Unreturnable「よし……こんなモンかな」
掃除機のスイッチを切って、ポップはぐるりと室内を見回す。
おかしな物が落ちていないことを確認し、溜まった埃をゴミ箱へ捨てた。
点けっぱなしのテレビからは、お天気お姉さんが可愛らしい声で、一日中快晴であることを伝えている。
世間では、今日から祝日を含めた三連休。
その休みを利用して、恋人であるダイがこちらへ来ることになっていた。
彼と付き合い始めたのは、今年の夏。
大学の夏休みを利用して帰省した際に、実は互いに好きだったらしい(もっともダイが自覚したのは、ポップよりもかなり後のようだったが)ことが発覚し、二人は付き合うことになった。
幼馴染で互いの家にも気兼ねなく遊びに行く仲、しかも互いに年頃ということもあり、実は付き合って早々にキスを済ませていたりする。
だが、ダイがまだ高校生であること、互いのことは誰よりも知った仲とはいえ付き合いたてであること、そして互いに家族のいる実家ではとてもそれ以上進む気にはなれなかったことから、そのままこうして遠距離恋愛をする形となったのだ。
それから数ヶ月。
高校の剣道場が改修工事に入る為に部活動が休みとなることが分かり、ダイはポップの所へ遊びに行きたいと告げた。
仲の良い幼馴染のポップの所ならばとダイの両親も了承したので、こうして実現に至ったのだ。
保護者の目を離れての、初めての泊まりがけ。
数ヶ月振りの再会に心が踊らぬはずもなく、ポップは陽気に鼻歌を歌いながら、室内を順番にチェックする。
と言っても、所詮ひとり暮らしの1K。
玄関からキッチン、バスルーム、トイレとあっという間にチェックを終え、最後にリビングに戻ってくる。
フローリングは先程念入りに掃除機をかけた。
ラグとソファも、隅々まで粘着テープを転がし、消臭スプレーを多めにかけておいた。
リネン類も、当然のことながら洗濯済みだ。
そして……ポップはベッド脇に置かれたカラーボックスに目をやる。
木目調のカラーボックスの上には、スマートフォンの充電器があり、その横に、まだぎっしりと量の詰まったティッシュ箱が置かれていて。
その下には、ファッション誌や漫画が数冊と、20cm四方程の中身の見えない収納ケースがあった。
ポップの中ではまだまだ出番はない予定ではあるのだが、万が一の時の為に用意した物が入っている。
彼は、そのような助言をしたバイト先の古書店の店主──マトリフの言葉を思い出した。
先月半ば、翌月のシフトの予定を尋ねられ、連休は休みにして欲しいと頼んだ時のことだ。
「なんだ……例の恋人か?」
にやにやとマトリフが指摘するのに、ポップは誤魔化してもしょうがないと腹を括り、「まあな」と答える。
どうもこの店主──色々と人生経験が豊富な大先輩に尊敬の意を込めてポップは師匠と呼んでいる──は感が鋭く、ポップが1を言うだけで10を見抜く……そんな人物だった。
現に夏休み明け、幼馴染と遊びまくった話をポップから聞いた彼は、「へえ、遠恋とは若いねぇ。ま、ヤロー同士は色々と面倒だから精々頑張んな」とニヤリとしたのだ。幼馴染が男で、しかも付き合い始めたなど一言も漏らさなかったのに──!
「そうか。じゃあしょうがねえから、休みにしてやるよ」
「サンキュー、師匠!」
「……ちゃんと準備しとけよ、ポップ」
「へ?あ、まあ、そりゃ部屋はきれいに片づけとくつもりだけどよ……」
「そうじゃあねえ」
「??」
マトリフの言葉にいまいちピンときていないポップに向かって、彼は告げた。
「ヤることヤるつもりなら、それなりの準備はしておけ、ってこった」
「……っ!!師匠!オレはそんなつもりは……」
「ばぁか。だからおまえはツメが甘いんだよ」
古書でパコンとポップの頭を小突くと、マトリフは言った。
「てめえがそんなつもりなくても、可愛い恋人がそのつもりだったらどうすんだ。指咥えて見過ごせんのか?んん?」
「……!!!」
「おまえの理性なんざぁ高が知れてんだ。精々、お楽しみの準備でもしとくんだな」
そう言うと、ケケケ、と笑いながらマトリフは店の奥へと引っ込んでいった。
──とりあえず……師匠の言った通り準備はしといたけどさ……。
収納ケースの中にある、アイテムを思い浮かべる。
──万が一、本当に万が一の為だからな!オレは、そんなとこまで進むつもりはねえからなっ!
