乾いた心に、愛情いっぱい がらり、温かさを感じる灯りの漏れる横開きのガラス戸を開くと、ふわりと食欲をそそる匂いが忠の鼻腔を擽った。
「いらっしゃいませー」
出迎えた明るい声に小さく会釈を返すと、勝手知ったるとばかりに空いた席に座る。あまり広くはない店内の、一番端のテーブル席。向かいの椅子に書類とPCで厚みを増した鞄を置くと、壁側の椅子に座る。特にこだわりがあるつもりはないが、空いている時はいつもこの席に座る。なんとなく、落ち着くのだ。
「ご注文は?」
人懐こい笑顔を浮かべた少年が、水の入ったコップとおしぼりを手に聞いてくるのを見て、空腹を感じながら口を開いた。
「……いつもので」
******
元々、捌いても捌き切れない量の仕事を、過労死ラインを越えるのも気にせずに必死にこなしていた真っ黒な勤め先で、労働改革という余計なお世話でしかないキャンペーンが突然開始された結果、指定された退社時間まで粘っても終わらない仕事を持ち帰り、帰宅してもひたすら仕事をする日々が始まった。
減らされる労働時間、終わらない仕事、一人、また一人と立ち去る同僚。増えていく仕事を消化する為に、睡眠時間を削り、エナジードリンクを何本も空けて、それでも終わらない仕事に生きる気力が根こそぎ奪われていく。
休暇は多めに持ち帰った仕事をこなし、ひと息吐けるかと見通しがたった矢先に上司から届いたメールに添付された圧縮ファイル。開くと当たり前のように仕事が増えた。
気がつけば、表情筋が思うように動かなくなった。久しぶりに見た鏡に映った自分は、ぼさぼさの髪に、荒れた肌。最低限髭を剃っただけの、死んだ魚を彷彿とさせる瞳をした、知らない男に変わり果てていた。
ーー疲れた。
ふらつく体に鞭を打って、なんとか出社する。待ち受けるのは、隣の机に置かれた退職届と、追加された書類の山だ。
仕事は好きだ。好きだと思っていた。けれど、本当にそうなのだろうか。
いつの間にか常用するようになった鎮痛剤では、頭痛が治らなくなった。買い置きのエナジードリンクも底を尽きた。
ーー疲れた。
ふと、本当に久しぶりに職場で顔を上げた。自分の周りを見渡して、皆が皆、自分と同じ表情を浮かべている事に気がついた。
ーーもう、ダメだ。
このままでは、ダメになる。そんな強い危機感を覚えて、うまく回らない思考のまま、ふらりとオフィスを出る。遠くで誰かが何かを言っていた気がするが、忠にはよく分からなかった。
昼間に外に出たのは、久しぶりだった。昼食はすぐにチャージできるゼリー飲料だったし、外に出る時間があるならひたすら手を動かしていた。
陽射しの眩しさにふらりとよろけながら、ビルから一歩踏み出す。よろけたせいなのか、自分の意思でなのかも定かではなかったが、それでも、一歩、ビルから出たのだ。
その瞬間、じわりと感じた開放感に、何故だか涙腺を刺激された。ぐす、と鳴った鼻も、水分過多になった目元も、強い陽射しのせいなのだと納得して、そのままふらりふらりとどこへともなく歩きだした。
特に目的があった訳ではない。けれど、人の多いところは避けたくて、ランチに出てくる人の波をなんとか避けながら、人の少ない方へふらりふらりと歩みを進めていく。
勝手に出てきてしまって、このままクビになるだろうかと、少しずつ冷静になってきた頭で考えるが、もう過ぎたことだと打ち消した。
ーーもう限界だ。
そこまで考えて、かくりと膝から力が抜ける感覚に襲われた。倒れるわけにはいかないと震える足を叱咤して、なんとか道の脇まで辿り着くが、そこで完全に歩く気力を失った。
ガシャリ、背中が何かに当たって、そのままずるずると座り込む。
ーーそう言えば、今朝は何も食べていない。
正確には、無理矢理胃に流し込んだエナジードリンクを体が受け付けず、そのまま吐き出した。それきり、何かを口に含むのも面倒になって、思い体を無理矢理動かして出勤したのだった。
ーー自業自得、だな。
頭を上げる気力もなく、仮にこのままここで力尽きたとしても、誰にも振り返られることなど無いのだろうと、ぼんやり己の無価値さを痛感する。
