藍にまつわるひとかけら その1小さな体を打つ雨粒の痛みも、徐々に近づく雷鳴の大音声も、意識することなくただただ前へ進み続けた。
そうして見上げた先の光景を、己は生涯忘れることはないだろう。
瞼を開けると、男は真白い場所にいた。
霧に囲まれているのかと思ったが、湿度を帯びた空気も草木のにおいも、生き物の息遣いも、何も感じない。無機質ともとれる白だけがどこを見渡しても広がっている。
そもそも男は、友の下宿先でつい先程眠りについたばかりのはずだ。
とすると、ここは。
「夢の中か…?」
思わず呟いて、気づく。発せられた男の声は近頃だいぶ聞きなれてきた子供のような甲高さではなく、低く落ち着いたそれだった。
ある時を境に失った、男の本来の声だ。
見下ろす目に映る体もそうだ。持ち上げた両の掌も、肉体を包む次縹の着流しも、足にぴたりと収まる下駄も。懐かしいとすら思える感覚に、男は小さく苦笑した。
なるほど、夢の中ならこの姿でいることにも納得がいく。
「あなた」
顔を上げる。いつの間にか、男の目の前に人影があった。
お気に入りだと言っていた黄色い洋装が、動きやすいからと短く切った赤みがかった茶色の髪が、真白い景色の中鮮やかに浮かぶ。
その人影は女の形をしていた。男にとって大切な、忘れるはずもない、片割れの姿だ。夢が見せる幻ではなく確かな存在としてそこに立っていると、男の直感がそう告げていた。
視界があっという間にぼやけ、胸の奥が強く強く締めつけられる。
「おまえ…っ!」
男はきつく目の前の最愛を抱きしめた。女も応えるように男の背へ腕を回し、困ったように微笑する。
「あなたももうお父さんなんだから、泣き虫はそろそろ卒業しないと」
「…っそうじゃ倅、鬼太郎は」
体を離し周囲を見回す男を見上げ、女がゆっくりと首を横に振る。
「……あの子に会ってはいけないって、閻魔様との約束があるの。あなたとこうして夢の中で会うことだって本当は禁止されているんですよ。今回は特例なんですって」
「そんな…」
愚かな人間達に搾取され苦しんできた彼女に対してあんまりな仕打ちではないか。悲しみにぼろぼろ零れる涙を、細い指がそっと拭う。
「大丈夫。会うことはできなくても、時々現世の様子を見ることはできますから。…あなたも鬼太郎も、あの人も。元気そうでよかった」
「…、…」
おまえも一緒に。許されるのならそう言いたかった。
けれど肉体は朽ちても目玉に体が生えた姿で生き延びることができた男とは違い、女の魂は黄泉へと渡ってしまった。
妖怪に近い存在ですら死からは完全に逃れられず、一度喪われた命を取り戻すことは禁忌だ。いかに幽霊族といえども、覆すことはできない。
男はおもむろに一、二歩後ろへ下がると、深々と頭を下げた。
「すまぬ、おまえよ……わしはまだ、そちらへ逝くことはできぬ」
血を分けた大切な倅の成長を見守る、という役目もある。けれど、理由はそれだけではなかった。
捉えようによっては心変わりを疑われてもおかしくないものだ。どんな叱責でも受ける覚悟の男の肩に、女の手が触れる。
「いいんですよ、あなた。…言ったでしょう?あの人になら、あなたのことをお任せできるって」
だから、むしろ嬉しいんですよ、私。
おずおずと頭を上げた男へ向け、女は釣り目気味の目を柔らかく細める。その穏やかな微笑みは、男の謝罪の理由を察して尚、僅かな陰りすら滲むことはなかった。
「寂しくない、と言えば嘘になるけれど…でも、私のことを気にしてあなたが幸せを我慢してしまう方が、もっとつらいわ」
「おまえ…」
「悔いの無いように生きて。…いつか、私にもちゃんと紹介してくださいね」
「…ああ。……ああ、もちろんじゃ。必ず紹介しよう」
夢から覚める気配を感じ、名残惜しさにもう一度抱擁を交わす。そうしてゆっくりと離れ、男と女は静かに微笑み合った。
打ち付ける雨粒の痛みも、轟く雷鳴の大音声も、気にならないほどの衝撃だった。
