カフスと猫【黒限】 月と黒猫を青花で染めた水滴で硯へ水を落とし、レジ台を兼ねるカウンターに立ったままで墨を摩り始める。一摩りごとに、精緻な山水図の彫られた上質な墨の香が清浄に馨しい。カウンターの隣の年代物の作業台に並べられた編み柄も形も違うオフホワイトのアランニット5枚を前にして、30分以上悩んでいる女性客を小黒が接客している。ビスポークテーラー・猫洋服の開店第二号の顧客にして常連の高橋夫人だ。
「う~~~~~~~~~~ん」
「もう一度試着なさいますか?」
「それはそれで迷っちゃいそうなのよねえ。ごめんね、時間かかって」
「お気に召す物が一番ですから。どうぞ、ごゆっくり」
190cmに近い長身をわずかに身を屈めた小黒の口元に、柔らかな笑みが浮かんでいる。その器用な多才さや人当たりの良さからも接客に向いているだろうと思ってはいたが、想定以上の働きぶりだ。妖精に人間の年齢の数え方はあまり意味を持たないが、それでも人間準拠では22才の若さに似合わぬ落ち着いた物腰も、高価な服飾を扱う店で客の信頼を得るに足るものらしい。
仮にもオーナーとして2人の様子を意識の隅に置きながら、摩った墨に鋒を浸し、昨日出張った「衆生の門」内での任務の報告を手にした料紙へしたため始める。
ほどなく、夫人が襟付きのカーディガンを指差した。
「うん、決めた。これにする。ここのこの柄、すごく可愛いし。着回しきくもんね」
「ありがとうございます。ご用意します」
「こちらこそ。本当に仕入れてくれるとか思わなかったもの。残っちゃった分は大丈夫?」
「はい。瞳子さまのご来店用に準備しておいたら、他のお客さまからも欲しいってお声がけがあったんです。事情をご説明して、お待ちいただいてます」
「あら、ほんと? 猫さん、男性のお客様の方が多いでしょ? 大丈夫かなって」
「小柄な方はご自身で着るって仰ってましたけど、他の方はご夫人へのプレゼントにされるそうです」
「えっ、いいなあ。それ、うちの夫にも教えてあげて」
切り返しに、2人で気安げに笑い合う。
「それならよかったけど、ごめんなさい、お休みの旅行だったんでしょ? 買い付けなんかさせちゃって」
「いえ。僕たちも興味ありましたし、職業柄、最初から半分は買い付けみたいなものでしたし」
「仲いいのね。2人で社員旅行なんて」
厚手のニットを丁寧に畳む小黒の手元へ視線を落とし、ワイシャツの袖口を目顔で示した。
「ねえそれ、新しいのでしょ? カフス。さっきから気になってたの」
「ええ、はい」
濃緑のウールにグレーのピンストライプのスーツの袖を、見えやすいようにと小黒が引き上げる。
「小黒」
他に客もなく、話が続きそうな気配にカウンターを出て、小黒からニットを受け取った。レトロなレジの横に包装用の薄紙を広げ、聞く気はなくとも聞こえてくる2人の会話の隣でニットを包んでいく。
「小黒くんのカフス、いつも猫ちゃんよね。今回は……? あ、猫の目」
「正解です」
笑った小黒が手首を揃えて、2つのカフスを並べてみせた。
菱形のホワイトゴールドの台にオニキスを嵌め込み、シャトヤンシーも鮮やかなカボションのエメラルドを中央にセットしてある。
「綺麗なグリーンね。この石、なに? グリーンのキャッツアイ?」
「エメラルドキャッツアイです。いつもの工房から、綺麗な石が入ったって連絡があって」
「エメなの? キャッツアイみたいなエメってあるんだ」
霊力を解放した小黒の眸の色と耀きを思わせる石を無限こそが一目で気に入り、その場でデザインを描いて、妖精の職人へカフスの製作を依頼した。
「いいね、グリーンの眸の黒猫ちゃん。可愛い。小黒くんのカフスの猫ちゃん、いつも黒猫だもんね。猫さんの『猫』って黒猫ちゃんなのね」
「テーラーなのに、ハチワレや三毛じゃ可愛すぎるでしょ?」
「違いない。あ、ごめんなさい、ありがとう無限さん」
包装したアランニットを一番大きなサイズのショッパーへ納めたところで、マダムが気づいた。
「お会計お願いします、カード一括で」
「カードご一括ですね。承りました」
端末を準備して、金額を打ち込んでいく。作業台では、小黒が残ったアランニットを手際よく片付け始めた。
「金額をお確かめの上、暗証番号の入力をお願いします」
「はい」
番号を入力して決済を完了し、カードケースへカードを戻しながら高橋夫人が言葉を継ぐ。
「そうそう、私、初めて猫さんでお買い物したのって夫のカフスだったでしょ?」
「はい、ありがとうございました」
無限が受けて、会話に加わる。
「カフスのプレゼントって、『私を抱きしめて』って意味なんですって。夫が『意外とロマンチストだね』なんて言うから、そんなの知らないって正直に返しちゃった。前はノロケみたいで言えなかったけど、今ならいいよね」
そして、からりと笑った。
夫と呼ばれている朝幸氏も、夫人同様に猫洋服の顧客だ。今は、2着目のスーツをビスポークしている。2人で来店することもあり、さっぱりとした仲の良さは無限も小黒も知っている。小黒が無限からニットの入ったショッパーを受け取って、高橋夫人に水を向けた。
