月の夜とショコラと猫【黑限】 二人暮らしには不釣り合いに大きな冷蔵庫から、昨日作って寝かせておいたチョコレートスポンジを取り出す。猫の顔の型を館の職人に特注して作った、5号の特大サイズだ。
「うん、いい匂い」
「ショ!」
小黒の頭の上から興味津々に眺めていた黑咻が、調理台へ置いたスポンジの横へ飛び降りる。
「食べちゃダメだぞ、出来たら分けるから」
「ショ~」
ラム酒を効かせた濃厚なチョコスポンジは、会心の出来栄えだ。素直にバレンタイン用と言ってもよかったのかもしれないが、無限には「おやつ」とだけ伝え、なるべく全体が見えないように冷蔵庫の奥へ入れておいた。
『よし、デコレーション』
機嫌良くチョコレートクリームのボウルへ手を伸ばし、慣れた手つきでスポンジをコーティングしていく。ちらりと見上げたアンティークの丸時計は、17時の少し手前を示している。
『うん、ヨユーヨユー』
店舗兼住宅の小さなビルの一階で小黒と無限が営むビスポークテーラー・猫洋服は、本日定休日だ。無限は上席執行人会議のために転送門から大陸へ赴き、フリーの小黒はチョコレートケーキ作りに勤しんでいる。
『初めての情人節(バレンタイン)だもんな』
日本に来て2年と少し、師である無限と情人(こいびと)の間柄となって5ヶ月が経った。
クリスマスは元町で和食のディナー、春節は大陸から遊びに来た友人たちと中華街での故国の料理、今夜は小黒が腕を奮うイタリアンを堪能してもらう予定だ。特に予定は伝えていないが、無限が一言もなく勝手に外食してくることはない。定例の会議からの帰宅は毎回19時、たまには酒や食事に付き合えと声をかけられもするようだが、必ず真っ直ぐに帰ってくる。
『日本いいとこだよな、世界中の料理が食えるしレベル高いし』
お陰で、小黒の料理のレパートリーも格段に増えた。猫の顔の形のスポンジを、ビターなチョコレートクリームで丁寧にコーティングしていく。滑らかに艶やかに仕上げていく手早さは、誰の目から見ても玄人裸足だ。自分に出来ることからと、食いしん坊で美味い料理に目がない師のために料理に勤しむ内に、館の特級厨師たちに真顔でスカウトされるほどの腕前になった。
『そりゃまあ、料理の腕より執行人の腕磨きたいけど』
努力は怠らないが、焦らないと決めてもいる。無限に追いつくためのショートカットは、どこにもない。
『師父、喜ぶかな』
チョコレートで作ったプレートとチョコペンを駆使して、コーティングを終えたケーキに元の姿の自分をモデルに猫の顔を描いていく。小黒自身の姿を写したのは洒落のようなもので、いわゆるショコラは有名ショコラティエのバレンタイン限定ギフトを買ってあるが、それでは無限が物足りなかろうと見越してのケーキだ。味に自信もあれば、健啖ぶりに応えられるよう特大サイズにもしてある。
「よし」
デコレーションを終えたケーキに余った材料で作った黑咻のトリュフを添え、ケーキ用のボックスへ移して冷蔵庫に収める。手順としては最後に回すべきだったのだろうが、今夜のメインとして先に作っておかなくては落ち着かない。
食事のメニューは、生ハムのサラダと牛肉のボロネーゼにイトヨリダイのアクアパッツァ、大量のステーキ用鹿肉も用意してある。イタリアのワインも赤白泡と取り揃えた。
「ご馳走だな」と嬉しげな、最愛の人の笑顔を思い浮かべるのも容易い。
「ボロネーゼから行こっかな」
独りごちながら、製菓用の道具を片付けた後の狭いキッチンを綺麗に拭き上げる。
材料を取り出すべく、再度冷蔵庫を開けた。
日本に来てからアンティークの家具屋で見つけた、この小さな赤煉瓦のビルと同じ年代に作られたダイニングテーブルに長々と突っ伏す。
「うっそ~~~~~~~、なんで帰ってこねーの……」
「ヘイシュ、ショ」
慰めてくれているのか、黑咻がつむじの上でぽよぽよと身体を揺する。
19時に帰ってくるはずの無限から連絡もないまま、時刻は22時を回った。数分おきに見ているスマートフォンをまた確かめるが、相変わらずメッセージは入っていない。
『今日に限ってみんなと飯食ってるとか? でも連絡くらいくれてもよくね?』
嫉妬深い自覚はあるが、それでも絶対的な信頼関係の上で、互いに自由だ。気軽に「晩飯いらない?」とでも送ればいいのだろうが、束縛するような躊躇がある。
