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    ベルジャン(2010.02.28)

    #ラキファン
    lachrymalFan

    Il Sole Sorge Anche ~陽はまた昇る~     ◆


     気が付けばいつの間にか沈みかけていた太陽が、広間を紅く染め上げていた。
     もう、こんな時間になるのか……。空は緩やかに色を変えていったであろうに、まるで気付かなかった。秋も終わりに近づいた季節、夕暮れを迎え空気は冴え冴えと冷え始めている。四角い窓枠から差し込む紅を眺め、CR:5最年少幹部ベルナルド・オルトラーニは、溜息を吐きたい気分を押し隠して静かに吐息を漏らした。
     三ヶ月前、二十三歳という若さで幹部に昇格し多くの人々を驚愕させた。そして、その異例の大抜擢にも思わず頷いてしまうような理知的な風貌を持つ青年。それがベルナルドだった。青林檎色の甘そうな色の瞳に知性と強い意志を宿し、同じ色の髪を肩口まで伸ばしている。思わず目を瞠る長身は、今は椅子に深く身を委ねているから分からない。それでも凛と伸びた背は、彼の痩躯に覇気を与えている。それが威厳や風格と呼ばれるものに育つには、今しばらくの時を要するだろう。黒縁の眼鏡を乗せる輪郭に、ほんの僅か残った少年時代の面影が、彼の若さを伝えていた。
     ベルナルドはくい、と眼鏡の縁を押し上げ、位置を直す。僅かに焦点のずれていた視界が一息に明瞭になり――だが、それだけだった。部屋に満ちる重い空気は、何も変わりはしない。
    「――あの墓堀どもがデイバンを我が物顔で歩くさまを、眺めていろと言うのか!」
    「そんな事は言ってはおらん! 利用してやれるものは、使うべきだと言っているのだ!」
    「いや、しかし。あんな新興のギャングどもと、例え仮初でも同盟を結んだとなればトスカニーニの名に、傷が……」
    「然り! コーサ・ノストラとしての誇りをお忘れになったのか、シニョーレ!」
     侃々諤々、怒号のような主張が飛び交っている。
     ここはデイバン市内、CR:5がいくつか抱える会合用のクラブの一室。数十人の男たちが椅子を並べ、顔を付き合わせている。落ち着いた内装の店内は、清潔に整えられているというのにベルナルドの嗅覚は何故か古びた倉庫の埃臭さのような据えた匂いを嗅ぎ取っていた。そしてベルナルドはその理由を理解しており、あからさま過ぎる自身の五感に苦笑を禁じえない。
    ずらり並んだ顔、顔、顔。弛んだ頬の肉を震わせて、議論を交わしているのは役員達だ。組織の未来を憂える振りをしながら、その実内面ではどうすれば一番私欲を満たせるのかとばかり、干からびた脳を働かせている。老いて錆を纏い、強欲さばかりが先んじる先人達。骨董品はおとなしく、ガラスケースの中から新たに流れ行く世界を見物でもしていれば良いというのに。
     いい加減、うんざりとしていた。
     久々に召集された役員会。それは近年ロックウェルを拠点として着実に勢力を拡大しつつあるギャング集団・グレイブ・ディガーへの対処を決めるための会議であった。近くの餌場を喰い荒らし終えた奴らは、次の餌場としてこのデイバンに目を付けた。未だ侵攻は始まっていないが、始まってからでは手遅れになりかねない。それだけの実力を持った敵を前にしているのだ、対策を練らなくては。CR:5はカポ・アレッサンドロの号令の下、ここに集った――はずだった。
     だというのに、これはいったいどういうことか。
     ベルナルドの耳に入ってくるのは、やれトスカニーニの家格だの、馬の骨とも知れないギャング如きだのと戯言ばかり。いくどか起こった小競り合いを引き合いに出し、全面抗争をと主張する者に、まだ気にするほどの時ではあるまいと笑い飛ばす者。前者はロックウェルとの全面抗争がどれだけの被害を生むかをわかっておらず、後者はGDに抱き込まれている可能性がある。声ばかりが荒げられて、まるで決着の見えない議論はさっきから堂々巡りを繰り返している。熱弁を振るうのは構わないが、この流れは一体何度目だ。
     うんざりする。なにもかにも。
     こんな愚かな老人たちが、このCR:5の役員であるという事にも、幹部になったばかりの自分には、未だ彼らを黙らせるだけの実力がないのだと言うことにも。

    「――お静かに」
     喧騒を裂いて、ベルナルドの凛とした声が通る。
     五つの幹部席の末席、椅子を引いて立ち上がった年若い姿。
     束の間、広間はシンと静まり返り――
    「生意気な。太鼓持ちで幹部に成り上がった若造が……」
     静寂の隙間を縫うように、毒を含んだ小さな声が忌々しげに吐き棄てた。細波のように波紋を広げる、密やかな失笑。
     ベルナルドの若々しい鋭気に満ちた顔立ちに、鬱蒼とした苛立ちの影がほんの一瞬過ぎる。けれど彼は、誰の目にも触れぬほどの速さでそれを掻き消し、淡々ともう一度、静粛に、と人々に呼びかけた。
    「ご静粛に。議論は尽きませんが、いつまでも討議を交わす時間はありません。諸役員の皆様にはここで、先日の幹部会で採択した基本方針をお伝えしたいと思います」
    「方針、だと?」
    「はい。まずは譲れぬ物、それはこのデイバンの街。我々のホームであるこの街に、奴らが土足で踏み入ることを許すわけにはいきません」
     確認にと告げたベルナルドに、一部の老人達がまたも小さく反発をする。分かりきったことを、何を今更。それは最早感情論だ。彼らはベルナルドが気に入らない。いや、それすらも違う。彼らの癇に障るのは、二十歳を幾つかこえたばかりの若造が幹部の座にいるという事。ベルナルド・オルトラーニという人間の形などに、彼らは見向きもしていない。
     ベルナルドは言葉を切ると一拍空け、自身の言葉が人々にいきわたったのを確認するかのように見渡す。その視線を受け、先程までGDへの徹底抗戦をと声高に叫んでいた男がとたん、我が意を得たりと胸を張った。
    「では、戦争だな?」
    「――いいえ」
    「なんだと? あの薄汚いマフィア共と、共存はできんと今貴様が言ったのだろうが」
    「その通りだ。戦わぬとするならば、もしや奴らと同盟を組むとでも……? そんな恥知らずな真似は、許すわけにはいかんぞ!」
     間髪いれずに別の男が噛み付く。役員達の中で、今のうちにGDと手を組んでしまえばよいと主張していた者たちが勢いづき、逆の者は罵声を上げる。
     ――まるで猿山の猿のようだ。投げ入れられた餌を群れ中で追いかけ、ぎゃいぎゃいと知性すら感じられない。
     ベルナルドの胸に嫌悪が湧き上がる。彼は組織の一員として生きるため、時として先人を立てる必要がある事を重々承知していた。たとえそれが、本当はそんな価値もない人々だったとしても、だ。だが、必要があると知ってはいても、感情がそれを受け入れられるとは限らない。
     プライドが表に出すことを許さない鬱屈を怜悧な無表情の仮面に隠し、言葉を繋ぐために、ベルナルドは息を吸い込んだ。
    「戦争すらも、起こさせてやらないのです――」


         ◆ 


     それから時計の長針がもう一回りするほどの時間を費やし、会議はようやく決着を見た。
     ベルナルドの示した案は、言うなれば戦争ではなく排除。必要以上の流血は求めず、徹底してデイバンへの干渉を排する。攻勢は密やかに。背後から手を回して力を殺ぐ。
     役員達は、当然のように反発した。生ぬるい、それでは面子が立たぬ。いいや逆に戦わぬならば共存の道を探すべきではないか。奴らを油断させその隙に、ロックウェルを喰らってやるという道もある、と。
     彼らはわかっていないのだろうか。全面抗争となれば、流れる血の量は膨大なものになる。かといって、下手に協定でも結ぼうものなら奴らはそれを足掛かりに、容赦なく人の庭に土足で踏み入ってくるだろう。彼らを排すると、言うは容易いが行うのは生半な苦労ではない。しかし、それしかあるまいと、幹部会でも結論を見た。
     些細な綻びに勝手な妄想で脚色をして、役員達は騒ぎ立てた。収束の気配を見せない議論。それを終わらせる言葉を、ベルナルドは知っていた。
    「大体、貴様のような若造の立てた案など、信頼できるものか!」
     焦れたように、役員の男が机を叩いた癇癪に、ベルナルドはその言葉を放った。
    「これらは全て、幹部会議で同意を得たこと。そして、私が幹部会を代表してお伝えさせていただいてはおりますが――大元は、カヴァッリ幹部の発案です」
     と。それだけ。
     たった一言だった。
     あれほど紛糾していた場は水を打ったかのように静まり返り、口をつぐむ。そしてぽつりと零すように、
    「まあ……それならば、仕方あるまい」
     誰かが零した納得の言葉に、皆が頷いた。
     ――ああまったく、笑ってしまう。

