抱卵タビコに小さな卵を渡された。私が産んだんだと言うタビコに奇っ怪な冗談を言うものだと鼻で笑って見せると、至極真剣な顔で本当だと言うものだから面食らう。卵は一般的な鶏卵ぐらいの大きさで心做しか青みがかった殻を持つひどく冷たいものであった。
「温めるのはお前に任す。孵るまで割れないようにするんだぞ」
それじゃあといつも通りにタビコは仕事に向かって私と卵2人だけが家に残った。温めろと言われても吸血鬼の体温では具合が悪い。かと言っても湯で煮立たせる訳にもいかず、途方に暮れた私は野外の椋鳥に助けを求めると丁度産卵期だとかでついでに温めてくれるという。見返りとしてベランダの一角に巣作りと当面の餌やりを保証してやる。巣に置こうとするとそこには同じ様相の卵が4つ並んでいて自分の手元の卵と見比べるとこのまま置いてはどれがどれだかわからなくなるだろうと思いあたる。部屋にあったサインペンを片手に少し考え靴下のイラストを描いて、椋鳥の番には台所にあったイリコを分け与える。そうやって始まった抱卵は椋鳥の雛が孵化した後も終わることはなく、椋鳥の番と雛達はとっくに巣立って行ってしまった。仕方が無いので羽を入れた巾着袋にそっと卵を入れ、素肌に触れないよう首から下げる。最早手遅れなんじゃないかとタビコに聞いてみても彼女は慌てるんじゃないという。
「人間だったら10月10日だ。まあ少しのんびり屋なんだろう。気長に待とうじゃないか」
卵は非常に脆いものだ。下手に走ると袋が揺れて割れそうだ。そうこうしている間にタビコは戦闘中に命を落とし、私と卵だけが遺された。残務処理に走り回った後ふと卵の事を思い出す。卵は依然として卵のままで孵る気配は露ほどにもなかった。
透視を得意とする同胞に中身を聞いてみる。詳細はわからないが中身に生命の影は見当たらないとの事だった。
「偽卵、ではないでしょうか」
一通りの検分を終えたはらからが言う。
「鳥を飼育する者が使う偽物の卵です。鳥の中には産卵を終えたあと雛が孵らず卵を失うと再び産卵を繰り返すという習性をもつものがいます。そうした鳥に偽卵を与えると己が卵と見違えて産卵すること無く温め続ける。母鳥に余計な負担をかけないための卵です」
私が産んだんだと言ったタビコの顔を思い出す。ふざけた人間だったが嘘が言える奴ではなかった。割る方法なら探せるかもしれない言われたが礼を言って断る。割るだけなら私にでもできる。だけど到底そんな気にはなれなかった。
久方ぶりに旧友に会った。まだそれ持っているんだねと言われてその存在を思い出す程卵はもう己の一部のようになっていた。
「その人間との絆はそれ程強いものだったのだね」
そ奴は純朴に褒めそやしたが果たしてそうだっただろうか。見せてくれないかと請われて卵を差し出すと殻に描かれている物は何かと聞かれる。
「さあ、汚れかなにかであろう」
奴は不思議そうに卵を光に透かせ、ああこれは、としたり顔で卵を返してくる。卵の仔細を未だに知らなかった私が掘り下げようしても、今の君は理解できないだろうからねと旧友は言う。
「今、■■履いてる?」
言葉が理解出来ずに首を傾げる。
「ほおら、今君自分で自分に呪いをかけてるんだよ。誰も解けないはずだ。記憶に蓋をしないと自分を守れなかったんだろう」
旧友はエッグカッターをどこからともなく取り出してきて、私への贈り物だという。
「元々持っていなかった物を失くしたって痛くはないって魂胆だろうが、彼女はそれを許さないみたいだ。優しいんだか冷酷なんだかわからないね」
「卵を孵す方法はあるのか?」
「それは施術者の君のみぞ知ることだよ」
旧友は人の良さそうな顔で笑う。
「かつてかの国では絆と足枷は同義であったらしい。私の妻が昔言っていた。その卵はどちらだろうね」
私の胸の中心で卵は錘の様に垂れ下がっていた。
家に帰って靴を脱ぐと靴擦れができていた。治すのは造作もないことだが思わず舌打ちが出る。服を脱ぐ時卵を手にしてふと思い立ち、手持ちのエッグスタンドに載せてみた。ドラウスからもらったエッグカッターをあてがってみようとすると手が震える。どうやら私は卵の中身を知りたくないようだった。卵の殻にはブーメランに似た湾曲した棒が描かれていて、指の腹で擦ってみても消えることは無かった。長い間触ってみて私はこの卵を禄に触れたことがないことに気づく。こんな脆いものを触れるにしのびなく、ずっと腫れ物のように扱ってきたのだった。意を決して卵を手で包み待つ。やがて朝が来て、夜が来て、また朝が来た。確かペンギンだったか、雄が飲まず食わずで卵を温める種があったはずと夢うつつの中で思った。そうやって3日が過ぎて、手の中の卵にひびがはいった。もろもろと崩れていく殻を慎重に剥いでいくと布が僅かに見えてきた。ある程度まで割れた殻からそっと布を取り出していく。巻かれた布を広げるとそれは見覚えのある靴下で、確かに私のものであった。かつて私が奪われたもの。かつてそこにあった生活。そしてもう二度と戻らないもの。怒濤の勢いで甦る記憶に嗚咽しそうになって靴下を握りしめると、中にくしゃと紙の感触があった。靴下の中に手を入れると小さく折り畳まれた紙があった。それを広げるとタビコの字で「愛している」と書かれていた。生前ついぞ聞いたことの無い言葉であった。