贈り物と彼の怯れと 藍忘機には、道侶がいる。
その名を魏無羨。雲夢に育ち、射日の征戦においては英雄ともてはやされ、而して後に仙門百家を敵に回して散った。数奇な運命を経て蘇った彼が、雲深不知処に身を落ち着けたのは、一月ばかり前。冬のはじめの頃だった。
観音殿での一件の後、仙門の雑音を避けるように遊歴に出た二人は東へ西へと気侭に、正確に言えば魏無羨の気の向くままに、夜狩りをしながら旅を続けていた。
行く宛も、戻りの期限も決めてはいなかったが、それでも姑蘇に戻ったのは、閉閑した藍曦臣に代わり一門を切り盛りしていた藍啓仁から、次の春には座学を再開させたいので帰ってきてくれないかと懇願されたこと、そして、蘇ってからあまり丈夫ではない魏無羨の身体が冬の旅の寒さに悲鳴を上げ始めたことが決定打だった。宿を取って野宿を避けても移動の間の寒風はどうしたってその痩身を削る。空咳が止まらなくなり、食事の量が減り、冬至の頃にはとうとう宿の寝台から起き上がれなくなってしまった魏無羨は、「冬の間だけでも静室に戻って静養しよう」と泣きそうな顔で懇願した藍忘機を拒まなかった。
経緯はどうあれ、戻ってみれば意外にも、雲深不知処での暮らしは魏無羨にとって悪いものではなかった。朝は卯の刻に起きることはないが、何も言われることはないし、魏無羨の目が覚める頃には、朝の務めを終えた藍忘機が起こしに来てくれる。炉で充分に暖められた静室で、滋養のつく食事と日に三度の薬湯を欠かさず飲まされて、半月ほどで、雲深不知処の中を出歩くことができるようになった。体の調子の良い日の日中は、門弟たちの鍛錬をひやかして二、三助言をしたり、蔵書閣の書をめくったり、請われれば藍忘機の執務の手伝いをしたりと何かしらすることがあった。そうして、夜になれば天天の約束の通りに暖かな静室の中で心ゆくまで藍忘機に愛されて眠りにつくのだ。
魏無羨が藍忘機にとある質問をしたのもそんな長閑な一日の終わりだった。
「なぁ、藍湛。もうじき春節だ」
夕餉をつつきながら魏無羨は向かいに座る道侶の美しい顔を上目遣いに覗き込んだ。食不言を是とする佳人は口を開くことはしないまま、眼差しを和らげ、ただ頷いた。
「お前の誕辰も近いだろう。せっかく雲深不知処に帰ってきたんだ。俺にもお前を祝わせてくれ!なぁ、姑蘇藍氏は誕生日をどう祝うんだ?何か欲しいものはないか?」
勢いこんで尋ねる魏無羨に藍忘機は少し困惑したようだった。
「藍氏では生まれた日に特別なことはしない」
「え、宗家の誕辰も祝わないのか?」
「宗主筋の子の場合は家宴を開くのが通例だが、……私の生まれは、罪の証のようなもので手放しで祝福されるものではなかった」
「罪?」
魏無羨がきょとんとして問い返すと、藍忘機は沈痛な面持ちで首肯した。
「母は罪人として、静室に監禁されていた。二人目など赦されるものではない」
その話は魏無羨も沢蕪君から聞いたことがあった。しかし藍忘機が彼にそれを打ち明けたのは初めてではないだろうか。
「お前のお母上のことは、少しだけ沢蕪君から聞いたことがある。けど、逆だろ」
魏無羨は心底解らないという顔で首を傾げて言う。
「お前のお母上とお父上が、どういう関係だったのか、俺には解らないけれど……お前の兄貴が生まれて無理に後継ぎを望む必要がなくなった後にお前が生まれたんだろ」
そう、だからそれが罪なのだ。そう言い募ろうとした藍忘機を、魏無羨は穏やかに遮った。
「そういうのは罪じゃなくて……愛の証って言うんじゃないのか」
「……っ」
思わず息を飲んだ藍忘機に、伏し目がちにうたうように話す魏無羨は気が付いていないようだった。慈しむように細い指が白い抹額を黒髪ごと掬い取って撫ぜる。
「必要もないのに、肌を重ねてお前と俺が毎晩してるみたいなことをしたんだろ?そんなの理由は分かり切ってるじゃないか。お互いを愛していたか、お前を望んだか。どっちにしたってお前は愛されて望まれて生まれてきたってことじゃないか」
「……」
「だから、そんな淋しいこと言わないでくれよ。百歩譲って、本当にお前が罪の子だったとしても、俺はお前が生まれてきた日を祝いたいんだから」
わかったか?藍二哥哥?
