままそちらに分け入りたいのを堪えて、真経津は目的の家を探し当てると、インターホンを押した。
しばらくしてドアの内側から『……ア?! 真経津?!』と素っ頓狂な声が響き、真経津は一歩下がって大人しく待った。
案の定、そのまま立っていたなら強かに頭を打ち付けていただろうなという勢いでドアが開き、中から懐かしい顔が現れた。
「久しぶり、獅子神さん!」
「お、お、おま、なん……いやなんでここを知ってんだよ?!」
唖然とした顔で戸口に立っていたのは四年前に死んだはずの獅子神敬一だった。
「最初はね、本当に死んじゃったんだと思ってた」
氷の浮いたレモネードを美味そうに飲みながら、真経津は言った。
「でも村雨さんもいなくなったから、もしかしてと思って。宇佐美さんに探りを入れたらにこーって笑われてさ。叶さんと天堂さんに調べてもらったんだ」
「は〜〜……あいつら……」
ソファに沈んで天を仰ぎ、獅子神は大きな溜息をついた。
「隠蔽は完璧だったから安心してね。叶さんが見つけてきたの、旅行客の人のSNSのログだから。日本語を喋る垂れ目のイケメンがスーパーでやたらいいお肉買ってた、っていうのと、別の人のブログに写ってた獅子神さんの後ろ姿だけだよ。それで場所の当たりをつけて、天堂さんがあれこれしてこの住所をくれたんだ」
「その情報だけで死んだはずの人間を見つけ出すオメーらが怖えよ、オレは……」
ぐったりした獅子神に、真経津はねえねえと詰め寄った。
「大体分かってるけど、答え合わせしてよ獅子神さん。どうして死んだふりして日本を出たの?」
獅子神は黙ってがりがりと頭を掻くと、もう一度溜息をついて「誰にも言うなよ」と前置きをした。
「叶さんと天堂さんには言うけど」
「そこはもういーわ」
獅子神によると、全ての元凶はあるVIP客だったのだと言う。
「政治家のおっさんでさ。なんでか知らねえけどオレのファンだとか言って、なんかめちゃくちゃ声とかかけられたんだよな」
「心当たりあるなあ。タナカって人でしょ。お葬式に来てたよ。なんかすごい熱心に喋ってた」
真経津が頷く。獅子神は「そいつだよ」と嫌そうな顔をした。
「オレはただのギャンブラーだ。オレがあそこに行くのはギャンブルのためで、それ以外に意味はないし、同じギャンブラーならともかくVIPの連中とつるむつもりはなかった。だけどあのおっさんはなんつうかこう、とにかくオレを手に入れたかったらしいんだよ。どういう意味かは知らねえけど」
獅子神は口をへの字に曲げて頬杖をついた。
「で、付きまとわれてうんざりしてるところで、行員から提案……つーか指示があった。おっさん、どうも当時の政権の中でだいぶ権力があったみたいだな。その権力で銀行に横槍を入れて、オレの試合だとか、対戦相手だとかを弄ろうとしたらしい。オレを勝たせたかったみたいなのもあったし、明らかにオレを負けさせてオークション落ちさせようとしてたのもあった。ゲームのルールをオレの不利になるように変えようとか。でも銀行側じゃそれは御法度だ。あいつらはマッチングで結果を操作しようとすることはあるけど——賭場に通いたてのお前に元ワンヘッドの村雨をぶつけたりとか——ゲームそのものの公平性を動かすことはあまりない。あるとすれば、銀行内部でのキャリアのやりとりや政治の結果だけだ。つまりあいつら、外部からゲームに干渉されるのをとにかく嫌う。ゲームの主催者はあくまで銀行、ゲストは純粋な観客、っつーのを維持したがってるから」
「あー、御手洗くんが宇佐美さんとこに復帰したときも、えらい人がお金使ったのは奴隷の購入に対してだもんね。システムの中の干渉はOK、システムそのものへの干渉はNGってことか」
真経津が膝を打つ。
「そういうこと。で、あのおっさん、オレがつるんでるからってお前らにもなんかしようとしてたらしい。その辺で宇佐美や他の主任連中の堪忍袋の緒が切れて、あの男を排除するか、問題になってるオレを排除するかって話になった」
簡単なのは獅子神を銀行賭博から外すことだ。プレイヤーでなくなれば、男の銀行への干渉も止むはずだった。だが男が獅子神の引退をすんなり認めるはずもない。
そこで特4は、獅子神の死を偽装することにした。
「オレが目の前で死ねばさすがにおっさんも諦めるだろ。ただそのためには完璧におっさんを騙し通さなきゃならなかった」