     長かった役員会の閉会が宣言されると、役員たちは足早に部屋を去っていった。
     自分たちで徒に時間を引き延ばしていたというのに、その口からは忙しいというのにとんだ時間を食ってしまったと不平が零れている。アレッサンドロや、古参の幹部たちの前ではけして見せない――見透かされてはいるけれど――素顔を、彼らはベルナルドの前では気負い無く晒してみせる。それは偏に、彼らがベルナルドを侮っているからこそのものだ。
     幹部とはいえ、所詮は新参。二十歳をいくらか超えたばかりの、ただの若造。下世話な噂話では、アレッサンドロやカヴァッリと情夫紛いの行為をして幹部の座を買ったなどというものまで存在する。下手をすれば彼らの孫よりも年若いベルナルドを、彼らは警戒する必要など無いのだと笑い捨てている。
     議論の最中に示した資料の束を纏めながら、ベルナルドは静かに、胸の中に溜まった重い空気を吐き出した。
     今日の会議、心底思い知らされた。彼らは、似ている。揃いもそろって、馬鹿ばかり。何も見えていない。変わり行く世相、うつろうアメリカと言う国、そしてGDと言う組織。今、CR:5を取り囲んでいる様々な事象を、彼等は揃って見ようとしない。――いや、見ることができないのかもしれない。長い時を生き、長い間世界を見つめ続けた彼らの瞳は、いつの間にか過去の残像が焼きついてしまってまともにものを見る能力を無くしてしまったのだろうか。
     滲み出そうになる嘲笑を、ベルナルドは押し隠す。彼らの欠点が老いであるとしたら、ベルナルドのそれは若さだ。鋭気の無い者はのし上がっていくことはできないが、鋭さを隠せない者は無用の敵を作ってしまう。
     誰もいなくなった部屋で、ベルナルドは小さな溜息をこぼした。眼鏡を外し、目頭を揉みながら背筋を伸ばす。
    「――グレイブ・ディガー……か」
     騒乱の火種となった名。ロックウェルの墓穴掘り。彼等は今も、せっせと地面に大穴を掘りながら、CR:5を手招きしている。さあおいで、この穴の中に。ここがお前の墓穴だ、墓標には荒れ果てたデイバンの街を飾ってやろう。そう嗤いながら魔手を伸ばしてくる。彼らの頭であるイーサンという男はアレッサンドロとなにやら因縁があると聞くが、ベルナルドは詳細を知らない。知っているのは、彼が油断の出来ない敵であると言うことだけだった。
     長い時間を無為に費やした役員達の中で、彼らの脅威を正しく理解している者がどれだけいるのだろうか。
     絶対的な排除をと騒ぎ立てる強硬派と、今はまだ相手にするほどの時ではないとする穏健派。過激派はロックウェルとの全面抗争がどれだけの被害を生むかをわかっておらず、穏健派はGDに抱き込まれている可能性がある。
     厄介なことだ、と溜息をついた。面倒ごとは、外よりも内にあるほうが厄介だ。面倒なものすべてを放り捨てることも出来ないのだから、結局はすべて抱え込んだまま進むしかない。
    「――ベルナルド」
    「……っ! これは……ドン・カヴァッリ」
     定まらない思考を追っていたベルナルドは、いつの間にか傍にいた老幹部の姿に気付かなかった。声を掛けられて、慌てて眼鏡を掛けなおす。
    「どうした、流石のお主も疲れたかの?」
    「とんでもありません。失礼いたしました、少し、気を抜いてしまっていた様です」
    「他の者もおらんことじゃ、肩肘を張らずとも良い。若いお主から見れば、あの悠長な会議は我慢ならぬものもあるじゃろうて」
     まるで温厚な好々爺の様に、カヴァッリはベルナルドの若さを往なす。思わず頷きたくなってしまう誘惑を堪えながら、ベルナルドはほんの僅かに眉根を寄せることでカヴァッリの言葉に答えた。
    「あれで、よかったのか?」
     カヴァッリが尋ねる。何のことか、とは言わぬままに、ベルナルドは「はい」と答えた。
     先程の会議を、決着させたあの一言。老幹部はベルナルドに向かい問いかける。
    「確かに、わしの名で発案すれば役員会の面々も受け入れ易くはあるじゃろう。だが、それではお前の功績にはならんのだぞ?」
    「わかっております」
    「――功績を積まねば、お前はいつまでも新参幹部のままじゃよ。年数を重ねようと、彼らはそう易々とは受け入れはせん。何故なら彼らもまた時を重ねておるからじゃ。お前が、お前の考えるままに務めを果たしたいと思うのならば、まずは彼らを黙らせるだけの実績を積まんとならん。――お前の事じゃ、わかっているとは思うがな」
    「――はい、勿論」
     ベルナルドは答える。
     カヴァッリに言われずとも、分かりきったことであった。末席とはいえ、ベルナルドは幹部。役員の面々よりも、その序列は上。本来、彼より上位に在るのはアレッサンドロと、カヴァッリをはじめとする四人の先任幹部達のみなのだ。だが、その席次をたてにベルナルドが組織を意のままに動かせるかと言えば、答えは否だ。影からなり、あからさまになり、影響力を持った役員達がいたるところで嘴を差し挟んでは彼らの思うままに操ろうとする。
     船頭が多い船は迷走すると相場が決まっているもの。今回のGDへの対応のように、議論は行き詰まり無為に時が過ぎていく羽目になる。
     意思を、貫くためには力が要るのだ。
    「今回は、危急のケースです。私が発案者と思われていれば、例えこの場では納得したように見せても、いざと言う時に背かれてしまう可能性がありました。GDとの争いは、一歩間違えば戦争になりかねないもの。土壇場で怖気づいていただくわけには行きませんでしたので」
     早急な対応のためにも、断固とした抗戦を行うためにも、だ。
     先程の会議で、アレッサンドロとカヴァッリが発案者だと言ったあの案。実はそれは、ベルナルドが発案したものであった。今日の会議に先立って開かれた幹部会で彼が打ち出し、満場一致で採択された。けれど発案者がベルナルドだと役員達に明かせば、彼らはその内容の如何に関わらず何がしかの不満を探し出すだろう。それは上手くない。ベルナルドが実績を積むことも勿論大事ではあるが、この場合何よりも優先しなくてはならないのは迅速な行動。くだらない内部の諍いに、かまけている暇は無いのだ。選択すべきは、実利。だからベルナルドは自身が発案者であることを隠し、カヴァッリの案に賛同する振りをした。
     整然と答えたベルナルドの眼の底を、カヴァッリは静かに見つめた。老いて撓んだ瞼は一見眼光を和らげるが、その奥の瞳は射竦められるように鋭い。けれど受け止め揺らがぬベルナルドの様子に、カヴァッリは静かに頷いた。
    「わかった。お前がそう言うのならば、わしは構わん」
    「ありがとうございます」
     おそらく、この老幹部には何もかも知られているのだろう。ベルナルドの心が、未熟さに足掻いていることも、有るべきコーサ・ノストラ幹部の姿たらんともがいている事も。
     鷹揚に頷いた後、カヴァッリは一通の分厚い封書を差し出す。
    「こちらは?」
    「お前の資料を元に、いくつか部下に掘り下げさせてみた。此度の一件、わしらも個々には動くが、統括はお前に任される事になる。明日、サンドロから直接指令が下るじゃろう。その前に眼を通しておけ」
    「それは……! お気遣い、痛み入ります」
    「まあ、お前の部下もそろそろ同じ事を調べ上げていそうだがのう。……何度か、かち合いそうになったと報告を受けたからな。まあ、使える情報もあるじゃろうて」
     呵々と笑うカヴァッリの手から、封書を受け取りベルナルドは一礼する。
     その肩に手を置かれる。厚い手のひらの重みが任せられた仕事の重責を思わせて、ベルナルドの身を引き締めさせた。
     カヴァッリはいくつかの例を挙げて、ベルナルドでは調べきれぬであろう資料を伝えた。それは長く幹部位にあり、広い人脈を持つ彼だからこそ知りうる情報ばかり。そして、
    「――近隣の刑務所へ収監されている構成員にも、情報を集めさせた。檻の中では、煙草一本と引き換えに秘密を漏らす者も多くいるからのう」
    「ああ……」
     古狸の笑みを見せて、カヴァッリは頬を振るわせた。
     ベルナルドは、あの薄暗い檻の中の記憶を――蓋をして閉じ込めた忌まわしい部分には触れぬように注意深く探りながら、反芻する。なるほど、それは良い手だ。あの場所では、娑婆では道端に落ちていても見向きもしないような品々がまるで黄金のように丁重に取引される。そして檻に閉ざされた密閉空間は、時に自身が外界の目から隔絶されたかのような錯覚を抱かせる。王様の耳は驢馬の耳――閉鎖空間で漏らした言葉は、誰にも聞かれず鉄格子の奥の闇に消えていくのではないかと。
     ベルナルドではとても思いつかなかった手段だ。
     いや、というよりも――眼を逸らしたかった、場所だったのかもしれない。
     ざわり、沈めこんだ記憶の底で何かが蠢く。
     夜毎、ベルナルドを苛む過去の影の気配を感じて、ベルナルドははっと首を振った。こんなところで、思い出してはいけない。
     それを契機とするかのように、カヴァッリはもう一度ベルナルドの肩を叩いた。いつまでもここにいる気か? 言われ、ベルナルドは苦笑して踵を返した老幹部の後ろ姿を追う。
     並び立てば驚くほど背丈の違う影が二つ、ちっぽけな電球の明かりに照らされた廊下を歩く。
     点々と灯る頼りない明かりを数えながら、ベルナルドは今日、改めて思い知らされてしまった己の未熟さを噛み締めた。響く靴音を重ねる度に、ベルナルドの中でじりじりと神経がささくれ立つ。それを押さえ込むために、ぐ、と奥歯を噛み締めた。苛立っている。そして苛立つ自身こそがまた苛立ちの種となって不快感を煽る。
     隣を歩くカヴァッリに、せめてこんな顔は見られるまいと、ベルナルドは顔を逸らした――その時。

     視界の隅でふと金色がひらめいた。
     その色を知っている気がして、ベルナルドは振り返る。
     顔を向けた先にあったのは、電球の光を反射した美術品。黄金の裸婦像が、たおやかな肢体を晒していた。不躾に眼を凝らしたベルナルドの視線を、微笑んだまま受け止める黄金の美女。鮮やかな黄金色。美しいが、金髪美女ならばともかく全身金色ではベルナルドの好みからは少々外れる。
     そうだ、こんなところに、いるはずが無い。
     そう考えて、ベルナルドは自分がいったい何を探していたのだろうかと疑問に思った。
     煌く金色。
     鮮やかな光はやがて収束し――ひとりの少年の姿になる。
     無邪気に笑う、まだ幼さを残した顔をベルナルドは良く知っていた。そうだ、彼の名は――