髪や服が雨に濡れ泥に汚れても構うことなく小さな赤子の体をしかと抱きしめた、その姿を。目に、心に、夏の日差しが作り出す濃くはっきりとした影の如く男は焼き付けた。
相手は記憶を失っている。男のことも、男と出会い共に過ごした数日間のことも、全く覚えていない。
それなのに、濡れそぼった腕が生まれたばかりの命を大事そうに抱えた瞬間──ああ、記憶がなくてもその心根は変わらないのだと、男は思い知った。
そして同時に。胸の奥底に沈めていた一つの感情が、赤子の指先よりも小さな男の心臓に、確かにひとつ鼓動を送ったのだ。
そこは、人間達が利用する診療所とほぼ変わらない見た目だった。
さほど広くない待合室を横切る廊下の先、雑な手書きで診察室と書かれたプレートが下がる扉を隔てた部屋の中で、建物の主は口を開く。
「戻せんことはない」
「本当か!」
己の体からすれば小島のような広さの丸椅子の真ん中で正座していた男は、待ち望んでいた朗報に歓喜した。
しかし。
「たしかにお前の体は元に戻せる。失った妖力を回復させれば自ずとな。俺の見立てで言えば…まあ、完治するまで最低百年ってところか」
「……百年、じゃと…」
「これでも短い方さ、恨み言ならその村の人間共に言ってやりな。…ああ、もう死んでるんだっけ」
衝撃を受け呆然とする男を見下ろして、十代後半の女の姿をした医者は肩をすくめる。
妖怪専門の医者だ。もちろん人間ではない。女でもない上に本来の姿も別にあるのだが、肩まで伸びたぼさぼさの髪に小柄な体に似合わぬ大きな白衣を羽織っている色気の欠片もない見た目は、曰くただの趣味らしい。
閑話休題。山奥の小さな村の中で多くの命を費やして続けられた凶行。その犠牲者達の積もり積もった怨嗟の念の大半を一身に引き受けたのだから、失われた男の体を取り戻すまで並大抵では収まらない困難が伴うのは当然だ。
男もそれを覚悟していた。困難の度合いを軽視していたわけではない。
それでも、はいわかりましたと簡単に納得することなんて、できるわけがなかった。
百年。
男や医者があっという間に感じる時間の流れの中で、人間が生まれ、成長し、老いて、死んでいく一連の流れが出来上がる。
ましてや既にその流れの中にいる者なら、死はもっと近くに存在することになるだろう。
「…もっと早く、治すことはできぬのじゃろうか」
悠長に待っていれば体を取り戻すよりも先に大切なものを喪ってしまう。それだけは絶対に避けたい。
自然、膝の上で握る拳に力が入る。
「なんだ、随分と性急だな。さては惚れた女でもできたか?」
「男じゃよ。人間の」
「は」
かち。こち。秒針が壁掛け時計の文字盤の上を散歩するように進んでいく。
それが一周ほど回った頃だろうか。静寂を裂いたのは、我に返った医者の肺から押し出された長い長い溜息だった。
「いやはやまさかなあ……あの人間嫌いの幽霊族の男が、よりにもよって人間に惚れるとは」
「優しい奴じゃよ。わしのこの姿を気味悪がることもなく、共にわしの倅を育ててくれておる」
「そいつは知ってるのか?お前が幽霊族だってこと」
「……知っておった、と言う方が正しいかのう」
狂骨に襲われ現在は記憶を失っていることを話すと、医者は途端に渋面を作った。
「そいつも村の関係者か?そんな奴に惚れるって、お前…」
「あやつを悪意ある人間と一緒にするでない!あやつは人の身でありながら、わしの妻を助けるため共に戦ってくれたのじゃぞ!」
なんなら出会いから事細かく話してやる勢いで立ち上がりかけた男の視界が掌の壁に遮られる。
「あーそういうのいいからいいから。お前ののろけ話聞くためにいるんじゃないぞ俺は」
「むう…」
「酔ってないのにしゃべり上戸とか勘弁してくれ」
壁越しに聞こえた呆れ声に勢いを削がれた男は、渋々その場に座りなおした。
どかした掌を組んだ腕の中に収め、医者は静かに問いかける。
「本気か」