ーー疲れた、な。
瞼を閉じて、息を吐く。人間は意外と頑丈に出来ている。このまま少し休めば、そのうち歩けるようになるだろう。出来れば、不審者として通報される前に帰宅したい。
ーー帰って、その後は。
どうすれば良いだろう。スーツの胸ポケットに入れたスマートフォンは、先ほどから絶えず震えている。誰からの着信かなんて、考えなくても分かる。
ーー分からない。
もし、今の仕事を辞めたとして、どうすれば良いのか。自分はもうどこにもいけないような気がして、途方に暮れる。
ーー疲れた。
睡眠不足が響いたのか、疲労のせいか、ぼやけた意識の中で思考を放棄し始める。今は兎に角休みたい。
今にも意識を手放そうとした忠の耳に、雑踏の音とは異なる音が届く。なんだろうと意識をゆっくり集中させると、音が少しずつ明瞭になっていく。
「なぁ、大丈夫?起きてるか?おーい!」
掠れ気味の明るい声が、どうやら忠に向かって話しかけているらしい。よくよく意識を起こすと、肩を揺すられているようだ。
「……だい、じょうぶ……このまま……おいて」
「いや、全然大丈夫じゃねーし!おい、ちょっと!」
口を開くのも億劫だが、話しかけられている以上答えなければ通報されかねない。辛うじてそれだけ判断して、なんとか言葉を押し出そうとするが、思った以上に消耗している体は、明瞭な言葉を発する事が出来ない。
適当に放っておいてくれたら、勝手に回復して居なくなるからと言いたいのに、相手は諦めずに忠に話しかけてくる。
「なぁ、ここウチの店だからさ、困るんだって〜」
困ったと訴えてくる声に、それは悪いことをしたと思うが、かと言ってずしりと重い体は鉛のように動かない。
「どうすっかなぁ……なぁ、全然動けねー感じ?」
人の良さが滲む声に、一体どんな人間なのかと重い瞼をゆっくりと持ち上げる。そうして掠れた視界に飛び込んだ鮮やかな色彩に、思わず目を眇めた。
一番に目に飛び込んで来たのは、ひょこひょこと揺れる赤毛。紺のヘアバンドに描かれたキャラクターは、薄っすら見覚えがある。そして、夕焼け色の瞳。
「……まぶ、しい」
「ん、あぁ、ここ眩しーよな」
「そう、では……なく」
「なぁ、ここだとスーツ汚れるし、こっち移動出来そうか?」
ぐ、と肘のあたりを左右それぞれ掴まれて、ゆっくり引かれる。そうすると、全く動ける気のしなかった体が、不思議とゆっくり動いて、フラつきながらものろのろと立ち上がった。
「お、じゃあこっちな。頭ぶつけんなよ〜」
そのまま幼な子を相手にしているかのように両手を引かれて、なんとか足を前に出す。頭がぶつからないようにと手で頭を守られて、半分だけ上げられたシャッターから少年が出てきたのだとぼんやり理解した。
「えーっと、壁際の方が楽だよなぁ」
こっち、と手を引かれて情けない気もしたが、迷惑をかけているのだから仕方ない。促されるままに座ると、残り少ない体力を使い切ったのか、体の重さを思い出した。俯き方にぐったりと座っていると、少年が顔を覗き込んでくる。
「なぁ、飯食った?」
「……いや」
正直、最後に固形物を食べたのがいつだったか思い出せないが、そこまで言う必要はないだろう。ゆっくり閉じる瞼をなんとか持ち上げながら答えると、ちょっと待っててと少年の声が遠のく。
そろそろ通報でもされるのではないか、等と漸く思い至りながら、いっその事、そうされた方が家まで送ってもらえるかもしれない、なんて半ば本気で考えていると、ふわりと温かい湯気が鼻腔を擽った。
「……え、」
「賄いだけど、良かったらどーぞ」
小さめの丼に盛られたのは、久方ぶりに目にした味噌汁だった。賄いだからか、入っている野菜や島豆腐の形は悪いが、ほこりと立つ湯気や、食欲を擽る味噌の香りに、ぐぅと腹が鳴った。
「腹減ってると、力出ねーよな」
丼にレンゲを乗せて、少年が笑う。まだ何か言っているような気がしたが、意識に入らない。目の前の丼に、意識が集中する。