    「――ジャンカルロ」

    「――っ!」
     口に、出していたかと思った。
     大仰なほど肩を跳ねさせたベルナルドに、その名を呼んだカヴァッリのほうが驚いた顔をする。
    「どうした、ベルナルド?」
    「い、いえ……なにも。それより、ジャンカルロが、どうかいたしましたか?」
    「聞いとらんかったな? まあよい。――檻の中に探りを入れる際に、あやつにも少し手伝わせたんじゃよ」
    「彼は、今、確か……」
    「サンドロの使いで、入所中じゃ。中々上手くやっているようでな、その資料の中にも、あやつが拾ってきた情報が多くある」
    「そう、なのですか……」
     思わず眼を見開き――次いで、不思議と喜ばしい感情がわきあがってきた。
     ジャンカルロ――それは一年ほど前にベルナルドが預かった少年の名だ。ジャンカルロ・ブルボン・デル・モンテという長い名があるけれど、本人すらも面倒がってジャンと名乗る。あるいはもうひとつの愛称――ラッキードッグと。幸運の女神の愛情を一身に受けた少年。ハリウッドスターも顔負けのブロンドと、それに負けないくらい鮮やかな笑顔の印象的な顔立ち。預かったと言っても、彼はベルナルドの部下ではない。六つはなれた年下の友人は、アレッサンドロやカヴァッリの言いつけでちょこちょこと働いている。
     目端の利く少年は、ひょんなことから類稀な脱獄の才能があることを見出され、今は檻の向こうへの郵便配達の真っ最中だ。任を果たしたとは伝え聞いていたが、それ以後はただの構成員の動向など伝わってくるはずも無いから後は脱獄か任期が明けるのを待つか、彼の気の向くままに出てくるのを待つほかは無い。こうして不意に様子を聞かされて、ベルナルドの胸に柔らかな感情が広がる。
    「ジャンは、真面目に仕事をしていましたか?」
    「ふん、態度は相変わらずじゃよ」
    「はは、そうですか……」
     眼を細めるベルナルドも、肩をすくめるカヴァッリも、その声音はどこか優しい。
    「ジャンがあちらへ潜り込んでから――もうすぐ三ヶ月ですか」
    「ふむ。今回は随分とのんびりしているようじゃな。あの怠け者めが」
    「あの場所で寛げるのも、ある種の才能ですね」
     出世欲や向上心とはあまり縁のない彼は、ベルナルドにはあまり想像のできないことだが監獄での生活をスローライフと楽しんでいるらしい。気が向いたときに、ひょっこり帰ってくる自由な配達人が、今回仕事に向かったのは確かベルナルドが幹部に就任してからそう日も経たない頃だ。
     幹部に就任することが決まり、一度食事を共にしたのが、最後にきちんと会った時だっただろうか。あの頃ベルナルドは今以上にばたついていて、就任式の後は確か一、二度すれ違った程度だった。
     不意に思い出した顔が、記憶の中で懐かしく笑っている。
     思わず唇の端が緩みかけたその時、カヴァッリもまた懐かしげに眦を下げる。
    「会いたがっていたそうだぞ」
    「――は?」
     唐突な言葉に、ベルナルドは首を傾げた。会いたがっていた?
     ――誰に?
     眼を丸くしたベルナルドを、「お前にだ」とカヴァッリが指差す。
    「お前の話になった時にな――ほれ、お前が幹部になってすぐに服役になったじゃろう。仕事ぶりを見てみたいとな、そう言っておったそうじゃ」
     ベルナルドは思わず足を止めた。
     何故だろうか、不意に、とてつもなくジャンが懐かしく感じられた。他愛ないふざけあいをしつつ、ベルナルドの名を呼ぶ声が耳に甦る。
    「そう、ですか」
     愁眉を寄せ、ベルナルドは窓の外に見える暗闇へ――方角も分からないけれど、この暗闇のどこか向こうにある監獄へと、視線を馳せる。だが勿論、ジャンの姿は見えなかった。彼に似た色を持つ太陽も、今は海の向こうに沈んでいる。
     探し物を見つけられずにさまよった瞳を前に戻し、ベルナルドは数歩先んじていたカヴァッリに追いつく。言葉を途切れさせたベルナルドを見上げたカヴァッリは、彼に倣うように口を閉ざした。
     再び響きだした二つの靴音。カツ、カツと硬質な音を数えながら、ベルナルドは脳裏にちらつく金色を想った。親しい友人の一人ではあるけれど、それだけのはずだ。なのに何故、胸の中でこんなにも大きな場所を占めるのだろうか。
     ジャンが檻の向こうへ行ってしまってから、もう三ヶ月だ。随分長いこと会っていないのだなと、なぜか心が軋む音がした。













         ◆


     その日の夜半――ベルナルドはひとり執務室で、カヴァッリから渡された資料に目を通していた。
     分厚い紙の束を、ようやく一通り頭に叩き入れて顔を上げ、猫背気味になっていた背筋を反らしながら、チェアの背もたれに身を預ける。上質の皮をなめして張ったその椅子は、重厚な構えの執務机と揃いのもの。三ヶ月前、幹部に昇格した時に誂えたばかりで、まだ新品の革独特の匂いが完全に抜けきっていない。普段は髪に匂いが移るのを気にしてあまり頭をつけないようにしているが、今日はもう、どうでもよくなっていた。
     カヴァッリが調べ上げた内容は、流石に筆頭幹部というべきものであった。深い着眼点、広い情報網、そして長年の知識と経験が作り上げたそれは、最早GDを丸裸にしているも同然。彼はベルナルドの作った資料を元にしたと言ってはいたが、この短期間でこれほど完璧なものが作れるはずが無い。おそらくは、ずっと前からGDの侵攻を予期し、情報を集めていたのだろう。
     勿論、多忙な老幹部が直々に情報収集などに当たるはずもないから、それを作ったのは彼の部下だ。けれどそれはベルナルドも同じ。有能な部下を効果的に使いこなすのも技量の内。
    「――我こそが完璧、なんて……自惚れていた訳ではないんだけれどね」
     ベルナルドの指は紙の束の端を、ぱらぱらとめくり玩ぶ。長い指先が弾いた紙面では、ベルナルドの自信の先を悠々と飛び越えていった文字たちが、すまし顔で並んでいた。
     どうにも、今日は疲れているのだろう。常ならばこんな気分にはなりはしない筈なのにと、ベルナルドは苦い笑みを浮かべた。
     眼を閉じ、己の内を探れば泥のように蓄積した疲労に手が届く。身体が澱のように重い。
     瞳は疲れ、瞼の奥で嫌な熱を持っている。だと言うのに、ベルナルドの眼はもう頭の中に移し終えたはずの文章を追うことを止められない。
     全てはタイミングなのだろう。今日は、丁度最悪だったのだ。
     役員達の長いばかりで意味のない茶番に付き合った。貴重な時間を愚かな老人達を見ることに費やして、罵声を耳に馴染ませた。苛立ち――苛立つ己にこそ怒りを湧かせ、怒りの原因をつぶさに解析し、けれど何の解決法もない事実に歯噛みした。
     苛立ちの原因は、突き詰めれば己の未熟にあるのだと、分かっているからこそのジレンマ。
     遠く先を行くカヴァッリたちを見ると、今自身が晒している姿が気になって仕方が無い。自分は彼らに近づけているのか。むしろあの醜悪な老人達の方にこそ、近い愚かな思い上がり者ではないのかと。
    「まったく……どうしようもない」
     終着点を知らない懊悩を振り払うかのように、ベルナルドはぐしゃりと髪を掻き混ぜて、ひとつ唸る。
     そして、立ち上がると執務机を離れ、窓際へと歩み寄った。
     煌々と明かりの灯された室内と、闇に沈んだ窓の向こう。暗闇へ続く硝子板は、まるで黒曜石の鏡のようにベルナルドの顔を映し出した。
     酷い顔をしている。
     人生に疲れ果てた人夫のような、荒んだ眼をしたこの若造はどこのチンピラだろうか。もしもベルナルドが、この男の写真を見せられて「こいつは何者だ?」と尋ねられても、間違っても「コーサ・ノストラ、CR:5の幹部だ」とは思わないだろう。使い捨ての下っ端がせいぜいだ。
     ベルナルドは、自分の荒んだ顔をしばし見つめ――いつも同じような顔をしていた頃の記憶が、じわり浮き上がってくるのを察知した。
     未だに、心に瑕を残す忌まわしい記憶。あれからずっと、避け続けている暗闇が硝子に映った自分の後ろに続いている。これもまた、ベルナルドを苛む懊悩の一因。もしかすると、全ての原因であるかもしれない。
     それは檻の中の出来事。
     ベルナルドはその場所で、プライドも尊厳も叩き折られ、木偶人形のように殴打の雨に晒された。腹を蹴られせりあがる胃液の味を、こめかみを踏み躙られ顔の皮膚が地に削られる痛みを、外傷を残すのではなく内臓を痛めつける為に意図して殴られた怪我のじくじくとした不快感を知った。自分の身一つ、満足に守れない無力さを知った。命よりも大切な誇りの刻まれた左腕さえ、薄汚れた靴に穢されてもどうすることもできない非力な己を思い知らされたのだ。
     あの屈辱が、ベルナルドを駆り立てる原動力になった。
     だが同時に、あの時知らしめられた自分の弱さが、不安と焦燥を煽る。
     見苦しい顔でベルナルドを見返していた鏡像に、瞬間的に苛立ちが募ってベルナルドはその顔に手のひらを被せて掻き消した。冷たい硝子の感触がじわりと皮膚に伝わる。冷気と共になにか別のものが染み入ってくるような錯覚。
     夜は、嫌いだ。
     忌々しい暗闇。重苦しい沈黙。横たわる冷たい闇は行く先を閉ざし、無益に不安を増幅させる。
     そして、その闇を照らす電気の明かりも嫌いだった。
     闇を恐れる自分を――、作り物の光源に縋らずにはいられない、不安に惑う弱さを突きつける。
     夜は嫌いだ。夜を厭う、自分が嫌いだった。
    「――は、……止めだ……」
     嗤うように、ベルナルドは息を吐く。
     ベルナルドはそれこそ夜の闇のような、一歩先も見えぬような真っ暗な迷宮に閉じ込められそうになる思考を、無理やり断ち切った。
     寝てしまおう。この酷い顔を明日部下達の前に晒すわけには行かない。全てが億劫で、身体が酷く重かった。沈殿した疲労と鬱屈を、掃き清められるものがあるとすれば深い睡夢だけだろう。時計に眼をやれば、とうに深夜といっていい時間帯だった。朝日が昇るまで、あと何時間も無い。夜はいけない。全ての思考が、暗闇に沈んでいってしまう。朝日が昇るのと同時に目覚めれば、きっと滑稽で愚かな自己嫌悪からひと時は逃れられるはずだ。忘れられるはずだ。
     スーツを脱ぎ、椅子の上へ放った。するりとタイを解き、脱ぎ捨てたスーツの上に。今夜は隣の仮眠室で眠るつもりだった。そう遠くない場所にいくつかの塒を持ってはいるが、そこへ戻ったとしても眠るだけなのだから同じことだろ う。
     もう、今日はお終いだ。店仕舞い、例え役員会からの呼び出しがあろうと、あの陰険な財務局が帳簿を見せろと迫って来ようと、本日の営業は終了しましたと追い返してやる。まあ尤も、こんな時間に連絡を取ってくる奴も、いはしないだろうが――と、思った正にその瞬間。

