【忠暦】雨を待っていた スケートじゃ帰れないくらいの雨に降られた帰り道、電柱の影にうずくまっていたのはラブホの人だった。大きく声をあげた俺に、ずぶ濡れの男は慌てた様子もなくゆっくり顔を上げる。俺ではなく湿った空気のどこかを見ていたらしい目は、数秒経ってようやくまばたきをした。まつげの水滴がつるんと落ちる。
「……ああ、君か」
その間の開き方、呼び方は、なんとなく初対面の日を思い出した。あれからエスでも何度か会ったけど、この人の雰囲気はいつも現実味がない。
「ああ、じゃなくて……なにしてんの? もしかして具合悪い?」
スーツのまま、傘も差さないで道端にしゃがみ込む男。元々暗い色の髪も更に黒く染まって、毛先からはひっきりなしに透明な粒が落ちて青白い肌をすべっていく。
雨はまだ降り続いている。俺は傘があるからいいけど、この人は抵抗もしないで濡れていくばかりだ。
「考え事をしていたらスコールに遭って」
濡れてぷくりとした唇が動く。見た感じ荷物もないし近くに車すらない。ただ、折りたたんだ体がひとつ。
「雨に降られているほうがちょうどいいような気がしたから、ここにいた」
この人はまた俺の方を向いているのに別のところを見ている。降られているほうがちょうどいい。それはよく分からないけど、無視して歩きだせそうもない。
傘を持ち替えて、空いた手を差し出す。手のひらにトトトと雨粒がぶつかる。
「とりあえずウチ来る? あとちょっと歩いたら着くし、そんな濡れてたら車も乗れないだろ」
手を取るような男には見えない。大して知らない人間の家に上がるような男にも見えない。いつもくすんだ目に景色を映して、何の感情も反射しない。
その瞳が、今だけは俺をちゃんと見た。
白い手がゆっくりと持ち上がり、少し迷ったふうに止まったあと、手のひらを避けて手首を掴んできた。
変な握り方。俺は笑って、手首を掴み返して引っ張り上げる。案外重い体は、それでもちゃんと自分の足で立ち上がった。
こっち、と言って歩き出すとちゃんと着いてくる。俺が傘を分けようとすると首を振ったが、無理やり柄を持たせて隣に入った。
「……捨て犬を見捨てられないタイプか」
平坦なはずの声にほんの少しの波が見える。呆れているような言い方だけど、そんなに悪くない気分だ。
「飼ってくれるのか」
「は?」
見上げると緑の目は前を向いたまま。傘の下で色濃くなった肌に、拭われず残った水滴が点々とついている。
「生き物を拾ったら飼うか保健所に連れていくかだ。軽率に拾うものじゃない」
「……犬の話? あんたの話じゃねぇよな?」
「さぁ」
はぁ?と声をあげたいのを抑えて、大きなため息にした。変な奴と会話してもしょうがない。どうせうずくまってた経緯なんて話さないだろうし、こうやって話の方向をねじ曲げてうやむやにする。
顔は良いんだよな。話さなきゃな。どことなくむかつく気持ちも、整った横顔の前ではうまく尖らせることができない。まあいいか。家に上がらせて、親に事情話して風呂に入れて、スーツ乾かしてやって。帰る手段がなきゃ父さんが帰ってきてから車を出して。一晩くらいなら泊められるとも思うけど。
「……でもあんた、拾われるの似合うよ」
傘が揺れた気がした。白っぽい景色の中、俺たちだけが色濃く並んでいる。
緑の目。雨を待っていた葉っぱの色だった。
END