力の入らない手でレンゲを持ち、そっと汁を掬うと、恐る恐る口に運ぶ。唇を湿らせる程度の量だったが、それでもはっきりと感じた塩味に、今度は並々と汁を掬って口に含む。温かい汁が喉を通って食道から胃にたどり着き、じわりと空っぽの胃に染み込んでいくのを感じて、次は丼に浮かぶ島豆腐を掬う。そこからは、夢中でレンゲを動かした。
具を噛み締め、染み込んだ汁がじゅわりと溢れる。思わず、はふはふと口で息をしながら、それでも手は止まらない。
気付けば、丼の中身は空になっていた。長らく疎遠だった腹が満たされるという感覚に、味噌汁の温かさが腹から全身にゆっくりと広がっていくような充足感に、ほぅと息を吐いた。
「すげー食べっぷり。そんなに腹減ってたのか?」
腹が満たされると、少しずつ思考が再開していくのを感じた。ぼんやりしていた視界の焦点がゆっくりと結ばれて、自分の斜め前で少年が同じように味噌汁を口にしているのが見えた。
「……腹が、減っていた……らしい」
「ひと事みたいな言い方だなー。お代わりいる?」
「……いや、そこまでは」
「作りすぎたから、むしろ食っていってよ」
「……それなら、」
にこりと笑う少年は、やはり鮮やかな色彩が眩しい。忠の丼を持ってカウンターの奥に入り、お代わりをよそって戻ってくる。漸く見回した店内は、カウンター席が5席に2人用のテーブル席が3つ配置されている。こじんまりとした作りで、けれど清潔に保たれていて好感が持てる。いかにも昔ながら、と言った雰囲気の飲食店だ。
一杯目より落ち着いたペースで、ゆっくりと味噌汁を口にする。久しぶりに取るまともな食事に、胃の具合が少しだけ心配になるが、それよりも温かい食事の魅力には抗えない。
「うち、定食屋なんだ。いつもは昼も営業してるんだけど、今日はたまたま夜だけの予定でさ」
白飯を頬張りながら、合間に少年が説明をしてくれる。昼の営業が休みだからと、シャッターを閉めたまま賄いの用意をしていたところに、ものすごい音がして慌てて出てきたのだと言う。
ーー私が、シャッターに凭れたからか。
音の正体については申し訳ないと思うが、忠としては、結果的に久しぶりにまともな食事にありつけたので、良かったのかもしれない。
「……その、すまなかった」
「別に良いって」
二杯目も綺麗に飲み干してから、頭を下げる。追い詰められて自棄になっていた部分があったとしても、社会人としては最低の対応をしてしまった。そう思っての謝罪だったが、少年はあっさりとそれを笑顔で流す。
「なぁ、美味かった?」
「……あぁ、とても美味しかった」
「……そっか、なら良かった」
少年の笑みが深まったが、その理由も分からないまま、忠は辛うじて持っていた財布を取り出す。
「代金は、支払う」
「賄いだし、別に良いって」
「だが……」
「あ、じゃあ今度営業日に食べにきてよ」
な?と人懐こい笑みで言われ、気がつけば頷いていた。本来なら、こういった密なコミュニケーションを取る場所は苦手としているのだが、仕方ない。
「……本当に、すまなかった。また必ずくる」
「おぅ!倒れんなよー?」
「……留意する」
少年の言葉に甘えて財布をしまい、ゆっくりと席を立つ。動けなくなっているところを助けてもらったので、倒れないと返すことは躊躇われた。
ガラス戸を開けて、シャッターにぶつからないように気をつけながら外に出る。見上げた陽射しは眩しかったが、ふらつきはしなかった。
「……約束は、守らなくてはな」
その為に、まずは何から始めようか。ポケットからスマートフォンを出すと、二桁の着信履歴が表示される。それを眺めて、まずはここからだと腹を括ったのだった。
******
あれから半年。ようやくまともに働くようになった頭で、まず初めに勤め先に退職届を叩きつけた。
幸い、新しい仕事もすぐに見つかり、あの地獄の日々が正しく悪夢だった事を実感しながら業務に勤しんでいる。こんにちは定時退社、さようならサービス残業。
そうして、夜が更ける前に帰宅できるようになった忠は、すっかりあの定食屋の常連客となっていた。
がらり、温かさを感じる灯りの漏れる横開きのガラス戸を開くと、ふわりと食欲をそそる匂いが忠の鼻腔を擽った。
「いらっしゃいませー」