そう言って、魏無羨は愛しい道侶をぎゅっと抱きしめる。それから思い出したようにふと思案顔になった。
「ふぅん……じゃぁ本当に一度も祝ってもらったことがないのか……」
魏無羨が思考に沈んでいると、「そういうわけではない」と腕の中の道侶は言った。
「幼いころは母上が……母上が亡くなってからは叔父上と兄上が一緒に食事を摂って祝ってくれた。……それから、君が……」
「俺が?」
意外なことを言われ魏無羨が目を瞬くと、藍忘機はそっと息をついた。魏無羨が何かを忘れている時のちょっぴり呆れたような、ため息だ。
「矢羽根の花を、くれただろう」
その耳たぶは薄紅色に染まっていて。その慎ましやかな色に唐突に遠い記憶が蘇った。
岐山の弓術大会の時のことだ。
あの頃の魏無羨は対等に競い、認め合える相手に出会えたことがとても嬉しかったのだ。それは、魏無羨が秀でた実力を顕す度に江澄が噛みしめる唇の傷と周囲の人さがない噂は看過できないほどになっていき、雲夢での修練が魏無羨にとって居心地の良いものではなくなりかけていたころのことで、藍忘機はそんな魏無羨の前にたった一つ雲間から差し込む白銀の月のように現れた光だった。
生まれで人を判じることもなく、道連れで家規を破らされただけなのに一緒に罰を受けるような清廉な頑固者に魏無羨が惹かれたのはもの珍しさからだけではない。からかいながらも認め、親しくなりたいと望み、弓術大会の少し前に過ぎた彼の誕生日にかこつけて、両手いっぱいの贈り物を渡した。
そのどれも受け取ってもらえず、なぜか成り行きで競射をすることになってしまったのは予定外だったけれど。張り合って正中を重ねた結果割れた矢羽根がふわふわと広がる様を見たとき、これは案外自分と彼に似合いの贈り物だと思った魏無羨は、屈託なく笑ってその矢羽根の花束を差し出したのだ。
「君に我在りて我に君在り」と――
「なんだなんだ!お前あんなにつれなくしておいて、嬉しかったのか。あの時のお前は『ない』か『くだらない』しか言わなかったじゃないか!!そんなことを十三年以上も大事に胸に抱えているなんて、なんて可愛い男なんだお前は!」
つれなさをなじるように藍忘機の一部の隙もなく整えられた髪をくしゃくしゃと乱暴に撫で回しながら、魏無羨は上機嫌だった。
「それで、本当に何かないのか。何でもいいぞ。欲しいものでも、俺にしてほしいことでも」
「……欲しいものはいつも貰っている」
「んんー、なんかお前にあげたものがあったっけ?この間作った雪兎のことか?」
魏無羨が雪が降る度に作る雪兎は、藍忘機の手によって丁寧に静室の軒下に並べられている。
だが、藍忘機は小さく首を振った。
「君が隣に居て、笑っていてくれる。それ以上に望むものなどない」
口元にあるかなきかの笑みを浮かべた道侶に、魏無羨の頬が見る間に紅潮していく。
「あー---藍湛!藍二哥哥!口説くときには前もって言ってくれって言ってるだろう。だいたい今は俺がお前にあげるために質問しているのに、俺を喜ばせてどうする!」
「口説いてはいない」
「いーや、口説いてるね。……それにしても本当に何かないのか。何も思いつかないなら、そうだな、例えば、じゃあお前の兄貴や叔父貴に貰って嬉しかったものってどういうの?」
問われて藍忘機はしばし宙に視線を漂わせた。
「そういえばあの頃……」
「うん?」
「私の生まれた日に母上が絵を描いてくれたことがある。似顔絵を」
「絵か。そんなものでいいのか?」
絵ならば魏無羨も時々描くことがある。誕辰の祝いには簡単すぎるのではないか、そんな顔をした魏無羨に、藍忘機は静かに首を振って続けた。
「その絵に私と一緒にお前も描いてくれないか」
こうして、二人は藍忘機の誕辰その日を迎えた。
あれから、藍忘機の願いを最高の形で叶えるべく、魏無羨は彩衣鎮の小間物屋で色とりどりの画材を揃え、それはもう見事な色付きの姿絵を描いた。絵の中では、二人が互いの手を取って、笑って旅をしている。仕舞っておくのにも、飾るのにもよいように、上質な布地を贅沢に用いて掛け軸の形に装丁までした力作だ。