「それでお葬式まで全部やったんだ」
「そ。ゲームで重石に押し潰されて死ぬふりをして、マジで死人が出た時に銀行が使ってるルートでホテルから外に出されて、病院で死亡診断書出させて、でそのままエンバーミングって名目で通夜乗り切って葬式まで。葬式で蓋開ける前に、確か一回棺桶を部屋の外に出しただろ。それまでは中にマジの死体入れてたんだけど、あそこでオレが入れ替わって戻ったんだよ。薬で仮死状態にされて」
「ずっと入ってたら生きてるのバレそうだもんね」
「まあ葬式に呼んだメンツからして、気づくとしたらお前ら四人だからそこまでやらなくても良かったんだけどな。でもおっさんにバレるわけにはいかなかったし、オレが死んでることを納得させるには蓋を開けて間近で死体を見せなきゃならなかった。……ちなみになんだけど、お前ら気づいてた? あの時。オレ意識なかったから後ですげえヒヤヒヤした」
真経津は首を振った。
「ぜんぜん。叶さんなんか泣き崩れてたよ。動画撮っとけば良かったなあ」
「その状況でカメラ回してたらただのサイコパスだろ。やめろ。……あとはまあ、火葬場からまたこっそり連れ出されて、そのまま新しい名前とIDの偽造パスポートで出国、賭博口座の預金と銀行の迷惑料でこうやってのんびり南国暮らししてる」
波瀾万丈だねえ、と真経津は笑った。
「お前らくらいには伝えたかったんだけどな。ほとぼりが冷めるまでは、って止められててさ」
「じゃあようやく冷めたんだね。あのおじさん、去年捕まったよ」
「——捕まえさせた(・・・・・・)んだ」
あ、と真経津が振り返って笑った。
「村雨さんも久しぶりー! ズルいな、獅子神さん独り占めしてさ」
声の主——失踪していたはずの村雨礼二は、いつもの無表情でピースサインを突き出した。
「羨ましかろう。一番乗りの特権だ」
「何が特権だアホ。牛乳買えたか? ホールミルクだぞ」
「買えた。あなた、いつまでそれを引っ張るつもりだ。私は同じ間違いは二度と犯さない」
「オメーあのスキムミルクコップ半分でギブしたくせに何偉そうなこと言ってんだコラ。残ったの全部オレが飲んだんだからな。お前の冒険には二度と付き合わねえ」
「私が選んで当たりだったものもあるだろ。ヨーグルトとか」
「ハズレの方が多いんだよ!」
ぶちぶち言いながら獅子神はソファを立ち、村雨が提げたエコバッグを受け取ってキッチンへ向かった。入れ替わりに村雨がソファに腰を下ろす。彼は日本ではついぞ見たことがない、半袖のシャツにハーフパンツというラフな格好をしていた。
「村雨さん、リゾートっぽい!」
「さすがにこちらであの服装ではな。郷にいれば剛に従えというやつだ。……真経津、あなたがここにいるということは、あちらはようやく落ち着いたんだな?」
村雨がローテーブルの下から取り出したクッキー缶に嬉々として手を伸ばし、真経津は頷いた。
「うん。ちょうど一年くらい前かな。あのおじさん、贈収賄と脱税と……あとなんだっけ。暴力沙汰だったかな? とにかく何かで捕まって、実刑判決が出て今服役中。しばらくは出てこないって。だから宇佐美さんからオッケー出たんだ」
「意外とかかったな。あれだけ私がお膳立てしてやったのに」
「そう? 村雨さんが失踪して一年経ってなかったんだから、早い方じゃない? ま、銀行が絡んでるってバレないように全部裏から糸引かなきゃいけなかったみたいだし、仕方ないよ」
村雨は肩をすくめた。
「まあ、うまくいったならそれでいい。それであなた、どこまで知ってる?」
真経津はうーん、と宙を睨んで「大体は分かってると思うよ」と言った。
「あとは村雨さんがいつ気づいたのか、くらいかなあ」
「ではそこからか。——私が獅子神の死、その偽装に気付いたのは、あの死に顔を見た時だ。薬で仮死状態だったそうだが、私の目には死者には見えなかった。出来は良かったが、気配が明らかに生者のそれだった。であればあの死臭も、私や、あるいは他にもいるかもしれない勘のいい人間を欺くための小道具だろうと判断した。死んでいないものをここまでして死者として扱うからには、何か事情があるはずだ。つまり、社会的に死んだことにしなければならないような。そしてそれを通夜や葬式に来る可能性のある人間に明確に示さなければならないような。喪主をしていた園田という男がいただろう、雑用係の。あの男に目配せしたら、苦笑を返された。あれも知っていたのだろうな」