出迎えた明るい声に小さく会釈を返すと、勝手知ったるとばかりに空いた席に座る。あまり広くはない店内の、一番端のテーブル席。向かいの椅子に書類とPCで厚みを増した鞄を置くと、壁側の椅子に座る。特にこだわりがあるつもりはないが、空いている時はいつもこの席に座る。なんとなく、落ち着くのだ。
「ご注文は?」
人懐こい笑顔を浮かべた少年が、水の入ったコップとおしぼりを手に聞いてくるのを見て、空腹を感じながら口を開いた。
「……いつもので」
「はーい」
少年は、この店の看板息子らしい。
彼が小さな頃から付き合いのある常連客達から聞こえてくる話では、本業は学生だが、幼い妹たちの面倒を見てやったり、母親が育児に追われている分、両親が切り盛りしている店を、手が空いている時に手伝っているのだとか。少年がよく客に気さくに話しかけているのは、顔見知りが多いからだそうだ。
ーーやはり、眩しいな。
少年が広くない店内をテキパキと手際良く動く姿を見ているのは、気持ちが良い。
「はいっおまちどー!」
トレイに乗った定食が運ばれてくる。あの時とは違い、大きな丼いっぱいの味噌汁と、茶碗に大盛りの白飯、漬物と小鉢。ほこほことした湯気が、食欲をそそる香りも運んでくる。あの日の不恰好な具の入った賄いではない、味噌汁定食だ。
「……いただきます」
手を合わせてからレンゲを取り、汁を掬う。口に含んで、いつもと変わらない塩味を堪能して、野菜を掬う。煮込まれて柔らかくなった人参は、甘みもあって美味い。味わいながらゆっくり楽しんで居ると、手が空いたのか少年が忠の席にやってきて、困ったように笑った。
「……うち、他にもメニューあるんだぜ?」
「知っている」
口の中を空にしてから言えば、少年の顔が複雑そうな表情になる。
「……代金は払っているだろう」
「ダメって訳じゃねーけど」
「なら、問題ないな」
島豆腐を汁と一緒に掬って、口に入れる。美味い。味わって食べていると、ふと、いつもと味わいが違う気がして、まだ立ったままの少年に尋ねる。
「……もしかして、出汁か味噌を変えたのか?」
「すげー、分かんの?」
「なんとなく、だが」
ぽかんと口を開けた少年に、自信はないと付け足すと、すげーと繰り返された。向かいの椅子を引いて、カバンに当たらないように座ると、少年は身を乗り出して忠に言う。
「今日の出汁、俺が担当したんだ」
秘密を打ち明けるような、自分の仕事を褒めてもらいたい子どものような表情を浮かべて、こそこそと言う少年に、忠は丼を見下ろした。
「……確か、あの日の賄いを作ったのは」
「俺だけど……?」
「……そうか」
「なぁ、分かるくらい全然味が違う?」
「いや、ほんの少し違うな、と思っただけで」
毎日のように同じメニューを頼んで居る忠だから気づいた、僅かな差異だろう。だが、あの日と同じ味がしたような気がした。
「じゃあ、美味い?」
少しだけ不安そうな少年に頷いて見せれば、一気に表情が明るくなった。
「そっか、良かったー!」
「大げさだな」
「そんな事ねーし!」
「大げさだろう」
常連と言えるようになってきたとは言え、他の常連客とは比べ物にならない新参である忠の意見を気にするなんて、本当に変わった少年だ。
「だって、アンタいっつもそれ食べてるから。そのアンタが美味いって言うなら、合格点だろ?」
嬉しいじゃん、と笑う少年に居心地の悪いむず痒さを感じ、何故か胸が疼く。
ーー体調には、問題無い筈だが。
内心首を傾げていると、気が済んだのか少年が席を立った。洗い物を下げに行こうとして、ふと何かを思い出したように戻ってくると、忠に耳打ちした。
「……アンタに気に入ってもらえる味噌汁になるよう、頑張ったんだぜ、菊池サン?」
じわり、少年の言葉が耳から脳にもどかしいくらいにゆっくりと伝わって、忠は思わずレンゲを取り落とした。
あーあ、と笑って新しいレンゲを持ってきた少年からレンゲを受け取ろうとして、微かにその手に触れる。
水仕事のせいか少し荒れた指先を感じて、落としたのはレンゲだけでは無い事に、遅まきながら気が付いたのだった。
完