犬の話(仮).1 犬は飼い主の見た目を判断しない。収入を、身分を、立場を問わずひたすら飼い主を愛する。クロードを故郷や実家と繋ぎ止めていたのは愛犬だった。どんなに居心地が悪く、嫌な思いをさせられても残していった愛犬に会わずにはいられない。
子供時代を支えてくれた尻尾のある親友はクロードが進学で国を離れた頃から老いが目立つようになった。撫でるといぼの感触がして会うたびに目の白さが増していく。遠方での暮らしに耐えられそうにない、と分かっていたからこまめに帰省した。
残していった犬が亡くなって以来、クロードは里帰りをしていない。
「ネヴァ!」
クリーム色の大きな犬がクロードの声を聞いて長い飾り毛が生えた耳を動かした。大きなビーズクッションの上で寛いでいる姿は猟犬に見えない。だがいくつかの単語を聞いた瞬間の俊敏さは見事なものだ。
「散歩に行こうか」
素早く立ち上がりクロードに抱きついてくる。大型犬なので腰と膝に力を入れないと勢いに負けて床に倒れこんでしまいそうだ。なんとか堪えて鉄製の玄関扉に磁石でくっつけてある車の鍵と家の鍵を手にする。
「お姫様、バッグを持ってきてくれ」
ネヴァは散歩に必要なものが入っているバッグを咥えて持ってきた。お調子者だがものわかりが良く、仕事部屋の前で構われる時を大人しく待っている。上手いこと信頼関係が築けたのだ。この姫君を飢えさせないためにもクロードは注文通り曲を作り続けねばならない。
中古で買った大型SUVは少し離れた駐車場に住まわせてある。後部座席は全てネヴァのものだ。巨大なネット状のケージが括り付けたままになっている。ドアを開けてやるとネヴァは自分からケージの中に入っていった。
「ああ、ネヴァは今日もお利口さんだな」
垂れ耳の根元をくすぐってからチャックを閉めても平然としている。運転席に座ってエンジンをかけるとようやくネヴァが早く出せ、と言わんばかりに吠えた。
車でなければ行く気になれない郊外にある公園はどこかの豪商が敷地ごと自治体に寄付したものだ。公園の入り口付近には館を改装した小さな美術館がある。所蔵品の点数は少ないものの熱心なファンがいる画家の作品があるので、少し交通の弁は悪いが無人ということはないらしい。いつも犬連れのクロードはその美術館に入ったことはないが併設されているカフェがお気に入りだ。テラス席ならネヴァと離れることなく見事な薔薇の生垣と特製のハーブティーが楽しめる。
「パブロ、そんなに向こうが気になるのかい?」
首都に引っ越してきたばかりのローレンツは安心して大型犬を散歩させられる公園を探している最中だ。どうせなら人間も楽しめるところがいい。今日やってきたところは小さな美術館やカフェもある上にリードを離しても構わないエリアまであるのだという。この見事な薔薇の生垣も気に入ったし、くまなく歩いてみるのも良いかもしれない。
ローレンツの故郷はこの街と違ってどこまでも平坦な土地が続く。牧畜が盛んで家も広く都会よりも大型犬を───しかも複数飼っている家庭が多い。パブロはローレンツが実家から連れてきた犬だ。引っ越すにあたって犬を連れて行くように勧めた父エルヴィンの思惑は分かっている。
一人暮らしをするローレンツの夜遊びを阻止するためだ。家に犬がいるなら仕事と犬の面倒で生活のほぼ全てが費やされる。おそらく留学先で男女の別なく遊んだことを薄らと把握されているのだろう。だが服飾デザイン学の学位を取って帰国したローレンツが故郷には戻らず、首都に居を構えることにしたのはあくまでも仕事のためだ。夜遊びのためではない。
現にローレンツはこちらに引っ越したばかりだというのに国内複数ブランドの外注パタンナーとして忙しい日々を送っている。それなのに、よりによって実家で飼っている犬たちのうちで一番長い散歩を必要とするパブロを連れて行くよう勧められた。
だが彼が故郷からついて来てくれなかったら、ローレンツは作業場に篭りきりの不健康な生活を送っていただろう。クリーム色の飾り毛が美しいローレンツのお目付け役はどうしても生垣の向こうが気になるらしい。
落ち着かせるために水を飲ませてみようか。そう考えたローレンツは散歩に必要なものが入っているバッグからまず、ターバンを出してやった。胴体に生える毛は短いのだが耳に生える飾り毛が長いのでつけてやらないと水で濡れてしまう。
ローレンツ自身も仕事中はヘアバンドでまっすぐな紫の髪をまとめてアップにすることが多いのでシンパシーを感じる。お手製のターバンをつけ、シリコン製の折りたたみ皿に水を注いでやると彼はあっという間に手持ちの水を飲み切ってしまった。
確か公園入り口にある地図によるとこの裏はカフェだったような気がする。きっとミネラルウォーターが売っているはずだしなかったとしても水場を教えてもらえるだろう。