    Giriririririririririri―――――

    「――っ、!」
     ベルナルドの油断を嘲笑うかのようなタイミングで、電話のベルが高らかに鳴った。びくりと肩が跳ね上がる。夜の静寂を裂いて鳴り響く音。耳に馴染んだ音だったが、あまりにも突然で驚いた。
     こんな時間に――? 
     火急の件だろうか。ついさっき、何があろうと知ったことかと開き直っては見たものの、いざ入電があればそうも言っていられない自分の性格に苦笑する。
     いったいどんなトラブルだろうか。海の向こうの株式市場で何かが起きたか、いいやシマのシノギに何か問題が? こんな真夜中に事態が急変するような案件を、今自分は抱えていただろうか。それとも、まさかGDの襲撃? 想定するケースは最悪のものを準備しておくべきだ。特に、こんな気分の夜は。非常識な時間に鳴り響いた電話での報せが、ただの業務連絡などであるはずが無い。
     呼吸を整え、ベルナルドは受話器を持ち上げた。
    「――私だ」
     どれほど最低な報せを齎すものかと、試すような心持で応じた電話線の向こう。

    『ハーイ、ダーリン。あたしのことわかる?』

     聞こえてきた、声は――
    「――ジャ、ン?」
    『大正解。さっすがダーリン、愛のチカラねん、なぁんて――はは。久しぶり、ベルナルド。元気してた?』
     鉄条網とコンクリートの壁に覆われた別荘でリゾート中のはずの、ジャンカルロのものだった。
    『こんな時間に電話しちまって、悪ぃな。起きてて良かった……寝ちまってたらどうしようかと思ったぜ。これってやっぱ、流石はラッキードッグ……なのかな』
     声に含まれた笑い。電話の向こうで、彼はけらけらと機嫌よく肩を震わせているのだろう。眼を細めて笑う姿が網膜に浮かび、ベルナルドの口元が我知らず緩む。くるり、受話器を繋ぐコードを弄んだ指先。それが機嫌がよいときに現れる彼の癖なのだと言う事まで、ベルナルドは自分を知らなかった。
     疲れ果てていたはずの心身に、再び血が巡り始める。
     刑務所の中から、囚人が直接電話などできるはずもない。けれど、今ベルナルドと繋がっている電話の相手は紛れも無くジャン本人だ。それはいったいどういうことか? 迷うだろう――彼が、ジャンカルロでなければ。
     ラッキードッグ・ジャンカルロ。幸運の女神に微笑まれた、とても利巧な犬っころ。頭がよくて、複雑に組まれた鍵もまるでパズルゲームのようにひょいひょいと解いてしまう。どんなに出口の無い迷宮に見える場所でも、僅かに差し込んだ光が彼を誘うようにして出口を示しているとしか思えない。
     夜の静けさを裂く、朗らかな声でラッキードッグは言う。

     『――脱獄しちった。迎えに、来てくんねえ?』

     答えるよりも先に、脱ぎ捨てたばかりのスーツを羽織った。しゅるりと衣擦れの音が伝わったのだろう、あちら側で首を傾げる気配を感じながら、ベルナルドは時計を見る。午前三時。ジャンの収監されていた刑務所まで車を飛ばし、彼を拾って再びデイバンに戻ってくるまでの時間は――大丈夫だ、間に合う。間に合わなければどうやって時間の調整をつけようかと思っていたベルナルドは、行かないという選択肢が微塵も湧かない自分を不思議には思わない。忙しい身の上でわざわざ自身が出向かずとも部下に行かせるという手もあるのに、だ。
    「どこへなりとも、喜んで」
     あれほど嫌だった宵闇の中へ向かうことに僅かの躊躇いも覚えず、鉄の重石を乗せられたかのような身体の重さも忘れ。足取りも軽く、ベルナルドは飛び出した。

     ――太陽を、迎えに。



















    「――そんで、アレッサンドロ親父のオツカイは割りとさっさと片付いたんだけどさ、その後は刑期が明けるまでのんびり喰っちゃ寝ての快適ライフを送ろうとしたのに今度はカヴァッリの爺様からムショ内を探れとか言われてさあ。ったくヒラ構成員は辛いよなぁ。こき使われちまってさ」
    「それを、俺に向かって言うのかい?」
    「おっと失礼。そういや幹部オルトラーニ様は俺以上に毎日馬車馬生活でしたね」
    「はは、馬車馬は酷いな」
     色気も馬力もない地味なグレーのフォード。運転するたびにイタリア車の風を切るような加速が懐かしくなるものだが、今日に限ってはこの地味な車も快適だ。
     助手席で流れる景色に眼を輝かせながら、いつもよりも饒舌に唇を動かすジャンを横目に、ベルナルドは長く続く一本道を走っていた。
     一体どんな脱出経路を辿ってきたのか、薄汚れた囚人服は泥が付いてボロボロだ。所々擦り切れ、膝小僧が覗いていたりする。久しぶりに会った少年は、記憶の中の顔よりも、少しだけ大人びているようにベルナルドには見えた。そろそろ少年期も終わろうとしているのだから当たり前か。けれど星々や田舎の景色に眼を輝かせ、大きく開いた窓から顔を出して風を受けて遊ぶ様子は、記憶の中にある彼よりも幾分、はしゃいでいる気がする。長くコンクリートの牢獄に閉じ込められていたのだから、きっとその反動なのだろう。風貌が大人びた分、仕草の子供っぽさが際立つように感じられて、ベルナルドはそれを微笑ましく思う。
    「そういや、あんたは幹部になる前からスローライフなんて言葉とは無縁の生活だったな、ベルナルド。幹部になって更に大変そう。夜とかちゃんと寝てる? あー、悪かったな、こんな遅くに来て貰っちまってさ。ホントだったら、ちゃんと脱獄後の逃走経路とかも準備してから決行するはずだったんだけどよ……なんか思い立ったらすぐに出たくなっちまってさぁ……」
    「俺としては、いつでも出られるのにいつまでも出ないでいる気持ちのほうが解らないからね。飛び出したくなる気持ちはよく解るよ。気にしないで大丈夫。愛しいお前のためなら、いつでもどこへでも飛んでいくから、マイスイート」
    「ワオ、嬉しいわダーリン。愛の深さに感動しちゃいそう!」
     やはり、はしゃいでいる。首筋にかじりつき、チュッっと派手な音を立てて頬にキスをされて、ベルナルドは苦笑した。
     そして、ふと気付く。
    「ジャン、お前……」
    「あはは、悪ぃ、運転中に」
    「……それは構わないよハニー、そうじゃなくて……」
    「え、おわ……なんだよっ……?」
     離れていこうとした肩に手を回し、肩口に鼻を寄せる。自分から近づいてきたくせに、ジャンは狭まった距離にびくりと驚いた顔をした。
     どこまでもまっすぐ続く国道、しかも対向車など気配も見えない時間だからとハンドル操作も放り出して、ベルナルドはそわそわと落ち着かないジャンの様子を、少しだけ意地悪な笑みで楽しむ。間近に見える金髪は、泥をかぶって汚れた囚人服のみすぼらしさとは裏腹に埃を被っても美しく輝いていた。
     近すぎる距離のまま動かないベルナルドに、居心地の悪さを感じたジャンが尻の据わりを悪くしはじめる。なんだよ、と情けない声を出しながら引き剥がそうと手を上げたジャンに、ベルナルドは――

    「お前……すごく……――臭い」

    「――――そりゃ、ごめんあそばせ」
     溜めた挙句にふざけた事実を告げて、呆れた少年にスパンと頭を叩かれた。
     夜道を疾走するフォードが、二人分の笑い声に揺らされる。
    「ああもう、――ったく、あんたも変わんねえなぁ」
    「そりゃあ、ね。たった三ヶ月やそこらじゃ変わらないだろう」
    「三ヶ月とちょっと前からは大分変わったぜ? あの頃あんたは幹部様なんかじゃなかった」
    「――ああ。はは、そういえばそうだ」
     笑うと、ジャンは忘れてたのかよ、と呆れた声を上げた。忘れていたわけではなくて、ただもう随分と長い期間幹部という名を背負って歩いていたような気になっていたベルナルドはたった三ヶ月という短い時に驚いていた。
     ベルナルドはまだジャンの肩を抱いたままで、だからジャンはベルナルドの肩に顎を乗せた姿勢で、ぐでんと身体の力を抜いている。気安げな距離から、ジャンは喉を鳴らす猫のような仕草で笑い、振動をベルナルドに伝える。
    「三ヶ月、経ってみてさ。どう?」
    「どうって、何がだい?」
    「前に会った時、――三ヶ月前さ、言ってただろ。幹部になっても、別に付き合い方は変えないでいいってさ。CR:5でたった五人しかいない幹部様と、何百人といるヒラ構成員の下っ端も下っ端の俺とじゃ、全然違えだろ?」
     時間が経ってみたらやっぱり、あんまり馴れ馴れしくするなとか、思う様になったんじゃねえの?
     間近から、金の瞳が探るように見上げてくる。ベルナルドは、その金色をまるごと受け止めるようにして緑の瞳を丸く見開いた。
     馴れ馴れしくするなもなにも――今、ジャンの肩を抱いているのは誰だと思っている?
    「――ジャン。それは……今のこの体勢を、わかって言ってる?」
    「わかってる。――オーケィ、このままでいいってことねん。ダーリンのそゆとこ、あたしだーい好き」
    「光栄だ、ハニー」
     変わらぬ風に装っていても、ジャンは久しぶりに会うベルナルドに対して、多少は距離を測っていたところがあったらしい。今度こそ本当に屈託の無い表情を見せて、けらけらと笑った。
     道はまだまっすぐだ。だからベルナルドはジャンの肩を抱いたまま、笑いながら片手でハンドルを握っている。
    「懐かしいね、こういうの」
     思わず、唇から零れた言葉は接触点を辿りジャンに伝わる。
    「なんだよ、今日は随分と感傷的じゃねえの」
     珍しいな、とくすぐったそうに、ジャンは身を震わせた。
     珍しいかな? ベルナルドは首を傾げる。
     そろそろ離せよと、顔の間近で金の髪が身じろいだ。そういえばそうだな、とベルナルドは抱いていた肩を手放す。
     けれど、戯れの拘束が緩み離れていこうとした身体を、
    「どーかしたのけ?」
     無意識に抱きとめようと、腕が動いていた。
     きょとんとしたジャンの顔に、ベルナルドのほうが驚く。何故だろうか? 自問しても答えは出ない。ただ、しなだれかかったジャンの身体の重さが心地よかったと記憶が言う。
     確かに珍しい。自分の身体が、意識せずに動くなんてなかなか無い現象だ。そして、少しばかり困る。疑問符を浮かべて見上げてくるジャンへどう言い訳をしようか。結局は笑ってごまかし、ベルナルドは少年を引き止めた腕を引っ込める。
    「――いいや、なんでも」
    「変なヤツ」
     ふらりと伸びていきそうになる右腕を押し留めるようにしてハンドルを握り締め、ベルナルドはぐんとアクセルを踏み込んだ。悍馬の心臓を積んだイタリア車とは違い過ぎる、鈍重な加速。けれどもそれで十分。吹き込む風が髪を揺らし、爽快感が色々なものを吹き飛ばしていく気がする。
     デイバンへの道は、ひたすら直進。
     夜明け前の菫空の下、どこまでも伸びていくまっすぐな道路を、笑い声に包まれた一台の車が駆け抜けていった。