「ずるいな〜雑用係の人たち。ボクたちにも教えてくれたら良かったのに」
「証拠を残すわけにはいかないから、メールや電話は不向きだ。銀行の人間か雑用係が直接我々に伝えるしかないが、その時間はなかったし、何より彼らは徹底して騙し切ることに注力していた。私が気付いたのも、予想の範囲内ではあったかもしれないが、望ましいことではなかっただろう。後日、ゲームの前に事情の説明を受け、あの男を排除するために協力する約束をした。あなたたちまで巻き込むと騒動が大きくなるから、私だけで」
「でも頼ってくれたっていいのに」
「秘密はそれを知る人間が多いほど漏れやすくなる。妥当な判断だな」
ちぇー、と真経津は唇を尖らせて、またクッキーを齧った。
「三年もかかったが、あの男から権力を奪い、当面豚箱に押し込んでおけるだけのネタと証拠を集め終わったので、私も休暇を取ることにした。以上だ」
「村雨さん、自殺しに失踪したことになってるよ」
「銀行には伝えてあるし、家族にも長期休暇を取ると説明してある。職場も円満に退職した。何か問題が?」
「ボクたちに何も言わなかった!」
「言ったらあなたたち、気づくだろう」
「そりゃあね」
村雨はつんと顎を上げて言った。
「せっかく獅子神と暮らせるチャンスだぞ。あなたたちに邪魔されてたまるか」
真経津はきょとんと瞬き、それから目をきらきらと輝かせた。
「え、えーっ?! 村雨さん、そういうこと?! もうそんな感じ?!」
「おい寄るな。近い。鋭意攻略中だ。いいか、邪魔をするなよ」
「しないしない、えー、いいなあ! 楽しそう! ボク一週間くらいしかいられないんだけど、ボクが帰ってからも進捗教えてね! 絶対だよ!」
「なんでそんなことを、」
「じゃないとボク、叶さんと天堂さんも連れてここに住み着くからね! この家ベッドルーム四つあるんでしょ? みんなで住めちゃうね」
村雨は思い切り顔を顰めた。
「分かったからやめろ、このマヌケ。全く、騒がしいことこの上ないな」
真経津はソファに座り直してにこにこと笑った。
「あのおじさんもいなくなったし、いつでも日本に帰ってきてくれて大丈夫だよ。獅子神さんも連れて戻ってくるなら、新しく戸籍と経歴用意するって。これ、宇佐美さんからの伝言ね。でもボクとしては、もうしばらくここに住んでて欲しいなあ。手が空いたらみんなで遊びにくるからさ」
「全く……。とにかく、もう数年はここから動くつもりはない。南国暮らしを楽しみたいならその間に来いとあの二人にも伝えておけ。日本へはそのうち帰るが、こちらで結婚してからだ」
「アッそういうこと?! 周到だね村雨さん! そっかー、日本じゃまだ結婚できないもんね」
「どうせならそこまで話と状況を詰めてから帰る。その方が面倒がない」
しれっと言う村雨に、オトすのは決定なんだなあと思いながら真経津はレモネードの残りを飲み干した。
そこへキッチンの獅子神がひょいと顔を出した。
「真経津、お前ホテルどこ取ってんだ? 送ってくけど、その前にメシ食ってくか?」
「あのねー、とってなーい! 獅子神さん泊めて!」
「はあ?!」
「あなた、最初からそのつもりだったろう」
「だって久しぶりに会えたんだもん。いっぱい話したいでしょ」
「……オメーちったあ遠慮しろや!」
獅子神はむずがゆそうに顔をしかめ、ケッとわざとらしく毒づいてキッチンへ戻った。
真経津はいつか日本の獅子神邸で見たのと同じようにキッチンで鍋を抱える獅子神の後ろ姿を見つめ、それから目元を和ませてその様子を眺める村雨を見て、花の咲くように笑った。
「良かったね、獅子神さん、村雨さん」
近いうちに、このソファには叶と天堂も座るだろう。
獅子神は文句を言いながらまたみなの好物をこしらえて、完璧にベッドメイクされた客間を提供するに違いない。
けれどきっとみんなここで大騒ぎをしながら寝落ちして、ベッドの出番は次の夜から。
朝が来たら海に飛び出して、そのうち疲れて木陰で眠り、家に入る前に犬でも洗うみたいに村雨に水をかけられる。
日が暮れたらまた獅子神の料理を食べて、もしかしたら少し手伝ったりなんかして、それから星を眺めて話をする。
この四年間、できなかった話を。
長い長い、これまでの話を。
そしてきっと、未来の話を。
<終>