「阿澄」と、呼びかけてくれる声はいつもやわらかく、細やかな気遣いにあふれ、まるごと包み込んでくれた。まだ昨日のことだ。思い出すのはしかたない。
江澄は振り切るようにして視線を外すと机についた。
ひとまず、向家に文をしたためる。向張豪を牽制しておかなければいけない。
――ご息女を蓮花塢で保護いたしました。ご息女は旅の疲れによるものか、ご体調がすぐれず、数日の間はご滞在いただかなくてはならない状況です。ご心配のこととは存じますが、再度ご連絡を差し上げますので、それまでお待ちいただけないでしょうか。
夕刻に遣いを出したというのに、翌日の昼前にはもう返事があった。
――お心遣い、どのように感謝申し上げたらよいかわかりません。ありがとうございます。本来はすぐにでもおうかがいするべきでしょうが、近隣の村で流浪屍が発生したため、夜狩を行わなくてはいけません。お言葉に甘えて、ご連絡をお待ちしたく存じます。
江澄は鼻で笑って、その文を机上に放り出した。
おかしなことを言うものだ。向家の宗主がつききりにならなければいけないような夜狩の的が、たかが流浪屍とは。
そのうえ、文とともに届けられた山ほどの贈物は謝礼のつもりか。
江澄は親指と人差し指で眉間のしわをもんだ。
果物はまだいいだろう。織物も、まあ、受け取ってもいい。しかし、香油だの、飾り紐だのが交じっているのはいただけない。これではまるで婚礼の持参物である。羊と宝石が入っていないのはさすがに控えたと考えるべきか。
向張豪は本気で向陽紗を江澄の妻に据えようと狙っている。
江澄は師弟に命じて、まず力のある仙師を五名ほど選抜させた。それから香油以下不要と判じたものを持たせて、さらには乾燥させた蓮の実も加えて、丁寧な令状とともに向家へ送り込んだ。
――結構な贈物をいただきまして、かえって気をつかわせてしまい、大変申し訳なく存じます。ご息女のためにお送りいただいたものですが、本日時点でご息女に要不要をご判断いただくことができません。また、お恥ずかしいことながら、当家ではお預かりすることが困難な状況につき、いったんお戻しいたします。また、夜狩の助けになればと思い、力自慢を五名ほどお送りいたします。
江澄は少しやりすぎかと案じたが、江家が向家の目論見を容認したわけではない、ということははっきりと示さなければいけない。とはいえ、向家の意向を完全につぶしてしまっては向陽紗を引き渡さなければいけなくなる。その間の、微妙な均衡を保てるようにと苦心した結果だった。
こういったやり取りについては圧倒的に藍宗主が上手である。
各世家の事情に通じ、宗主の人柄を熟知し、その上で人心を掌握していく。
江澄がまねできるものではなかった。
「尋ねるのは……まあ、無理か」
思わず弱音がこぼれる。
これで正解かと、今打っておける手はほかにないかと、答え合わせができたらどんなに楽か。
「まいったな」
藍家宗主を頼りたいときに頼れなくなるとは想定外だった。こんなことで、まだ頼りたくなるほど己が未熟だったことにも気づかなかった。
江澄は政務が終わると、自室に戻ってもう一通、文を書いた。
――向家より、娘が江宗主の妻になるというようなうわさが出るかもしれないが、信用することのないように。
正式な見合いをしたわけではないとか、娘のほうにも妻になる希望はないとか、理由ばかりが長くなる。だが、書かないではいられなかった。
いつかは別れることになると思っていた。だから、考えることは避けてきた。
だけど、こんなに早くそのときが来るとは。
――私には、あなたしかいない。
そこまで書いたところで、江澄は筆をおいた。
(見苦しい文があったものだな)
藍曦臣がこれを読んだらなんと思うだろうか。今さらなんのことを、と呆れるだろうか。
それとも、すでに彼の中では今さらのことになっているだろうか。
江澄は水紋で彩られた文箱のふたを取った。中にはぎっしりと文が詰まっている。すべて藍曦臣からの文である。
その一番上にたたんだ文をのせると、水紋のふたを閉じた。
ところが、文のかさでふたが少し浮く。
江澄は腕を組んでそれをながめると、飾り棚からひもを取ってきた。
ひょっとするともう二度と、ふたを開けることのない文箱だ。しばったところで支障はないだろう。
江澄の自室には文箱が二つある。