         ◆


    「――この辺りだったか?」
     住宅街の入り組んだ細い路地で、滑るように静かにタイヤが停まる。
     デイバンのダウンタウンの一画――ジャンが収監される以前に住んでいたアパートのあるあたりだ。この先は細い路地が入り組み、車が入れない。治安は良いとは言えないが、デイバン・ブロンクスと呼ばれる最下層地域と比べれば天と地。少なくとも、三ヶ月ほど家主が不在にしても、その部屋が残っている程度には理屈が通る。
    「そうそう。――って、なんで俺の家知ってんの?」
     座席の中で、ジャンは懐かしい街並みを眺めながら自宅にベルナルドを招いたことがあったか、と首を傾げている。
    「お前の部屋の家賃は、今は組織で肩代わりして支払っているからな。自分でヘマをして捕まった阿呆の面倒なんて見てられないが、お前の場合はアレッサンドロ親父のお使いだ。帰ってきたら家財一式なくなって路頭に迷ってしまいましたとするわけにはいかないからね。――それで、その決済手続きをしたのは俺なんだ。その時に住所を見たんだよ」
     三ヶ月前、月々の支払いを認める書類に記されていた住所を頼りに、ベルナルドはここへたどり着いた。
    「よく覚えてるな、そんなこと」
     呆れるほどの記憶力に、ジャンが眼を瞠る。日々、想像もつかない量の仕事を捌いているだろうに、どうやってそんな些細なことまで覚えていられるのか。ベルナルドは肩を竦めて事も無げに――
    「そりゃ、愛しいハニーの事だったらなんでも覚えているさ」
    「……なあ。ベルナルド、お前さぁ……」
    「――ごめん、今のナシで。流石に自分でも気持ち悪いと思った」
    「妙なこと言って、男前の無駄遣いすんなよな、ばぁか」
     六つも年下の少年に呆れられて、ベルナルドは頭を掻く。男前と言われたことは喜ぶべきかな――と茶化すと、ジャンは「言ってろ」と笑い、車を降りた。
    「――あー、この匂い、懐かしいわ」
     大きく背筋を伸ばし、深呼吸をする。久しぶりに帰り着いたホームの――デイバンの空気を思う様吸い込む。それほど澄んだ空気の街でもないが、そうしたい気持ちはベルナルドにも良く分かった。この街は故郷だ。どんな澄み切った風よりも、この街の空気が自分達には馴染んでいる。長身を折り曲げて自身も車を降りながら、ベルナルドはジャンの姿を微笑ましく見守った。
     金の髪が縁取った頬が、自然と寛いだように緩んでいく。懐かしげにあたりを一望した金の瞳がやがてベルナルドの元へ戻る。
    「マジで助かった。サンキュな、ベルナルド。今度なんかでお礼すっからさ!」
    「どういたしまして、気にしなくていいよ。……部屋の前までおくろう」
    「は? いいよ、ここで。女じゃねえんだからさ」
     後部座席からコートを取り出してドアを閉めたベルナルドを、ジャンは驚きを含んだ丸い目で見返した。面倒を見ろと引き合わされはしたが、それは過保護な親のように世話をしろという意味ではない。今までだってわざわざ送るだなんて言い出した事は無かったのにと、その目が物語っている。
     勿論、ベルナルドにもそんなつもりは有りはしない。少年の隣へ歩み寄りながら、ベルナルドは苦笑して、
    「その可愛いシマシマ模様の服が、あんまり魅力的なもんだから不安なのさ。――ここまで来て、脱獄囚だなんて気付かれたら嫌だろう? また監獄に逆戻りだ」
     とん、と囚人服の胸を叩き、コートを差し出した。
     彼の服装は、最新のファッションと言い張るには少々無理のありすぎるくたびれた囚人服。家までいくらも無いとしても、万が一誰かに見られたら即オシマイだ。警察を呼ばれて檻の中へ連れ戻されてしまう。思いつける言い訳なんて、精々が芸人のステージ衣装ですとかその程度。それにしても、空も白み始めた時間帯に、こんな路地裏を徘徊している言い訳にはなりはしない。
     そこでようやく自身の服装を思い出したらしいジャンは、そういやそうだった、と渡されたコートを受け取る。
     ウール生地のトレンチコートは、ジャンの姿を隠すのみならず防寒具としての本来の役割も果たしてくれるだろう。ひゅうと吹き抜けた風の冷たさに、脱獄早々風邪をひいては馬鹿みたいだからとベルナルドは思った。先の大戦で普及し、最近一気に流行りだしたトレンチコートは、軍時代の記憶をちりちりと疼かせながらも、時は流れたのだということを知らせてきて気に入っている。銃床を当てるために重ねられていた右胸の布地も、倒れた仲間を引きずる為の取っ手だった肩のエポレットも、気が付けばただの装飾具へと変化している。素直に袖を通した少年は、きっと数々の装飾が元来どのような意味を持っていたかも知らないのだろう。素直に袖を通すジャンの姿を見ながら、普段あまり意識しない六つの年の差にふと唇を緩め――けれど、すぐに首を傾げた。
    「ジャン?」
     どうかしたのかと眼を瞠る。ベルナルドの前では、ジャンがたった今着たばかりのトレンチコートを無言で脱ごうとしていた。
     しかもその顔は、先ほどまでの上機嫌とは一変――不満げに唇をすぼめている。あまりにも急すぎる変化に、ベルナルドは少年の機嫌を損ねた要因が思い浮かばず戸惑った。
    「ジャン? どうした?」
    「やっぱ、いい」
    「なんで?」
    「なんでも!」
    「――おいおい、ジャン……?」
     ぐいとコートを突き返して、ジャンはそのまますたすたと歩き始めてしまう。遠ざかっていく後ろ姿を、ベルナルドは慌てて追いかけた。早足で歩いていくジャンだが、そもそものコンパスが違う。追い付くのにはいくらもかからなかった。
     けれど、そうするとジャンは一層表情を険しくした。
     これはいったい、どういう事か。ジャンは何故怒っているのだろうか。――いや、この表情は怒っているというよりもむしろ……拗ねて、いるような。
    「……ムカつく」
    「どうしたんだ、ジャン? おかしいぞ、お前」
     なんだって言うんだ、いったい――まるで分からずに困り果てるベルナルドに、ジャンは「お前にはわからねえよ」と答えながら顔を背けた。確かにわからない。分からないが、言ってくれなくては分かるはずもない。少なくとも、ただコートを差し出しただけで嫌われなくてはならない覚えは無かった。
     俺は何か悪いことをしたかい?
     戸惑いに少しだけしょげた調子のベルナルドの声を聞いて、ジャンは今度はばつが悪そうに視線を泳がせる。そのまま振り返らずに数歩進むが、背中のむず痒さに耐えられなくなったような顔をしてくるりと反転。なんにもしてねえよ! と言い切って、また反転。逃げるように先に進んでしまう。ジャン、と名を呼び、ベルナルドは再び囚人服姿を追いかけた。周囲に人の気配が無いことに胸を撫でおろしながら、なるべく彼の姿が周囲に見えなくなるようにと、通りのほうからジャンの姿を遮る壁になるような位置につく。電燈のライトが作った長身の男の影にすぽりと覆われて、ジャンは観念したように歩調を緩めた。
     天を仰いだジャンと、視線が合う。
     頭ひとつ分違う身長差を睨んだジャンの引き結ばれた口元から、深々と思い溜息がひとつ、零れ落ちた。
    「ちくしょー、俺もう成長期終わりなのかなー」
    「――は?」
     まるで予想の外の嘆きに、思わず間抜けな声が出た。けれどジャンは大真面目に、ベルナルドの手にあるコートを睨みつけ、
    「……長いんだよ、あんたのコート! 着ると、足首まで隠れちまって恰好悪ぃだろ!」
     叫ばれた不満は――確かに、この年頃の少年にとっては大問題。ジャンは別に、殊更小柄と言うわけではないけれど、身近により体格のいい大人がいれば自分もそれに追い付きたいと考えるのも当然だ。縦に伸びる方面では苦労をしたことは無いが、もう少し肉をつけたいと苦労した経験のあるベルナルドにも気持ちはわかる。
     ――わかる、のだが。
    「――……ふっ」
    「わーらーうーなー!」
     あまりにも可愛らしい理由に、思わず噴き出さずにはいられなかった。
     ――身長、か。そういえば以前、何を喰えばそんなにでかくなるんだと呆れ半分に問いかけられたこともあった。特に気にした事も無かったなと何気なく答えたが――あの後しばらく、ジャンと一緒に食事に行ったときに彼が注文するのは「ベルナルドと同じもの」だった。糸が繋がった気分だ。
     頭の回転が速く、切り返しも上手いこの友人と話しているとき、年齢の差を意識することは少ない。だからこそ、こうして十代の少年らしい子供っぽさを見せられて、堰を切った笑いは止まれそうになかった。
    「笑うな」
    「ごめん――っ、ははっ」
    「笑うなって!」
    「ごめん、ほんとごめん――っく、はは、……あはははは!」
    「っだぁあ、もういい! つーか人が早足で歩いてんのに普通のペースで追いつくなっての! お前なんてドアの縁に頭ぶつけてハゲちまえばーか!」
     ぱかんと小気味いい音を立てて頭を叩かれる。笑うなと言われる度に笑いが溢れて余計に怒られた。それでもツボに入ってしまったのか、ハゲろ、ハゲちまえと髪を引っ張られる痛みすらおかしい。眦に涙すら浮かべて、ベルナルドはひぃひぃと喉を鳴らす。
     本当にハゲたらどうしてくれるんだいと返しながら、ようやく収まってきた笑いに深呼吸をして呼吸を整え。
    「はは、大丈夫……ハニーはまだまだ成長期だよ」
     肩を叩いて励ましながら、ベルナルドはこんなに笑ったのは久しぶりだとここ最近の自分を思い返していた。笑いすぎのあまり、腹どころか頬の筋肉まで痛い。それは、今の大爆笑もあるだろうが――久しく使っていなかった表情筋を動かしたせいもあるかもしれない。
     さっきから、ずっと笑い通しだ。
     些細なことでも頬が緩んで、おかしがる。それを自然と感じているが、ほんの少し前まではそんな事は無かったはずだった。
     笑いすぎてずれた眼鏡を、ベルナルドはくい、と直す。その行動に、覚えがあった。年季の入った骨董品のような、埃臭い匂いの充満した広間での記憶。半日も経っていないというのに、いつの間にか随分と遠ざかっていたあの重苦しさ。
     役員会の老人達を相手に、徒労とすら言える茶番劇を繰り広げた。
     彼らの愚かさに呆れながらも、その愚か者をどうにもできない自分の無力さに、弱さに歯噛みした。
     嫌悪。
     侮蔑。
     屈辱。
     焦燥。
     不安。
     混じり合い、複雑に絡んで蛇のようにとぐろを巻いた、ありとあらゆる負の感情。手に脚に絡み付いて動きを封じられ、胸を這い回り呼吸を締め付けられた。口を開けば充満した瘴気が押し入ってきそうで、棘のある言葉を吐く以外はいつも唇を引き結んでいた。
     こんな風に、大口を開けて笑ったのなんていったいどれだけぶりだろうか。
     声を上げて、腹の中の空気がなくなるまで笑い、魚のように酸素を求めて息継ぎをした。息継ぎが出来た。ベルナルドの周囲に淀んでいたはずの濁った靄は、気が付けば跡形もなく姿を消している。冷たく澄んだ夜明け前の風は爽やかで、呼吸がし易い。そして、デイバンを覆った黒い帳も、もうすぐ太陽が昇るのだとわかっていれば恐ろしくは無かった。
     淀んだ空気が吹き払われたのは、いったい、いつから?
     ――答えは簡単、あの電話。
     脱獄の一報を告げる、ラッキードッグからの入電。幸運の女神に愛された少年は、もしかしたらもう一人、幸福を司る女神にも愛されているのかもしれなかった。
    「――だから、こんなにイイ気分になれるのかね」
    「は、何? なんか言った?」
    「いいや、なんでもないよ」
     思わず漏れた言葉は、気恥ずかしくて本人になど言えるはずも無い。
     首を振って誤魔化し、ベルナルドは隣の少年を見下ろした。ジャンは変な奴、と唇を突き出したが、ベルナルドの笑い声が途切れたのを合図に再び歩き出した。少年よりもゆったりとした歩調で、けれど広い歩幅で、ベルナルドは並び歩く。
     ただ傍にいてくれるだけで、呼吸が楽になるような相手に出会えたことは、ベルナルドの大きな幸運だったと思う。そんな相手にはそうそう出会えはしない。もっと出会ったばかりの頃、同年代の友人達よりも余程話の合うこの少年を、弟分に欲しいと申し出たことすらあった。諸事情あってその希望は容れられることはなかったが、一年前、彼と引き合わせてくれた、アレッサンドロとカヴァッリに感謝を捧げたい。
     ジャンの靴が地面を踏みしめるたびに、金の髪がひよひよと揺れる。その金色に、触れてみたいと手が疼いた。ベルナルドは、湧き上がった妙な衝動に苦笑する。その気配に気付いたジャンが振り返り首を傾げたのに、またもなんでもないよ、と答える。
     そしてただ柔らかな眼差しで、
    「お前の金髪は、いつ見ても見事だなと思って」
     まるで太陽みたいだと、微笑んで告げた。同じ太陽の色をした眼が二つ揃って丸く見開かれ、中央に緑が映る。その色が自分なのだと気付いたベルナルドは面映そうに微笑み、ジャンは隣の男が考えていることの全てはわからずとも口にした台詞の恥ずかしさだけで十分だと、彼の腹に肘の一撃を叩き込んだ。
     その時。
     