「……いいやもう、飯食お……」
食材もケーキも、明日まで置いておける。2月14日など、カレンダーの上のただの数字だ。
『月の暦なら日付なんか毎年変わるもんな。あの店行くか』
今さら自分1人のために夕食を作るのは面倒であり、小黒の足なら5分の場所に、4:00まで営業している食事の美味いバーがある。黑咻を戻して立ち上がり、外したエプロンを椅子の背にかけて、2人の寝室である4階へコートを取りに上がった。シェルフに並ぶアウターから明るいオレンジのダッフルコートを手に取り、重い気分で袖を通す。
『まあそうだよな、情人節なんて別に今まで関係なかったし』
クリスマスや春節は師弟として家族として毎年楽しんできたが、去年までの情人節は小黒と無限の間では特に意味を持たないイベントだった。日本では女性が男性にチョコレートを贈る日付として、昨年は膨大に売り出されるスペシャルなショコラを2人で楽しんで買いに行ったばかりだ。溜息を吐いて再び3階へ下り、直接外へ出られる内階段に通じるドアを開ける。
『そう簡単に情人なんて思ってもらえないか』
元々が小黒と無限は単なる師弟以上に、あるいは他人同士だからこそ肉親以上に親密だった。
『大体さあ、師父は俺のこと好きすぎんだよ』
マウス・トゥ・マウスのキスとセックスさえ、出会ってから今までに無限から注がれてきた、溢れて溺れそうな愛情の延長にあるばかりではないかと思うほどに。
「はあ」
大きく溜息を吐いて鍵をかけ、無造作にポケットへ押しこむ。階段を下りようとして、馴染んだ気配がふと小黒に触れた。
「え」
思わず声に出し、狭く急な階段の下を凝視する。なお近づいて濃くなる気配と、街灯の白い光で矩形に切り取られた外への出入り口に現れた人影。パチ、とスイッチを入れた音がして、小黒の目には必要のなかった天井の蛍光灯が眩く光る。
「小黒?」
ダークブラウンのタートルネックのニットに立て襟・紐釦の絨藍色の長衫を重ね、濃淡のグレーに細い赤のラインが差し色に入ったタータンチェックのオーバーシルエットのカシミアコートを羽織った無限が、階段の下から小黒を見上げている。
待ちかねた想い人の姿に、ひとつ瞬く。
「っ、おかえり」
「ただいま。すまない、遅くなった。出かけるのか?」
ハーフアップにした長い髪を揺らし、常に沈着冷静な無限が急いた足取りで階段を上がってきた。
「あ……と、飲み、行こうかと思って。師父は向こうで食ってきたんでしょ」
狭い踊り場で向かい合う碧い目が、真っ直ぐに小黒を見上げてくる。描いたような無限の眉が、微かにしなった。
「食べずに待っていてくれたのか? すまなかった、遅くなって。連絡しようと思ったんだが、スマホを本部に忘れた」
「はあ??? えっ、連絡こなかったの、そんな理由? つかなに、どこ行ってたの」
「悪かった。私も食べてないから、外に行くなら一緒に行こう。それとも誰かと待ち合わせか?」
「食べてないの? 待ち合わせって、するわけないじゃん。情人節に俺が誰と待ち合わせすんの」
「いや」
もどかしそうな無限と、微妙に会話が噛み合わない。こんな様子を見せるのは、珍しい。
「そうだ、情人節。覚えてたのか」
「いやそれ、俺の科白。師父こそ覚えてたんだ? 全然帰ってこないし、そんなに気にしてないと思ってた」
物言いたげに口を開き、しかし噤んで、無限が壁に金属で輪を描いた。輪の向こうの白い空間は霊域だが、このやり取りとなにか関係があるのだろうか。
「ちょっと待っててくれ」
言いおいて、無限が軽い身ごなしで霊域に入ってしまった。
「えっ、ねえ」
入り口から中を覗くと、目の下の霊域の底で、無限が身を屈めてなにかを拾い上げている。
『いいや、まあ。帰ってきたし』
気持ちを切り替えて、美味い食事と酒を楽しめばいい。霊域の入り口から三歩離れて、出てくるのを待った。
「待たせた」
ほどもなく戻ってきた無限の右手に老舗百貨店の大型ショッパーが、左手には小ぶりで愛らしい薔薇のブーケが携えられている。それだけではなく、無限の左右には鉤に変形した金属にそれぞれ別の百貨店の大型ショッパーがぶら下がって、宙に浮かんでいる。
「なにこれ、すごい買ったね。買い物行ってたんだ?」
どのショッパーも、東京・銀座の百貨店のものだ。気配は感じなかったが、それならば一度戻ってきて買い物に行ったのだろうか。一言声をかけてくれればーーと、思いかけた途中で無限が口を開いた。