「ノロケじゃ駄目なんですか?」
「恥ずかしいもん。じゃあ帰ります。これ、本当にありがとう」
「外までお持ちします」
小黒が先に立って、扉の上半分を占める厚いガラスにクラシカルな金の飾り文字で店名が書かれた扉へ向かう。閉店時間の18時まではまだ30分も間があるが、外は深い夜のように暗く、暖色の灯りに照らされる店内がくっきりとガラスに映りこんでいる。夫人の背中へ頭を下げて、無限は再びカウンターの内側へ戻った。
「どうぞ」
小黒が開けた扉から初冬の冷たい空気が店内へ流れこんでくるが、むしろ無限には心地良い。開け放したままの扉の外で、小黒が高橋夫人にショッパーを渡す。
「次は朝幸さまのご予約ですよね。お待ちしておりますと、お伝えください」
「うん、あの人指折り数えて楽しみにしてるから、お伝えしなくても張り切って来るよね。猫さんのスーツ、絶賛してるもの」
「いつもありがとうございます」
「じゃあ、また」
「ありがとうございました」
折り目正しく長身の頭を下げた小黒がしばしそのままで高橋夫人を見送り、ゆったりと姿勢を正して店内へ戻ってきた。重い樫の扉がぴっちりと閉まるや、途端にその落ち着いた風情が崩れて、狭い店の中を大股に踏んでくる。
「だってさ、師父」
「ん?」
四宝を片付けていた顔を上げたところを抱きすくめられ、小黒の長い腕の中へ閉じこめられた。一見細身だがよく鍛えられて厚みのある胸の奥から、規則正しく拍つ命の音が聞こえてくる。猫の姿の時と同じ甘い日向の匂いが無限の鼻腔を満たし、頭頂に滑らかな頬が触れるのと同時に、ゴロゴロと嬉しげな咽喉の音が降ってきた。
「なんの話だ」
「なにしらばっくれてんの。さっきの聞いてたろ、瞳子さまの。『私を抱きしめて』だよ」
小黒のカフスは全て無限がデザインして素材も選び、会館服飾部の彫金の工房に依頼して作ってもらっている。支払いも、全て無限だ。猫洋服の制服として支給しているつもりだったが、プレゼントといえばそうであるのかもしれない。無限自身も着道楽の自覚はあるが、男っぽくも至極見目良く育った弟子を飾ってやるのもまた楽しい。しかし、カフスを贈ることになにかしらの意味があろうが、なかろうが。
「え? 今なんか笑った?」
17cmの身長差で密着していて無限の表情など見えないはずの小黒が、訝しげな声を出す。腕に抱き、肩車した重みも温もりもよく覚えている子供に身を委ねたまま、開いた唇からは思いがけないほど柔らかな声が出た。
「理由なんてつけなくても、いつもベタベタしてるだろ」
「そうそう、師父が俺のこと大好きだからね。弟子の務めってやつ」
「ああ……そうか、そうだな」
「なに、納得しちゃうんだ」
小黒が朗らかに笑い出すが、横浜中華街の門番の任務に、自分1人で日本へ来る選択肢など浮かびもしなかった。あまりにも当たり前に、互いの体温を感じられる場所に居る存在。師弟であり家族でもあるが、師弟なら下山があり、家族なら独立の日が来る。どちらも、想像してみようとして、うまくいかない。あまりに幼いうちから育てたせいだろうか。今までの弟子とは――それとも、今まで関わってきた誰とも、なにかが違う。
「あ」
「ん?」
短い声を上げて、ふいに小黒が元の姿へ戻った。
温もりが消えると同時に、天鵞絨の漆黒の被毛を纏うしなやかな成猫が一跳びで無限の肩へ乗ってくる。その視線を追って入り口を振り向くや、間髪入れずに扉が開いて、急いた足取りの高橋夫人が入ってきた。アランニットの入った重いショッパーを肩に掛けたまま、白い息が顔の周りに蟠ってすぐに消える。無限の肩を蹴った小黒がカウンターを飛び石に、小さな螺旋階段に移って素早く上階へ昇っていった。日本でも日本ではなくても、よほど親密な間柄でなくては成人男性同士で意味なくハグはしないだろう。当人同士に他意はなくとも、急に身体を離せば隠しがたい違和感が残る。回避するために、猫の姿に戻ったらしい。
店内へ入った最初の一歩で、夫人が足を止めた。
「あら、猫ちゃん? 今、黒猫ちゃん居ました?」
「すみません、私の猫なんです。病院の都合で連れてきて上の倉庫に居てもらったんですが、ドアを開けて降りてきてしまって」
「そうか、じゃああの子が猫さんの猫ちゃん? だから黒猫なんだ。無限さんちの子なのね……すごい、愛されてる」
「小黒は外していますが、お忘れものですか?」
独り言めいた呟きには敢えて返さず、問いかけに夫人が思い出した顔になった。
「そうなの。電話でもよかったんだけど、夫から次の仮縫いのことで訊きたいことがあるって伝言頼まれてたの。さっき小黒くんと予約の話もしたのに、すっかり忘れてて」
「承知しました。小黒はすぐに戻りますので、どうぞこちらへ」
荷物を受け取り、カウンターと作業台の手前にセットされたブルーグレーの革張りのソファとマホガニーのローテーブルの応接セットへ案内する。
『喵』
夫人を座らせながら、無限にしか聴こえない短い声が上階から届く。
続けて、革靴の落ち着いた足音が螺旋階段を降りてきた。
了.