「当たり前じゃ。…わしはあやつの力になりたい」
でなければ無茶を承知でここを訪れたりしない。
大切な友で、大切な相棒で、大切な家族だ。
妻が好んで使っていた愛という言葉を、最期を越えて尚手放すことを考えもしなかった己の想いを、心から与えたいと思った者だ。
この先も奴の傍にいるには、目玉の姿のままではできないことが多すぎる。なんとしても元の体を取り戻したい。そのためには、並の医者では力不足なのだ。
目の前にいる医者なら。好んで人間の女の姿をとっている変わり者だが、腕は確かと聞く。
「時間さえ経てば妖力は戻る。だがそれを早めるとなると、お前の魂が揺らいで体が戻るより先に魂が消えることになるぞ」
「わかっておる。しかし、わしはできるだけ早く体を取り戻したいんじゃ」
「……」
「金は必ず払う。じゃから、頼む」
断られれば打つ手がなくなってしまう。だから男は、この医者に何が何でも頷いてもらわなければならないのだ。
もう一度頼むと言いかけた男へ、医者は至極あっさりと告げた。
「できるぞ」
「…っそれを早く言わんか!どうすれば早く治せる?」
「想いさ」
にやりという笑みと共に、ぴ、と細い指が男の胸の辺りを示す。
「相手は人間?だったら都合がいい。俺ら妖怪の存在を保つにはそれを信じる者の想いも必要だ。人間の強い想いは魂をこの世に繋ぎ止めるよすがになる。それが強けりゃ強いほど、魂が揺らぐことなく妖力の回復を早められるって寸法さ」
「強い想い…とな」
「種類はなんだっていいが、一番は好意的な想いだな。その人間がお前に心からの想いを抱いてるっていうなら話が早いんだが…記憶がないんじゃあな」
「……ああ」
月明かりを背にこちらを見下ろす濡れた藍を、思い出す。
あの時の友なら、医者の言う心からの想いを持つ者に当てはまったのかもしれない。
しかし今の友はその頃の記憶が欠けた状態だ。男のことも、古寺で出会った大男の亡骸から出てきた目玉の妖怪としてしか捉えていないだろう。
「……」
それに、奴は最近どことなく様子がおかしい。
決して男や倅のことを邪険に扱っているわけではないのだが、言葉や態度に以前にはなかった距離のようなものを感じる瞬間がある。男が飲みに誘った時もそうだ。仕事を理由に断られることは以前にもあったが、その頻度が上がっているのも違和感に拍車がかかる要因になっていた。
気のせいの一言で流せず、かといって指摘するには確信が持てず、時間だけが過ぎていく現状だ。
「…まあ、一番じゃなくてもいいさ。少なくともその人間はお前のことを追い出さず一緒に暮らしてるんだ、お前に対して何らかの情が移ってるとみていいだろ。時間は多少かかるだろうが、自然回復を待つよりはましさ」
「そうか…」
友は心根の優しい男だ。近頃の様子は気になるが、頼めば協力してくれるかもしれない。
ただ、倅の育児や仕事で忙しい相手にこれ以上負担になるようなことをさせたくないのも本音だ。
男は悩んで悩んで──ふと、数日前の出来事に思い至った。
「医者殿」
「どうした?」
「ひとつ尋ねたいのじゃが……お主が示した方法は、夢の中でも有効か?」
「夢?」
夢の中で妻に会い話したことをかいつまんで説明する。医者はそれを聞くと、ふむと口元に手を当てた。
「…夢枕に立つ、か。なるほど、幽霊の専売特許だ」
「これならあやつの負担になることもないと思ったのじゃが…」
「夢は見る者を無防備にしてくれる。想いも少しは引き出しやすくなるだろうな」
興味深いと呟く様は医者というより研究者の類に見える。妖しい笑みすら浮かべそうな雰囲気に本当に大丈夫なのか心配にはなるが、ひとまず先が見えてきたことに男は安堵の息を吐いた。
早速準備に取り掛かる医者を横目に、今日も仕事に奔走しているであろう友に思いを馳せる。
「……水木よ」
元の姿を取り戻せば、お主はわしを──。
無意識に零れた願いに気づくこともなく、男は強く決意した。