広間に一歩踏み入った瞬間、江澄は顔をしかめた。よくないにおいがする。
妓楼での邪祟騒ぎが一段落して五日、江家に妓楼と町の顔役から招待があった。妓楼の遊妓らが宴を催すという。
江澄は初め断るつもりだった。礼は十分に受け取っている。ところが、師弟たちにぜひ参加してくれと懇願された。それはもう詰め寄る勢いだった。結局、江澄は師弟たちに報いるつもりで招待を受け、再び白梅と相対することになったのだが。
江澄は案内してきた男を振り切り、奥で待つ白梅の元まで大股で歩み寄った。
「御宗主、どうかしたか」
やはり、においの元は彼女であった。
江澄は見上げる白梅の胸元に手を伸ばし、がばりとその袷を開いた。
白い肌にくっきりと呪紋が描かれている。
赤黒い呪痕は血で刻まれた証である。
「御宗主」
慌てふためく顔役とは対照的に、白梅はまったく動じていない。
それどころかにらみ上げる江澄の手をぺしりと叩いてみせた。
「御宗主、いけませんよ。大勢の前で」
「どういうことだ」
「どうもこうもありません。あたしはあの子と約束したことを果たしただけ」
江澄は袷から手を離さず、固唾をのんで見守っている遊妓らを見回した。
楼主にしても、江澄の暴挙を不安そうにして見ているくせに、白梅の呪紋には少しも驚く様子がない。
「皆が承知の上か」
「こんなところで話せませんよ。どうぞ、奥へ」
白梅はやんわりと江澄の手をはずし、優雅に微笑んでみせた。
江澄はうなずき、「全員、留め置け」と令を発した。
妓楼の全員が邪術に関わったとなれば、このままにしておけることではなかった。
腫れて、腐って、落ちるんですよ。
こともなげに白梅は言った。
先日のように江澄のために用意された盃を傾けながら、彼女は月のない空を見上げる。
「俺は邪術に詳しいわけではないが、代償はお前の命だろう」
「さすが御宗主、よくわかっておいでで」
「何故、お前がそのような術を知っている」
夷陵老祖が死んで後も、邪術を修行する者は少なからず存在した。しかしながら、遊妓が術を施せるとは思えない。関わる術者がいるとなれば捨て置けない。
「温氏を覚えていますか」
唐突に出た氏名に江澄は目をみはった。
「当然だ」
「あたしの母はその残党ですよ」
白梅は笑いながら言った。以前は艶然として見えた微笑みが、ひどくはかない。
「命と引き換えに誰かを呪う紋は知っていたんです」
「それにしたって、自分の命を代償にするのはやりすぎではないか」
「あたしにはこれが精いっぱいだったってことです。ほかは知らない」
江澄は歯を食いしばって、かつての義兄弟の顔を思い浮かべた。あの男であれば、もっと精密な呪紋を組み立てただろう。この呪を解く方法も、知っているかもしれない。
「今からでも、やめる気はないか」
「御冗談を。あんな男をのさばらせておけますか」
白梅は己の胸元を指先でなでる。
「それに、これを刻んで三日になります。だんだん色が濃くなっているので、今からでは……」
「三日か」
腫れて、腐って、のあたりまでは呪が進行していそうだ。
江澄は身を震わせた。男としては想像したくない呪術である。
「いいんですよ。これで。あたしは明明のいない場所に未練はありませんから」
盃を揺らして、その表面を見つめる白梅の瞳には諦観が宿っている。
その視線を、江澄は知っていた。
いつか、もうずっと以前に、同じような目をしていた男がいた。
彼はいつのまにか立ち直り、江澄の傍らに立つようになった。
自分勝手だということは理解しながら、江澄は白梅に腹を立てた。
彼女にとっては命を懸けるに値することだろうが、知ったことではなかった。
「姑蘇に行くぞ」
「姑蘇に?」
「御剣の術は知っているだろう。俺が連れていく」
「放っておいてくれ。あたしはここを動く気は」
「知るか!」
江澄は盃を叩き落した。
白梅があの夜の必死さを失っていることがいら立つ。江家宗主に食って掛かるほどの遊妓が何を気弱なことを。
「三日経つというなら三日分はそいつを苦しめられたんだろう! 呪を解いたところで、元に戻るわけではない。腐って落ちるより、腐ったものをぶら下げておかなきゃならないほうが悲惨だと思うが?」
白梅は唖然として、いきりたつ江澄を見上げている。
江澄も白い面をにらみつつ、己は何を言っているのかと不可解であった。
しかし、どうしても許せない。
江澄が尽力して立て直した江家は雲夢の民のためにある。その民が自身の命を粗末にするなら、自分は今までなんのために生きてきたのか。
「俺と一緒に来い。お前が死ぬには早すぎる」
白梅は差し出された手をまじまじと見つめた後、腹を抱えて笑い出した。
「御宗主、それはいけませんよ。その気もない女にそんなことを言っちゃ、惚れられても文句は言えないってもんだ」
「そんな話はしていないだろう⁉︎ だいたい、お前が俺に惚れるわけがあるか」
白梅の特別は一人きりだ。江澄がそうであるように。
彼女はさらに笑い、涙を浮かべるほど笑ってから、床に落ちた盃を拾い上げた。
「いいよ、姑蘇に行く」
「よし」
広間に戻った江澄はあらましを師弟に告げると、すぐさま御剣の術で空に浮かんだ。小脇に抱えた白梅は江澄にしがみつきつつも、きちんと両足で均衡を取る。
「母の剣に乗せてもらったことがあるんです」
「そうか」
月はない。
江澄は星を頼りに空をすべる。
朝までには姑蘇に着けるだろう。