真昼の月と花冠.2 パルミラの歴史は隣国から厭われ恐れられる歴史だ。頭ではそう理解していたつもりでもいざ体感してみると顔を覆いたくなってしまう。ホルストが何故あんなに学生たちから人気があるのかクロードにも理解出来てしまった。フォドラの首飾りにいる兵たちはここ百年、常に外敵に備えている。古強者が集う要塞ではあのローレンツすら緊張していた。
戦争は始める前の下準備で概ね勝敗が決まる。諸侯から提供された物資の分配は速やかに行われるべきだが同時に間違いがあってはならない。一昼夜かかるこの作業が終わればクロードたちは援兵として配備につく。
作業の邪魔にならないように、と言うわけで学生たちは大広間に集められていた。その大広間の中でヒルダは寛ぎきっている。壁の東側に大軍が展開しているというのに呑気に、香油の調合をしていた。手つきを見るにどうやら移液管の扱いには慣れているらしい。
「余裕だな」
「だってここが私の故郷だもの。生え抜きの人たちはみーんな私どころか兄さんがよちよち歩きだった頃のことまで覚えてるのよ?」
手先が器用なのだろう。クロードから話しかけられていても視線は手元に集中し、香り付けの精油をこぼすこともない。彼女の周りには香油入りの小さな瓶がたくさん並んでいる。
「茴香(ウイキョウ)が結構きつくないか?」
クロードは勝手に一本拝借して香りを確かめた。全部同じ配合なのだろうか。
「うーん、今はそう感じるかも 」
「そうか、使うのは平時じゃないのか……」
「血の匂いで鼻がおかしくなると、これくらい強くないと分かんなくなるんだよね」
ヒルダは怒るでもなく、何でもないことのようにクロードに意見を伝えて髪をかきあげた。柑橘系の甘い香りがあたりを漂う。今作っているものとは調合が違うらしい。
可憐で、怠け者を自称していても彼女は最前線の子供だったのだ。クロードも後宮でなんとか生き延びてきたが、ヒルダにもヒルダなりの苦労がある。
「奥が深いもんだなあ。なあ、これ俺にもくれないか?」
「そんな顔しておねだりしても、これは女性物だから駄目。クロードくんたちには別のを後で作ってあげる。楽しみにしててね」
「後でとお化けは出ないもんだぜ?」
「本当にね。あーあ、お化けでもいいからこれ嗅がせてあげたいな」
そっと手が伸びてきてクロードから小さな瓶を取り上げた。指先まで白いその手は英雄の遺産、フライクーゲルを振るうことができる。ヒルダのような若い娘はこれまでクロード、いや、カリードの周りにはいなかった。
母ティアナは気質だけならリシテアに似ている。見た目は全く似ていないが、二人とも真面目で繊細でいちいち傷つく。だが怒り続けるだけの力強さがある。だから父の手を取り首飾りを越え、パルミラに渡ったのだ。救われない思いを抱える人々は新天地やそこで生まれた子供に縋る。美しい物語の主人公としては正しいのだろう。
───だがクロードはまだ自分の出生に納得できていない。
あのホルストが救援を要請したのも納得できるような大軍が首飾りの近辺に陣を敷いていた。彼らを諦めさせることが目標だがそれでも激戦が予想される。人間同士が殺意を持って直接ぶつかり合う戦場で、名もなき兵士たちが縋るのは回復魔法が使える修道士だ。効率化を求めると人間は人間味を失っていき、戦場では修道士と伝令兵は敵から真っ先に狙われる。クロードはローレンツを修道士の資格を持つマリアンヌの副官に指名していた。
他の者には恐縮するばかりなのだが彼女はローレンツが相手の時は感情を露わにする。ローレンツ自身は己の美徳や魅力がそうさせるのだ、と思い込んでいるが第三者から見れば彼の個性に耐えかねた、が正しい。当たり前だがマリアンヌの内にも様々な思いが渦巻いている。不自然なまでに殻にこもっているよりずっといい、とクロードは思う。
日が暮れると戦闘は強制的に終了する。暗くなってしまえば射手はまさに打つ手がない。兵種の都合で早く撤収できたクロードは竜舎から飛竜を一頭拝借し、砦の外に向かった。撤収してくる兵を直接労いたかった───飛竜の件で苦言を呈されたらそう言い訳をするつもりでいる。
本陣の奥の奥、今はまだ自国の兵に向けてしか掲げられていない遠征軍総大将の軍旗を確かめたかった。あの大軍を用意したのは誰なのか、クロードにしか本当のところがわからない。眼下にいる兵たちを大声で労いながら飛竜の手綱を操り、その場をさり気なく離れる頃合いをうかがっていた。
「クロード!何をしている!早く戻れ!」
だがクロードは地上からよく通る声で話しかけられた。なんとローレンツにはあの過酷な一日を終えてもなお、他人を怒る元気が残っているらしい。
「よう、ローレンツにマリアンヌ、生きててくれて嬉しいぜ」
近接戦闘をしないクロードと違って二人の服は他人の血で黒く汚れている。ローレンツが浴びたのは返り血でマリアンヌの服についているのは怪我人の血だ。二人ともヒルダが調合してくれた香油は使っているのだろうか。
「当たり前だ。僕もマリアンヌさんも将来、爵位を継ぐのだからな!」
爵位を継ぐ、というローレンツの言葉を耳にしたマリアンヌは眉間に皺を寄せた。どんな感情であれ、彼女の場合は露わにした方がいい。
「大事な身の上なら早く戻ればいいのに」
「僕は貴族だぞ?平民を先に安全な場所へ逃すにきまっている!それに後備えは武人の誉れだ!」
ローレンツは手にした槍の柄で地面を突いた。賛同している時も異議を唱えたい時も槍兵はあんな風に地面を突く。全ては文脈次第なのだ。
クロードは素朴さと無知で己の正当性を示すようなやり口を好かない。それに双眼鏡と活版印刷を禁じるセイロス教の教えも馬鹿馬鹿しいと思っている。だがフォドラを迷信の徒と見下すパルミラの者たちと最後の最後まで戦場に残り、撤退する兵たちを守る後備えを喜んで務めているローレンツ、どちらの人間性が優れているのか。答えは口に出すまでもない。