[ミマモ]なぜ師匠は水着を着てきたのか 南の島国、ミクロネシア。
街から海岸のあちらこちらに、海のようにひたすら青色の印象を与える、かわいらしい「男の娘アイドル」のポスターが貼られている中、海からしばらく距離置いた砂浜上に設置したパラソルの下で二人の画家が座っていた。
「さーて、なんで海まで着て、ぼくたちは泳いでいないんでしょーね。ぼくは絵を描きたくなっちゃったからなんだけどねえ」
画家のオクタルはそう言いながらも満足そうに、遠くに見える島の絵を描いていた。
そんな様子を見て、オクタルの弟子のペンタは何を答えればいいのかと思いながら言った。
この海岸は海水浴場として開放されている。
この日は海水浴をするのにとても良好な環境だと現地は言うのだが、とはいっても二人以外の客はほんの数人しかいない。
オクタルは島を指差しながらペンタに言った。
「知ってる? あの島ってほんの数か月前まで人が住んでたみたいなんだよ。みんな死んじゃったんだってさ。どうしてかにゃあ?」
「その話はさっき聞きましたよ、この町の役場みたいな場所で」
「おやおや、そうかい」
どうもこの一見平和そうな国は次々と、島単位で人がいなくなる現象が続いている恐ろしい面もあるようだ。
どうりで自分たち以外に、この国の観光客もまばらなのかな、と思いながらその現象にたちあったらどうしようと考える。
しかし考えてみてもしょうがない。
「……ていうか、お師匠様」
「なーに?」
「泳ぐとかじゃなく、出発の時から絵を描きに来たって言ってたじゃないですか、だからお師匠様も。水着とか持ってきてないですよね?」
「いんや、一応下に着てるよ」
「え?」
そんなの聞いてないよ、とペンタは言った。
「いや、一応、せっかくミクロネシアまで来たしおよぐかなーって思っただけ。ペンタは?」
「……当たり前ですが、なにも持ってきませんよ。全く泳ぐつもりはありませんから。そもそも泳げませんし……」
ペンタはさっと、オクタルが用意した長袖のラッシュガード越しに自分の腕を撫でながら、つぶやくように言った。
下は半ズボンを着ている。
「まあそっか……でもなおさら、きみが泳がないなら別にいいかな。そもそもこの国に来たかったのは、ここから見える海岸を描きたいから。今は島ばっかり見て描いてるけど」
「……」
「それに、きみが絵を描くのなら、きみの面倒は見なきゃいけないでしょ。僕が師匠なんだからにゃ」
「……」
気になるようことじゃないのかもしれない。
だがなおさら気になる。
どうして下に水着を着て準備している、なんて言ったのか。
「私は絵を描きません……」
ペンタはスケッチブックを閉ざそうかと思いながら、悲観的に言った。
「いや、そりゃまたどうしてだい?」
「……」
「ぼくだって絵を描いてるんだよ。水着は一応の一応だから……」
「……本当なんですか? 私が泳げないからって遠慮してたりしてませんか?」
「そんなことはないよ」
オクタルは言った。
「描けそうな絵もないやってぼくが思ってたら、そんな時はもうお洋服は全部ぽいぽいと脱いで、海の上だよ」
「……え? 全裸で?」
「なわけなかろーに。お言葉通りに受け取らないで」
「すみません……」
少し余計な考えごとが増えていたのかボーっとして語弊を産ませたように思わせてしまったと思い、ペンタは謝った。
「ごめん、そんなに謝ることじゃないよ、きみは。ふむ……今はちがうけど、とつぜん海水を浴びたいなーって思って泳ぎたいときがくるかもしれない」
「なんですかそれ」
「ぼくはきまぐれだからいいの。それに何かの事故で、ペンタが海に落っこちちゃったら助られるでしょ~」
「……ありがとうございます。気をつけておきますが」
ペンタは何とも言えない気持ちで言った。
猫という動物は気まぐれだとよく言われる。
そりゃ、同じくペットとして並んで人気な犬と大きく違って、しつけなんてできないのと同じだ。
猫のような人間だな、とオクタルのことを以前からペンタはいろんな点で思っていた。
実際の所ペンタは、オクタルの気持ちが分かったことがない気しかしなかった。
今ですら自分をどうしてわざわざ弟子にしたのか分からない。
何もできないのなら、これから絵を一緒に描いてみようなんて言ってきたが……。
ペンタは手を止めて海の方を見た。
波が断続的に押し寄せてくる。
ペンタは海を見たことがほとんどないが、波は小さく静かなものだった。
近くの海域が時化てくると、それは大きな波となっていくようだが、そんな様子は全くなかった。
しかし慣れない海の波を見ていると、なにか海の中へ誘惑してきているように錯覚して見える。
もしかしたら、お師匠様含め周りの人間もそんなことは考えないのかもしれないが、本当に「海の怪物」がいるというなら、彼を誘っている波なのではないかと考えてしまう。
「波がどうかした?」
「ひっ!?」
そんなことを考えていたら、オクタルが耳元で言ってきた。
「な、なんですか」
「波って怖いよねえ。川の中流とかもそうだけど、甘く考えていると足を掬われ持ってかれちゃうかも……なんて考えたりしてた?」
「……なんでもないです」
またこれだ。
自分が何かに見つめていると、オクタルはまるで着目ている点見抜いてくるように言うことがある。
「まあ、気をつければ大丈夫。じゃなかったら海水浴なんて文化もないからねえ。ところでペンタはミクロネシアに来ていいことあったかい?」
「……分かりません」
今二人がいるパラソルに来てから、ペンタはふと、さっき目の前にいた蟹でも見て描こうとしたが、最初の数本の線で四苦八苦しているうちに彼は姿を消してしまった。
オクタルはちらっと、ペンタが持っていたスケッチブックを見てきた。
「何も進んでないにゃあ……」
「すみません……」
「こいつったらあやまってばかりだにゃ~。こうなったら」
オクタルは一旦スケッチブックやペンを片付け、ペンタも「ほらほら」と誘導させた。
「な、なんですか?」
「ちょうどあっちの方に、ミクロネシア名物の『フルーツポンチアイス』が売ってるんだとさ。ペンタは、冷たいお菓子はすき?」
「え……あまり食べたことないから……」
「そっかそっか。じゃあせっかくだから食べに行こうよ」
「……分かりました」
相変わらず気まぐれな奴だと思ったペンタだった。
ところで猫が気まぐれな理由は「単独行動をするから」と言われているようだ。
なんでもかんでもオクタルは猫の特徴にあてはめたいわけではない。
だが、自分がいることでどうなのか分からなくなった。
だけどペンタ、そんな気まぐれながらもこちらに嫌な顔をしない彼から、今では離れようとは思えなかった。
「よいしょ……」
「え、何してるんです?」
屋台で買ったフルーツポンチアイスを食べていると、オクタルは脱ぎだしていた。
あっという間に、膝上まであるスイムパンツだけの姿になって、波が被るところまで着ていた。
「ちょっと泳ぐかにゃ!」
「ちょ、ちょっと?」
「チミは、アイスを食べてて。その間にやっぱり人浴びしてくるから」
そう調子がとても良さそうに言って、オクタルは悠々と海の中へ泳いでいった。
「……」
ペンタはフルーツポンチアイスを食べる。
「せかさないでくださいよ……ゆっくりしてたら溶けちゃうのに」
オクタルが楽しそうに泳いでいるのを見ると、それはそれで幸せそうでいいなと思ったが、彼の奢りとはいえゆっくりできないことにジレンマを、ペンタは覚えていた。