犬の話(仮).5 故郷の砂漠を駆け回る犬が石畳の敷き詰められた街にいることが信じがたい。クロードはネヴァと街中のペットショップで出会った。運命に従うことを躊躇してはならない。客の視線に気づいた店員が彼女をケージから出してくれた結果、クロードは一般受けするような曲をいくつか書いた。そこそこヒットしたそれらの曲はいまだにクロードの生活を潤してくれる。
こうしてネヴァはまだふくふくと丸く将来の細長さを感じさせない子犬の頃に鼻先から尻尾の先までクロードのものとなり、クロードの助手席はネヴァのものとなった。ケージを使っていても犬を乗せるとどうしても車は汚れる。ここ数日、何故かネヴァは散歩に行きたがらなかったのでクロードは久しぶりに車の面倒を見ていた。
気になっていた冷却水を補充して、車内を念入りに掃除する。そのためハンディクリーナーも駐車場に持ってきていた。前のオーナーの好みがそのまま反映されたウッドパネルをウェットシートで拭き、ハンディクリーナーで足元のゴミを吸いとっていく。
最後の大物、ということで助手席に固定しっぱなしのケージを下ろして中を見た瞬間、クロードは言葉を失った。ペットシーツに少し血がついている。だが、数日前パブロと遊ばせた帰りに車から降ろした際はネヴァの足取りに異常はなかった。
物言えぬ彼らのために飼い主は真っ先に体調に気づいてやらねばならない。だからクロードは帰宅するといつもネヴァの身体を拭き、ブラッシングをしてやる。
切り傷もどこか痛がるようなそぶりもなかった。だが、ここ数日ネヴァはやたら毛繕いをしていたのだ。一刻も早く様子を確かめたい。クロードはゴミをまとめてケージを助手席に設置し直すと自宅まで走って帰った。
クリーム色の姫君はクロードを出迎えてくれたがそう言う視線で見てみるとやはり陰部を気にしている。それにおもちゃのぬいぐるみをベッドに持ち込んでいたのはそういうことだろう。
「ごめんな、気が付いてやれなくて……。嫌だろうけど病院に行こう」
ここ数日食欲がなかったことも全て納得がいく。クロードは慌てて獣医の予約をとりメッセージアプリを立ち上げた。ネヴァもパブロも大型犬で小型犬より成熟するまで時間がかかる。ローレンツも自分と同じ間違いをしていたら非常にまずい。
デザイナーとの打ち合わせを終え、わざわざ隣の通りにある個人経営の喫茶店まで移動してからローレンツは自分のスマートフォンを手に取った。いつどこで誰が見ているのか分からない。それにこの店は茶葉の種類が豊富なのでローレンツのお気に入りだった。
スマートフォンは未読メッセージがある、と知らせてよこしたがどうせセレクトショップからのお知らせの類だろう。気分を変えるため通知を無視してローレンツが紅茶に口をつけていると今度は呼び出し音が鳴った。ワンコールで切れたから間違い電話かもしれない。着信履歴を見てみるとクロードからだった。何があったのか問うため、メッセージアプリを立ち上げると直近のメッセージは全てクロードからのものだった。
───ネヴァが発情してた。
───パブロは去勢手術してるか?
ローレンツの背中を冷や汗が伝っていく。これまで近所でパブロと行きあう犬たちは皆、人間で言うなら中年で避妊手術も去勢手術も受けていた。その環境に甘えて検査を先送りにしていたローレンツの責任は重い。
───パブロの血統は麻酔に弱い。だからまだ受けさせていない
ローレンツもクロードも大型犬は成熟するまで小型犬よりかなり時間がかかる、と言う事実に寄りかかりすぎた。スマートフォンの画面をタップしながら必死でネヴァたちと一緒にいた時のことを思い出す。パブロがきちんと戻ってきてくれるのを良いことに、ローレンツはクロードのことばかり見ていた。
───ネヴァを病院に連れて行ったのか?
───今から行く。獣医にできるだけ正確なことを話したいから質問しただけだ。
心に蓋をしてもしなくても結果は変わらない。時を遡ることはできないがこの先のことなら自分で決められる。ローレンツはクロードの大切なネヴァを傷つけてしまったことを今すぐにでも詫びたかった。
───その前にメッセージに気が付けて良かった。結果がどうであれ今すぐにでも会って話がしたい。
クロードはローレンツが今日、時間を作れることに驚いていた。顔を見たくもない、と言うわけではないらしい。いつもの公園のカフェを待ち合わせ場所に指定してきた。パブロなしであの公園へ行くのは初めてかもしれない。ローレンツはぬるくなった紅茶を飲み干すと慌てて会計を済ませた。試作品を見せるため車で来ていたのは不幸中の幸いだったかもしれない。
薔薇の生垣が美しいカフェについたローレンツはテラス席に腰を下ろした。クロードがまだネヴァに会わせてくれることを願って。