「情人(こいびと)にチョコを贈る日なんだろ、今日は」
「へ」
「情人節。日本ではチョコを贈るんだろ」
「ああ」
「故地(くに)では薔薇を贈る日らしいし、どっちがいいのかわからなくて両方買ってきた」
「えっ」
慌てて、浮いているショッパーを覗いた。ぎっしりと、趣向を凝らしたパッケージの大量のショコラが詰まっている。
「えっ」
ばね仕掛けの人形の勢いで無限を振り向いたが、なにをどう思ったものか白い目元に血の色が浮かぶ。
「当日に行っても駄目なんだな。お前の喜びそうなチョコをちゃんと選びたかったんだが、売り切れも多くて」
「っ」
「それで、せめてと思って何軒かデパートを回って全部の種類を」
無限一人で、あのほぼ女性ばかりのショコラの催事場へ、この大量のチョコレートを買いに行ってくれた。そんなものを買ったこともなかっただろうに、薔薇の花束まで用意してくれた。小黒が喜ぶと、そう思ってくれたのだろうか。
「……っとにさあ~~~~~~~~~~!」
吐き出す息が白く可視化される2月中旬深夜の冷気の中で、一瞬にして全身が熱くなった。小黒の意思に関わりなく猫の耳と尾が顕れ出て、そのまま長い腕と尻尾で花束と荷物ごと無限を抱き竦める。火照る頬へ無限の冷たい髪と額が触れ、コートもまた掌に冷たい。
「あのさあ! サプライズしたいのが自分だけとか思わないでくんない 俺だって、師父が帰ってくると思ってご馳走仕込んで準備してたんだよっ」
「う」
抱え込んだ15cmの身長差の肩口で、無限が咽喉の詰まったような声を出す。
「すまなかった、最初は横浜駅辺りで買うつもりだったんだ。でも今日は会議が早く終わったから、銀座まで行っても夕食に間に合うと思って」
「めちゃくちゃ待ってたよ! その間にそんな可愛いことしてたとかさあ!」
「そのなんでも可愛いって言うの、やめろ。お前の方がずっと可愛い。今日は本当に悪かった」
すり、と、猫の仕草で無限の頬が小黒のダッフルコートの胸元へ擦りつけられる。
『っ、マジこの人!!!!!』
「も~!」
地団駄踏み出したい気持ちも、このまま抱きしめ続けていたい気持ちもどうにか堪えて身体を離し、無限から花束とショッパーを受け取った。見上げてくる碧い眸が蛍光灯の白に透けて、澄明な色の中に光の粒が躍っている。昂揚していると理解できる程度には、長く傍に居る。音を立てて、絹の手触りの髪の間へキスを落とす。猫の仕草のお返しに、キスした場所へ鼻先を擦りつけた。甘くも爽やかな緑茗の香が、小黒の鼻腔を満たす。暗闇の中でさえそれと知る、なにより近しく過ごしてきた香りと温もりが、今さらどうしようもなく懐かしい。
「食材置いとけるし、ご馳走は明日作るから。これ置いて、今日は外行こ。薔薇もチョコもすごく嬉しい。ありがと」
「好(ハオ)」
微笑した無限の呟いた言葉は返答とばかり思ったが、寒さの中でも温かな手が伸ばされてきて目元に触れた。
「泣くほど喜んでもらえて良かった」
「はあ 泣いてねーし、風評被害やめてよね」
「そうか?」
にこにこと機嫌良く笑う無限を見下ろし、顰め面で鼻を啜る。
『みっともな』
無限が小黒に対して情人として振る舞おうとしてくれたことが、堪えきれずに嬉しい。
「これ、置こ」
「うん」
玄関の鍵を開け、大量のチョコレートの詰められたショッパーを革のソファへ並べて、その隣へ丁寧に薔薇のブーケを置く。
「あのさあ、俺、師父が思ってるより師父のこと好きだからね」
今さらの科白が気恥ずかしく、再び外へ出て玄関の鍵をかけ直す、無限に向けた背中越しにひそりと呟く。
「そうか、奇遇だな。私も、お前が思ってるよりお前が好きだよ」
背中に、掌と額の温もりを感じる。静かに振り向いて、その手を捕まえた。
「キスしてい?」
「情人だろ。訊かなくていい」
微笑む唇を啄んで離れる。
「どこに行くんだ?」
「『L'heure bleue』。この時間だし」
「ああ。美味いな、あの店」
「でしょ」
狭い階段を前後になって下り、メインのストリートから離れた猫洋服の面する路地に人気は無い。
「冷える」
「うん、でも月がきれい」
「うん」
呟きとともに手の内へ滑りこんできた、一回り小さな手と繋ぎ合う。
共に夜空を見上げて、歩き出した。
了.