塩の街「善逸」
炭治郎の声が上から降ってきて、俺は視線をすいと上げた。
「炭治郎」
「いつまで経っても来ないから心配したじゃないか」
「ごめんごめん、この本が面白くて」
放課後、教室、二人だけの空間。窓の外はとうに暗くなり始めていて、外から聞こえてきていた野球部の声も、あちこちで響いていた吹奏楽部の音も、いつの間にか藍色の酸素に溶けてなくなっていた。
こんなに集中して本なんて読んだのは久し振りだ。唇を尖らせる炭治郎を宥めながら俺はそっと本に栞を挟む。
「何を読んでいたんだ?」
と、閉じようとした本の表紙を覗き込んで彼が問うてきた。炭治郎もあまり本を読む方では無いと思っていたが、どうやら本が嫌いなわけではないらしい。
「塩の街」
「へえ……」
俺の言葉に炭治郎は小首を傾げるが、俺が口にしたのはまさしく彼の問いに対する答えだ。有川浩のデビュー作、自衛隊三部作の一作目。塩に侵されていく世界を救う、男と少女の物語。それが『塩の街』だ。
「ある日突然、世界が塩に変わっていくようになっちゃうんだ。街も、人も、しょっぱい結晶になっちゃうの」
原因は分からなくて、人々はいつ自分や大切な人が塩になってしまうのかって戦々恐々としている。そんな中で男と少女は出会うのだ。
炭治郎は僅かに目を細めて本のタイトルを見詰めている。最奥に仄かな熱を灯した柘榴石は、二つ揃ってちらつく光を瞬かせていた。
日の沈んだ世界の中で俺たちを照らす蛍光灯の寂寞が何だか終末を迎えようとしているみたいに見えたのは、多分さっきまで読んでいたこの本の影響だ。
ぱたん、と本を閉じる。手のひらに少し収まらないサイズの文庫本が、塩に脅かされる世界を閉じ込める。あとに残る時計の音が、チ、チ、チ、静かに現実のときを刻んでいる。
「……帰ろっか」
「ああ」
へら、と笑って炭治郎に言えば、彼も小さく頷いた。
塩の街はきっと明日までときを止め、彼らの物語は俺が読むまで進まない。俺が見届けなければ、終末も、救済も、塩の街には与えられない。
「てか今日は委員会ずいぶん遅かったんだな」
「うん、ちょっと仕事を頼まれてしまって」
「あーなるほどね」
大方誰かから面倒な仕事を押し付けられたとかそんなところだろう。彼らしいといえば彼らしいが、その性分は将来苦労するぞ、と心の中で忠告する。まあ、そんなところも好きなのだから文句は言えないか。
校舎の中にはもう誰の気配もなくて、先生たちも職員室に引き上げたあとだ。電気の消された廊下を俺と炭治郎は二人並んで静かに歩く。二人分の足音と、二人分の体温だけが、今の俺たちのいる世界のすべてだ。その中でほんの少し触れた指先をどちらともなく取り合って、俺たちはそうやって少しの温もりを共有する。
これが今の俺たちに許される精一杯だから。
「委員会の仕事、実はあとちょっと残してきちゃってて」
「そうなの?」
「明日も少し遅くなる、と、思う」
炭治郎がぽつりぽつりと話す声は、まろくて柔くて温かくて、だけどどこか寂しそうだ。隣を見遣れば真っ黒な睫毛が彼の頬に影を落としていて、あれ、この薄明かりはどこから差しているのだろうか。少年らしい輪郭を照らす光の方を目で辿れば、窓の外で欠けた月が白々しく俺たちを見下ろしていた。
「そっか」
「うん」
「あのさ、炭治郎」
ひたりと丸い瞳に捕えられたのを肌で感じる。
「明日、世界が塩に侵されて、俺ももうすぐ塩になっちゃうってなったら、どうする?」
ああ、こんなの、どうしようもない例え話だ。分かっていても止められず、俺はそれを口にする。
「そうだな」
呟いて、視線を手許に落とした炭治郎が、俺の指先を握る力を強くする。
「一緒に海に行こう」
そして彼は静かにそう言った。
炭治郎の答えに俺は目を丸くした。だって、それは、塩の街の。
思わず笑ってしまった俺に釣られてなのか、炭治郎もくすりと笑う。
「いいぜ、どこにする?」
「どこがいい? 今ならまだどこにだって行けるぞ」
その笑顔が泣いているように見えたなんて、俺にはとても言えなかった。