蓮の飾り彫りが美しい文箱と、白いひもでしばられた水紋の文箱。
ときたま房室の主が文箱の水紋を指でなぞっている。
寒室の庭では桔梗が風にそよいでいる。
藍曦臣は廊から庭に降りると、その紫の花弁を指の腹でそっとなでた。
――俺と、あなたに、先があるとは思っていなかった。
恋人の言葉を思い出し、耐え切れずに息を吐いた。
この一年、藍曦臣と会っているときの江澄は間違いなくうれしそうだった。ひとりよがりではなくそう思う。
しかし、彼が雲深不知処に来たときには、寒室の外では徹底して宗主としての態度をくずさなかった。初めは照れているだけだろうと、本人の言うとおりにそう思っていた。だが、いつまでたっても変化がない。蓮花塢ではそのようなことはないのに、不思議でたまらなかった。
「私はまた、見たいものしか見ていないのだね」
指の先の桔梗はまた風に揺れる。
いつしか不安が芽生えた。
江澄が、まるで彼がいなくなった後に藍曦臣が困らないようにふるまっている。そんなふうに見えてしまってからは、どうやってつなぎとめようかと考える毎日となった。だから、離れていかれる前にと、道侶になってほしいと申し出たのに。
まったく、打草驚蛇とはこのことである。
よもや、道侶どころか、つづいていくものだとさえ思ってもらえていなかったとは。
(どうしたらよいのだろうね)
江澄にとって自分はどれほどのものなのだろう。手放せると思えるほどのかかわりでしかなかったのだろうか。
藍曦臣は背筋を伸ばした。
藍忘機と魏無羨が歩いてくるのが見えた。
「沢蕪君」
「兄上」
寒室にやってきた二人は礼儀正しく拱手をした後、気づかわしげに藍曦臣を呼んだ。
「あの、大丈夫ですか」
「お戻りになってから、お元気がないように見受けました」
「ぶしつけですけど、江澄と何かありました?」
この江澄の義兄はいつもするどい。
藍曦臣は微笑もうとして、己の頬がひきつるのを感じた。それがおかしくて、そうしてやっと笑えた。
「ありがとう、忘機、魏公子」
「やっぱり何かあったんですね」
「どうしてそう思うのかな」
「兄上、うわさが流れてきています。江宗主が、向家の息女と婚姻を結ぶそうです」
天地が揺らいだ。
気が付くと、地面に片ひざをついていた。
「兄上、気をたしかに」
「すまない、忘機。大丈夫だよ」
「しかし」
藍曦臣は首を振って立ち上がった。
兄を心配する弟の後ろには、冷ややかな視線を向けてくる男がいる。
「沢蕪君、江澄に何をしたんだ。あなたならうわさが出るまえに話ごとつぶしているだろ。ちょっと調べたら、向陽紗は蓮花塢にいるみたいじゃないか。なんでこんなことになってるんだよ」
「魏嬰……」
「そうですね」
藍曦臣は己の記憶をたどった。向陽紗という名であれば、向家の娘で間違いない。その娘が蓮花塢にいて、江澄との婚姻の話が出ているのであれば、それは江澄が受け入れたことか。
「何故でしょう、私にもわからないのです」
「だから、あいつに何をしたんだ」
魏無羨は苛立ちを隠さなかった。靴のつま先でトントンと地面をたたいている。
藍曦臣はまぶたを閉じて、あの日のことを思い出した。
「一緒に、祠堂に参ってくださいと」
「言ったのか」
「ええ、つい先日」
「なんでそんなこと言ったんだよ」
「恋人に、先を求めることは自然だと思っていました」
魏無羨は手のひらで額を押さえると、大仰にため息をついた。彼は小さな声で「相手は江澄だぞ」と言う。
藍曦臣がどういう意味かと尋ねる前に、魏無羨のほうが言葉をつづけた。
「それで、どうするんですか」
ここで言うべき言葉を間違えたら、二度と信頼は戻らない。江澄を取り戻したいと望むなら、魏無羨の協力はなくてはならない。
「叔父上の元に参ります」
「藍先生の?」
「ええ、道侶に迎えたい人がいると伝えるならば、叔父上が初めでしょう」
江澄がどういうつもりだろうと、藍曦臣は諦めるつもりはなかった。数日前にはこの腕の中にいた人である。誰に手放せと言われても、応じられるわけがない。
「沢蕪君、あなたでよかった」
魏無羨が笑う。
藍曦臣は冷や汗を隠したまま、二人を伴って寒室を出た。
見たいものしか見えないということを忘れてはならない。見たい現実を見るために手を尽くさなければ、また、同じことをくりかえすことになる。
それだけは絶対に避けなければならない。