    ――ガシャン!
     
    「え?」
     肘打ちではけして出ない破裂音。戯れの攻撃でベルナルドのほうへ身体を寄せたジャンが直前までいた空間を、横切っていったものがあった。
     唐突に弾けた音に、もしや襲撃かとベルナルドは即座に懐に手をやる。銃を持っていないジャンもまた、状況把握をと周囲に視線を走らせた。けれど二人が発見したものは、壁にぶつかって砕けて落ちた酒瓶の残骸がひとつ。そして、爽やかな空気をぶち壊すには十分な酒臭い吐息を吐きちらす、二人の酔漢。一人の男は手に持ったエールの瓶に口をつけて喉を鳴らし、もう一人は手ぶら。手ぶらの男の姿勢は、明らかに何かを投げつけた直後のものだった。 
    「野郎同士でナニいちゃこいてやがんだ、てめーら。気色悪ぃな」
    「ホモか? お前らホモ? うええ、キッモ」
     どこからどうみても、他の何にも見えないほど完璧なチンピラだった。盛大に皺を寄せた安物の吊るしのスーツにむさくるしい体躯を包んだ、腕力だけなら一人前という見本のような姿。足取りすらも覚束無いほど泥酔した男達は、気色が悪いと騒ぎ立てながらも何がおかしいのか壊れたようにげらげらと笑っていた。
     反射的に動いた身体が、ジャンを庇うように背後へ押しやったのはその服装を隠すためだ。脳に酒が回った男達は幸いなことにジャンの囚人服には気付いていないようだったが、もしも気付かれれば厄介なことになる。ジャンもそれに気付いて、素直にベルナルドの背に隠れた。やっぱりコートを借りておけばよかったぜとぽつり零した声が聞こえてきたが、まあ仕方あるまい。
     ベルナルドがジャンを庇ったのは、単に彼の姿を隠すためだったのだが、男たちの目にはそうは映らなかったらしい。
    「――ハッ、なんだテメェ、一丁前にオンナ守ってるつもりか? ひょろっちいそのなりで、何ができるっつーんだ、アァ?」
     ベルナルドが格好をつけたように見えたのだろう。男達は歯をむいて威嚇を始める。
     ひとたび眼光を鋭くすれば、大の男でも背筋が震えるような冷徹な表情を持つベルナルドも、他愛なく笑い転げている時には年相応の青年の顔をしている。上背はあるが、筋骨隆々とした大男と言うシルエットではない。ジャンもまたごく普通の少年で、どちらも一見しただけではCR:5の者だとは――生粋のコーサ・ノストラなのだとはわかりはしない。
     男達はただの年若い一般人を――二人を同性愛者と勘違いしているのだから、一般人の中でもさらになよなよしい、情けないオカマをでもからかっているつもりなのだろう。下卑た声を上げながら、ふらふらと近づいてくる。
     ジャンはベルナルドの背から、ひょいと顔を覗かせた。
    「ダーリンのお知り合いかしら?」
    「まさか。顔見知りになるほど動物園のゴリラの檻に通いつめたおぼえはないよ」
    「デスヨネ。つか、飼育員さんは何をしてるのかしら。ゴリラさんが逃げ出してるぜ、しかも二匹も。ちゃんと檻は閉めとかないとだめだよなぁ」
     肩を竦め、嘆息。
     男たちが眉根を寄せる。明らかに腕力で劣るカタギに絡んで、脅して金でも巻き上げようとしていたのだろうが、ベルナルドたちが怯む気配がないことに機嫌を損ねたようだ。どうするのかと見ている二人の前で男達は、何故か唐突に袖を捲り上げる。あらわになった毛むくじゃらの二の腕は、見ていて楽しいものではないが――金と緑の視線は揃って、その腕に引き寄せられた。
     正確には、その腕に刻まれた文字に。
    「ストロンツォ――飼育員は俺たちのようだ」
     見慣れた文字。そして出来れば、この場面ではあまり見たくなかった――《CR:5》の刺青、ベルナルドが思わず罵声を零す。
    「――んだ、てめえら。これがなんだか、わからねえのか?」
     露わにした腕を見せびらかしてきた男が、想像と異なる二人の反応に焦れて声を荒げる。
     CR:5の名は、このデイバンでは広く周知されていて、エレメンタリースクールに通うような年の子供でも知っている。街を支配するマフィアの名だ。CR:5は正確にはコーサ・ノストラと言うが、一般人から見ればようするにヤクザモノに変わりはない。その構成員と揉めるのを恐れる市民も、勿論存在する。彼らは自分達が裏社会の人間なのだと見せ付けることで、ベルナルドたちの恐怖を煽ろうとしたのだろう。
     けれど、ベルナルドもジャンも、同じCR:5の構成員だ。しかもベルナルドに至ってはそのトップ5に数えられる幹部である。恐れなくてはならない理由が存在しない。
     そもそも、組織の名を刻んだ刺青は、こんなくだらないことに使うためのものではない。ファミーリアの証――オメルタに忠誠を誓った同胞であると、周囲に宣誓するためのものだというのに。
     走る、不快感。
     組織に絶対の忠誠を誓うベルナルドにとって、この刺青は特別なものだ。
    「お前たちこそ、それがなんだか、わかっているのか?」
    「なんだと――?」
    「どこの隊の下っ端だか知らんが――その刺青は、お前たち如きが穢していいものじゃない。くだらない私利私欲で、組織の名に泥を塗るな」
    「――っ、なっ!」
     こんな男たちが、CR:5の名を徒に穢している――そう思うだけでベルナルドの声は自然と低く、重く響くようになる。冷厳と。それは幾人もの屈強な男たちを従えて操ることを日常とする、幹部としての覇気だ。
     後ろにいたジャンが、驚きに目を丸くする。彼もまた、この研ぎ澄まされた覇気を間近で感じるのは初めてだった。思わず、ベルナルドの顔を覗き込む。
     整った顔立ちと痩身から、荒事になど縁のない一般人だと侮っていた酔漢たちに動揺が走る。腰が引けそうになり――けれど、一見は優男にしか見えないベルナルドに気圧されるのは、彼らなりのプライドが許さないのだろう。
     犬でさえ、喧嘩を売ってよい相手かどうか程度は本能で嗅ぎ分けるものだと言うのに。
     呆れたジャンが、ベルナルドのスーツの裾を引いて、彼をつつく。
    「早くもっと偉くなって、ゴリラは構成員にナレマセンってルール作ってくれよ、ベルナルド」
    「――善処しよう」
     ベルナルドの眼から、険が和らぐ。振り返ったのはいつもジャンが見知っている、頼れる年上の友人の表情だった。
     男たちの姿を確認したが、銃器の類を隠し持っている風はない。体つきは大きく、またいかめしい顔立ちをしてはいたが、よく見れば不摂生の所為か、筋肉は弛んでいる。ほとんどアルコール中毒と言っても良い生活をしているのかもしれない。酒の所為で覚束無い足元。ベルナルドは荒事を得意とする訳ではないが、この程度の男二人、あしらえないほど繊弱ではない。
     表情の変化は、もはや気にするまでもないというベルナルドの判断だったが、男たちにはそれがわからない。思わず圧倒されてしまうような鋭利な覇気が姿を隠したことを、酒で鈍った脳は危機が去ったのだと判断する。
     にじり寄った男たち。その内の一人が、ようやくベルナルドの顔をまじまじと見つめ、はたと気付いた。
    「てめぇ――ベルナルド・オルトラーニか?」
     末端の構成員でも、幹部の顔と名前くらいは知っている。特に異例の若さで幹部入りを果たしはベルナルドの姿は、多くの者達が好奇心をくすぐられるせいでより広範囲に広まっている。
     男たちも、どこかでベルナルドの写真でも見たことがあったのだろう。
    「オルトラーニ? 誰かと思ったらてめえ、新参幹部のオルトラーニ様か――ジジイ共にケツの穴貸して幹部になったって有名なあの!」
    「ハッ、ジジイ共の萎びたチンコ咥えんのに飽きて、今度は若い男かよ。さすが、顔とケツだけで幹部にまで上り詰めたお方はちげえなぁ、オイ」
     ベルナルドは、不快感に眉を顰めた。
     そしてジャンは、そんな噂があるのかと驚きに目を丸くする。加えて、ベルナルドを幹部と知っても尚、尻尾を巻いて逃げ出そうとしない男たちの無謀さに――愚かさに、感嘆すら覚えた。
     返事をするのも馬鹿らしいと呆れている二人が、圧されていると勘違いした男は調子付いてぐいと酒臭い息を寄せて顔を近づけ――
    「アア、もしかしてそっちの金髪はあんたの弟子かよ? ジジイ共の転がし方でも教えてんのか――……ガッ!」
     踏み潰された蛙のような声を上げて、大きく仰け反った。
     その鼻面に、ベルナルドの拳がめり込んでいる。
    「っ、が、ふっ、てめ――ぎぁ!」
     体勢を立て直さぬ内に、もう一撃。今度は下方から抉るように顎を捉えた拳が男の脳を揺らす。鼻血を噴き出しながらよろめく男を、汚物でも見るかのように避け、ベルナルドはその腹を蹴る。面白いように吹っ飛んだ男は、路肩に積まれていたごみの山に頭から突っ込んで動かなくなった。
    「なにしやがる!」
     あまりにも見事にやられた仲間の姿に、もう一人の男がいきり立った。ごみの山に埋もれた男のほうを向いているベルナルドに向かって、腕力に任せて殴りかかってきたところを、
    「――ほいよ」
     ひょいと何気なく、ジャンが足払いをかけた。