姿絵を見た藍忘機はそれはそれは、喜んだ。歓びに頬を染める藍忘機など、滅多に見られるものではない。「魏嬰、嬉しい。本当に君は素晴らしい」 と言葉にして褒めちぎられた魏無羨も、贈られた本人以上に喜色満面であった。しかし、
「あの絵には私一人だったから。これで大丈夫だ――」
姑蘇藍氏の耳を持ってしても聞き取れないくらいのさやけさで続けられた言葉に、魏無羨は顔色を変えた。
「今、なんて言った」
聞き返したものの本当は分かっていた。
お前がいなくとも、と、藍忘機はそう言ったのだ。楽しかった空気が急激にさめていく。
「いつか……俺がいなくなる時のためにって、お前そんなこと考えてたのか!」
魏無羨の二藍の瞳は、苛烈に輝きながらも水の膜を張っていた。
「いやだ。渡さない。俺はお前にそんな顔をさせるために描いたわけじゃないっ」
なんでそんな事言うんだよ、と子どものようにべそをかき始めた道侶に藍忘機はおろおろとしたが、口の端からまろび出た言葉を撤回することもしなかった。
「魏嬰……」
ただ、控えめに魏無羨の肩を撫ぜながら、とつとつと語った。
「以前、お前が居なくなったあと、私の元に残されたものは何も無かった。お前の声も、姿も、触れた温度も少しずつ思い出せなくなっていく。せめて絵姿の一つでもあったならと何度思ったかしれない。あのようなこと、もう一度は堪えられない。ゆえに……すまない。魏嬰」
心からすまなそうに、互いの間では必要ないはずの言葉を口にする藍忘機に、魏無羨は言葉を失った。
それは、魏無羨も心のどこかで、ずっと恐れていたことだった。蘇った今も魏無羨の身体に金丹はない。類まれな修為を持つ藍忘機は、何事もなければ徒人よりもずっと長く生きるだろう。自分の描いた姿絵を、陳情を、随便を、描き散らかした呪符や手紙を抱えて、永遠にも思える生を生きる藍忘機を想像する。きっとそうだ。この男は忘れてなどくれない。他の誰かを見つけて幸せになれるくらいなら、十三年もこんなどうしようもない男を探し続けたりしない。だから、その未来の先に訪れるのは、行き過ぎた執着が齎す破滅だけだ。
息を吸い込むとふわりと白檀の匂いがした。いつだって安心する、藍忘機の纏う香り。そうして、気が付いた。やっぱりこの男は間違っている。
「藍二哥哥。俺が絵を渡して、この先もいつかのお前が寂しくないくらいの、溢れるくらいの思い出をあげたら、幸せになってくれるのか」
掠れるほどの囁き声の問いかけへの答えは即座だった。
「できない」
「お前にこの絵を渡さず、その時は俺のことなんか忘れて幸せに生きろと言ったら幸せになってくれるか」
「無理だ。魏嬰」
続く問いにも藍忘機は間髪入れずに首を振った。何度訊こうが答えは同じだ、何故わからぬのかと咎めるように名前を呼ぶ。
「なあ……藍湛」
声がみっともなく震えるのを魏無羨は止められなかった。
「俺が、俺が本当は……」
魏無羨はそれを誰にも言ったことはなかった。これを言うのは本当に怖いから。
正しいことなのかどうかも分からない。そして間違いなく、藍忘機を傷つけるだろう。それでも、もう分かってしまった。彼だけは、それを心から喜んでくれる。
「……っ、本当は、もう一度一人で死ぬのは怖いんだって言ったら、お前は……」
「……魏嬰!!!」
痛いくらいに抱きしめられて、自分が真っ白な袖に包まれていることに気がつく。隙間なく合わされた身体から震えが伝わって彼の怯れを知る。
「よいのか、魏嬰」
連れて行ってくれるのか、と問うた男の声もまた震えていた。
姑蘇の春は遅く、睦月の空気はしんしんと雲深不知処に染み渡る。それでも。
固く抱きしめるこの人が孤独に震えることはもうないのなら、永劫の約束をこの夜の贈り物にすることは、きっと正しい。
魏無羨は道侶の胸の中で小さく、だがたしかに肯いた。
(了)