     ひあ、と哀れっぽい悲鳴を上げてバランスを崩した男を、倒れきる前にまるでボールを蹴り上げるようにしてベルナルドの長い脚が見舞う。サッカーボールの気持ちになれるような蹴りを食らった男も、眼から星を飛ばしながら相棒の埋もれるごみ溜めへと突っ込んだ。
    「上位者へは絶対服従。――お前達は、刺青の価値だけでなく、オメルタの掟そのものを理解していないらしいな」
     ベルナルドを幹部と知って、尚絡んでくるとはつまりそういうことだ。
     末端に至れば質が落ちるのも仕方が無いものではあるが、あまりにも酷い見本を見せられてうんざりとしてしまった。
     せっかくいい気分だった――それを自覚して微笑んだばかりだったと言うのに。ファンクーロ、吐き棄てながら、起き上がりかけた酔漢の頭をガンと踏みつける。アスファルトに額を打ち付けて今度こそぴくりとも動かなくなった男。
     酔っていたとはいえ、自身の言動の尻拭いはしなくてはならない。あとで部下に拾わせようと思った。達成感もなくただ不快さばかりが残る勝利は、嬉しくもなんともなかった。
    「ダーリンてば、意外と武闘派なのねん」
     報酬のない勝利に嘆息するベルナルドの肩を、慰めるようにジャンが叩く。
    「ありがとうハニー。これでも軍隊経験者だからね」
    「その割には戦い方が思い切り力任せだったけどな」
    「脚が長すぎてね。つい出てしまうから、俺も困っているんだ」
    「うーわ、自慢かよ――ったく」
     いつもどおりの軽口に、またも気分が浮上していく。この少年は本当に、呼吸をするように簡単にベルナルドを掬い上げる。一時は壊れてしまったかと思った穏やかな空気が、再び戻っていたことを喜ばずにはいられなかった。
    「靴が、汚れてしまったな」
     意識すると途端気恥ずかしくなった。くすぐったい感情が、頬に赤い色として表れそうになるのを堪えようと、わざと視線を落とす。ピカピカに磨き上げられた靴の爪先に付いた汚れを落とそうと、数度地面を蹴った。最後に踏みつけんのは俺がやったほうが良かったかな、とジャンが笑う。彼の靴は、汚れを気にするのも馬鹿らしいくらいに元からボロボロだった。
    「ちょっとくらい、ヨゴレタ道を歩いてきた痕がある男のほうが、オンナは惚れちまうもんなんだって一○六番房のジイさんが言ってたぜ」
    「――誰だいそれは。一度会って話をしてみたい御仁だね」
    「春になったら出てくるんじゃねーかな。その辺で刑期が切れるから。言うことはかっけーけど奥さんから家追い出されて喰うに困ってマーケットでハム強盗したお茶目なジイさん」
    「――……」
     ハム強盗の素人と、玄人ヤクザが同じ場所に収監されるのだから、刑務所というのもおかしなところだ。なんとも言いがたい表情で押し黙ったベルナルドを見て、ジャンはにやけた。
     先端に僅かな汚れをつけたぴかぴかの革靴と、擦り切れて泥だらけな囚人靴が並んで進む。二つの靴が歩む歩幅はそれぞれ違ったけれど、互いに歩調を合わせることに馴れた二人はごく自然に隣り合い、石畳を踏んだ。
     ハム強盗の老人のように、ジャンが刑務所の中で出会った人々の話。
     彼がいない間、デイバンで起きた様々な出来事。
     緩く、両端を持ち上げる形で弧を描いた唇から、ぽつりぽつりと他愛のない話が落ちる。耳を傾け、笑い、今度は相手を笑わせようと口を開く。楽しい会話の応酬に、道のりは短すぎるほどだった。
     会話の最中、僅かにジャンの応えが遅れる。何かと思って見下ろせば、彼は金の眼を伏せた睫毛に隠して視線を彷徨わせていた。タイミングを計るかのように、会話の途切れ目で開いては閉じる唇。気配ばかりでこちらの様子を伺って、視線を向けようとしない少年が何かを言いたがっているのだと、すぐにわかった。そしてその内容も、大概予想は付く。ジャンが問いかけるのをためらうような事柄なんて、二人の間にはそうそうありはしない。
    「なあ、ベルナルド。あの、さ……」
     だからベルナルドは、ジャンがそれを切り出すのを静かに待った。そして、呼びかけるだけで躊躇ってしまった先を促す。
    「――あいつらが言ってた、噂の事かい? まあ、いつの時代にも下の話が大好きな下種っていうのはいるものだよ」
     不穏な空気を呼び戻してしまうかもしれないと躊躇していたジャンは、あっさりと笑い飛ばしたベルナルドの声に肩透かしを食らったような顔をした。気にする必要はないよ、それがお前の声ならば。余人の言葉であれば思わず身体が身構えてしまう、忌まわしい記憶に通じる言葉も、お前の声だったなら、閉じ込めた恐怖はぴくりとも反応しようとしないのだから。
     ジャンの声は歪まない。だから大丈夫。
    「いちいち気にするのも馬鹿らしいほどの、くだらない噂話だよ。あんなものは、火消しをしてもあまり効果がないからね。適当に放っておくさ――どうせ、その内誰も信じなくなる」
    「――エクセレンテ。さすが、史上最年少で幹部に成り上がった男の言うことは違うね」
     ――言い放てるのは、お前がここにいるからかもしれないんだけどね。
     応答は唇から零す前に飲み込んだ。ジャンからの電話が来る前だったら、こんな風に笑って答えられたかどうかわからないと言うことは、素直に称賛の眼差しを送ってくれる少年には隠すことにする。
     少しだけずるをした年上の男を、ジャンは見上げる。悪戯っぽくきらめく金色の瞳は、もしかしたらすべて見透かしているのかもしれないけれど。それでもまあ構わないと思うベルナルドをよそに、ジャンは両腕を頭上で組んで大きく伸びをした。んぅ、と気持ち良さげな声をあげたあと、唐突に、酒って怖いな――と零した。
    「どうした、ジャン。魔法の水の恐ろしさに尻込みするには、ちょっとばかり若すぎるぞ」
    「いーや、怖い。だって酔っ払ってあんたに喧嘩売ったりとか、俺なら絶対にしたくねえモン」
     怖い怖い、と怯えた様子を作り、ジャンはふざけて自分の肩を抱きしめる。
    「あとでどんなねちっこいオシオキされるかと思うと、恐ろしすぎるぜ」
    「肝心なのは呑み方と――元々の資質の問題だと思うがね。だが、そうだな……相手がお前なら、丁寧に幹部様への正しい挨拶の仕方を教え込んでやるよ。手取り足取り、――じっくりとね」
    「うっわ、悪人面! やだねぇ……お前、年取ったらすっげえねちっこいエロオヤジになりそう」
    「おや、嫌われてしまうかな? それは悲しいね」
    「――……ぬかせ、ばーか」
     夜道を歩きながら、戯れる。ベルナルドはジャンの様子を伺った。この少年は、あの男たちとは違う、とても気持ちの良い酒を飲める性質だ。気にする必要なんてないと思うし、本人も気にはしていないのではないかと思うのに。
     唐突にどうしたのだろうかと不思議に思ったその時。
    「見る目のねえヤツは可哀想だね」
     ぽんと、ジャンが言った。
     ベルナルドは確かに、いかにも、というマフィアの顔をしてはいない。だが紛れも無く、彼はコーサ・ノストラ――CR:5の一員であり、幹部だ。路地裏をうろつく野良犬風情が、吠え掛かって無事で済む相手ではないのだ。
     それを見極められなかった、可哀想なチンピラども。ごみ溜めの山の中で目を回している彼らが、次に迎えるのはもしかしたら最後の目覚めかもしれない。ベルナルドの正体に、気付いたところで尻尾を巻いて縮こまっていればよかったのに。自業自得の未来に同情はしないけれど、その視力の悪さには哀れみを禁じえない。
     大人しく腹を見せていればよかったものを、と。
     訥々とジャンは言った。それは先程の酔漢に向けられた言葉だったが、彼らだけを想った言葉ではないように思えた。
     ベルナルドの脳裏を過ぎるのは、役員会の老人達や、くだらない噂話に花を咲かせて下品な笑い声を立てる馬鹿共。ベルナルドが抱えていた葛藤など、ジャンは知らないはずなのに。
     気負いなく、あっさりと言われる言葉が心臓に染み入っていく気がした。
    「まあ、あんな連中は逆にアンタのほうで必要としてないから、逆に楽なのか。使える奴は、アンタが幹部になる前から集まって来てたもんな。お前が、将来どんだけでっかくなるか、見抜けない馬鹿はいらねえってことか。ああ、なんだ。ちょうどいいじゃん」
     にやりと笑って見上げてくる、ジャンの視線に血が上る。
     笑い、揺れる肩に合わせて金の髪も踊っていた。埃をかぶった金髪。けれど、磨き抜かれた美術品の黄金よりも鮮やかな光を放っている。たった一晩で、なんど思い知らされるのだろう――彼は、太陽だと。彼の一挙手一投足が、まるで夜明けのようだと。ジャンカルロという太陽が、檻の向こうに沈んでいた間――その間に折り重なった夜の帳を、一枚ずつ引き剥がされていく気がした。彼が笑うたびに、世界に光が増す。もうまぶしすぎて、目が眩んでしまいそうなほどに。
     応える言葉も見つからず、ただ細めた眼差しで見つめたベルナルドに、恥ずかしいこと言っちまったなと頬に朱を掃いた少年は足を速める。
     一歩遅れてついていく形になったベルナルドは、跳ねるように先を行く太陽を追いかける。

    「俺は、でっかくなると思うかい?」

     今はまだ、お前に救われてばかりで、自分に自身を持つことすらも満足に出来ない弱い男だけど。
     お前が認めてくれるような、コーサ・ノストラの男に――なれるだろうか。
     道端に散らばっていた空き瓶をひょいと飛び越えていたジャンの背中へ、問いかけを投げつけるベルナルド。そしてきょとんと振り向き、不思議そうに首をかしげたジャンに、

    「ならねえつもりなのけ?」

     逆に、問いかけを返された。
     心底不思議そうな声音は、ベルナルドが望めば全ては叶うのだと――叶えるのだろうと疑いも無く信じているようで。
     ――笑いが、零れた。
     唐突に笑い出したベルナルドに、ジャンはしばし面食らったかのように目を丸くしていたが、やがて何かを感じ取ったのかはたと手を打つ。
    「じゃあ、賭けでもするか!」
    「――賭け?」
    「おう。あんたが、自分で満足できる〝でっかい〟幹部になれるかどうかさ。――俺、〝なれる〟に賭けるから! 景品は超豪華なディナーのフルコースがいいわん」
     弾んだ声で提案をした少年は、自分が賭けた目が外れた時の事にはなにひとつ言及せずに、中空に思い浮かべた豪華な晩餐に喉を鳴らす。ベルナルドは少年の代わりにもうひとつの目は、と言おうとして、その愚かさに苦笑を零した。

     賭けに外れたときのことなど、彼は考える必要は無いのだ。
     何故なら彼はラッキードッグなのだから。
     ラッキードッグ・ジャンカルロ。
     幸運の女神に、愛されすぎた少年。
     ――万が一にも、彼が賭ける目を読み違えることは、無い。

    「幹部サマに奢られる超豪華ディナーってどんなだろーな! うっわ、すっげー楽しみ! 期待してるぜベルナルドぉ!」
    「おいおい、ジャン。俺が一流の幹部になれたら、俺がお前にメシを奢るのか? 頑張って走るお馬さんにご褒美のニンジンはないのかい?」
    「あらやだダーリンったら。アタシと一緒のディナーはご褒美にはならないってゆーの?」
    「――はは、とんでもない。失敬、世界で一番のビッグな景品だ」
     戯れのはずのその言葉――それが、けして戯れではないと、ジャンに伝わっていなければいい。胸から溢れる思いの丈は、赤裸々に知られてしまうには少々恥ずかしい。
     最高の景品を、ベルナルドはもう貰った気分だった。
     もう二度と、行く先を不安に思う必要は無い。だって、ラッキードッグが賭けをしたのだ。彼がコインを置いたその未来が、やってくることが決まっている。
     それ以上のものが、あるだろうか。

    「ああでも、ちょい得した気分。――出て早々、なぁ」
    「うん? ――何がだい?」
     するりと追いついたベルナルドを、ジャンが見上げる。
     彼は恥ずかしそうにしばし躊躇った後、こっそりと、秘密を打ち明けるように、
    「幹部の顔したアンタが見られたからさ。――ほら、俺、アンタが幹部になった後ろくに会えない内にムショ入っちまっただろ? CR:5幹部、ベルナルド・オルトラーニっつーのをあんま見たことなかったから」
     ベルナルドの、耳元で囁く。
    「こないだ、カヴァッリ爺様んトコの奴がムショまでGDとか言う連中の様子を聞きに来てさ。そん時、アンタの話が出て――あれだろ? 今度のGDとかいう組織との件、アンタが指揮を取るんだろ。それ聞かされてさ。最前線で野郎共にばりばり命令飛ばすんだろーなって思ったら、なんかそれ見たくなっちまって」
    「――ジャン……」
     なんだ、これは――?
     「気が付いたら、脱獄してた」
     どく、と脈打つ心臓に、ベルナルドは混乱する。
     ジャンは何を言っている?
     俺は何を思っている?
     お前の姿が見たくて出てきただなんて、太陽に言われてしまったらどうすればいいのか。
    「いやまさか、あそこまで衝動的に決行しちまうとは思ってなかったんだけどさ……」
     顔が熱い。全身の血が音を立てて上っていくようだ。ばくばくと煩い心音が、間近にいるジャンに聞こえてしまいやしないかとベルナルドは胸を押さえた。
     なんだこれは。
     ――なんなのだ、この感情は。

    「――お、日の出だ」

     弾んだ声にジャンの視線の先を追えば、コンクリートの森の向こうに太陽が顔を出している。ああまったく、今日何度目の日の出だろうか――ベルナルドは呆れてしまう。けれど、タイミングがいいなとも思った。曙光はデイバンを赤々と染める。この最中なら、少しくらい顔が赤くてもきっとバレはしないだろう。
     新たに昇った太陽は、デイバンを金色に染めていく。
     これはデイバンを照らす太陽だ。ベルナルドはそう思った。そして同時に、広い世界の中でたった一人、自分だけが二つの太陽に照らされていることを知る。それは言いようも無いほどの充足感を齎した。
     ベルナルドだけのもうひとつの太陽――鮮やかな黄金色の光。
     ジャンカルロという名の光。
     ベルナルドは気付いた。

     ――ああそうか、俺は、ジャンに惚れているのか。

     ジャンは幸福の女神に愛された少年だから、彼の傍にいると女神の加護のお裾分けのように、幸せな気分を貰えるのかと思っていた。
     けれど、それは違った。
     女神もなにも関係無い。全てはもっと単純なことだった。恋しい相手の傍にいるときに、人が幸福であるのは当たり前の事ではないか。
     すべてはジャンが愛おしいと――ただ、それだけの事であったのだ。
     何故今まで気付かなかったのかと瞠目するベルナルドへ、ジャンは朝焼けの色彩をのせてきらきらと輝く顔を振り向かせる。

    「――なんか今更だけど、言ってなかった。ただいま、ダーリン。そんで、おはようさん」
    「――ああ。おかえり、ハニー。そしておはよう。お前が傍にいてくれる朝が、俺は――とても嬉しいよ」

     幾度も昇る太陽を間近で見つめることができる幸福に、今更ながらに恋を知った男は、深く深く酔い痴れた。





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