一体誰に向けた言葉なのか……ポップがそうやって一人であーだこーだやっていると、スマートフォンからピロリンと音がする。
通話アプリを開くと、予想通りそれはダイからのもので、予定通りの時刻にこちらへ着きそうだとのことだった。
液晶画面の上部に表示された時間を目にし、ポップは焦る。
「やべえっ!そろそろ出ねえと!」
いつの間にかぼんやりとし過ぎてしまったようだ。
了解!というスタンプをダイヘ送ると、スマートフォンをパンツのポケットへ仕舞う。
テレビを消し、ジャケットを羽織ると、ボディバッグを片手に、ポップはバタバタと部屋を出て行った。
ダイの乗った電車がターミナル駅へ到着する五分前に、ポップもその駅に到着した。
普段から人出の多いこの駅は、連休初日ともあって予想通りの混雑具合となっている。
待ち合わせをした改札口付近の、改札内でダイを待つ。
同じような人達が待ち人と合流し、共に去って行くのを見ながら、ダイが来るだろう方向へと視線を走らせていると、ややあって人混みの中に目的の人物を見つけた。
地元とは全く違う人の多さに圧倒されたのか、彼は少し不安げな様子で辺りをキョロキョロと見回しており、まだポップには気づいていない様子で。
「ダイ!」
彼に向かってその名を呼び、軽く手を上げる。
喧騒にかき消されるかと思った声はちゃんと彼に届いたらしく、ポップの姿を見つけるとぱあっと顔が輝いた。
「ポップ―!!!」
まるで子犬が尻尾を振るように、ぶんぶんと大きく手を振り、こちらへ駆け寄ってくる。
──へへっ!……わっかりやすいヤツめ!
彼に会えるのはもちろん嬉しいが、それと同時に、会えて嬉しいのだとこうやってストレートに表してくれるダイが可愛い。
緩んだ頬を隠さず、ポップはダイを出迎えた。
「久しぶりっ!ポップ!!」
「久しぶり!つっても散々やり取りしてるけどな。何も問題なかったか?」
「うん!乗り換えも1回だけだし。でも、凄い人だね。あっちとは全然違うや」
おれびっくりしちゃった、と目を丸くして話すダイは、ネイビーのプルオーバーパーカーに、裾からは白のインナーをちらりと覗かせ、薄いブルーのデニムジーンズを履いていた。
そして荷物といえば、背中に背負うデイパック一つだけのようだった。
「まあ連休だしな。荷物、それだけか?」
一方のポップは、先程出掛けに羽織った黒のテーラードジャケットに、白のロンT、カーキのチノパンにボディバッグ。
きれいめを意識したスタイルだ。
「うん!ポップが服貸してくれるって言うから、殆ど持ってきてないよ。でも、本当によかったのか?」
「いいって言っただろ。背丈だってもう殆ど違わねえんだからさ」
「そっか。お陰で荷物少なくてすんだよ。ありがとな」
「お、おぉ……」
にこりと笑うダイに、ポップは少し後ろめたさを感じながら返事をした。
好きな相手に自分の服を着せてやる機会など滅多にない。
長年過ごしたそれぞれの実家が目と鼻の先にあるなら尚更だ。
身軽に来れていいだろうと思ったのは嘘ではないが、下心がない訳ではないというのがポップの本音だった。
「な、早く行こう!時間もったいないし」
くいくいとダイがポップの腕を引く。
「だな。んじゃ、早速行くか。話してたルートでいいんだな?」
「大丈夫だよ」
「おし。じゃあこっちだ」
そう言って二人は、目的地へ向かう電車のホームへ向かう為に歩き出した。
タタンタタンと電車に揺られながら、移りゆく車窓を眺めるダイの横顔はひどく楽しそうだ。
今回の予定は、ダイが行きたいと言った場所を聞いて、ルートをポップが考えた。
向かう目的地はちょうどそれぞれが対角にあり、移動時間はそれなりに要するものの、一日あればまあ回れるだろう。
ポップとしては、定番の有名テーマパークで一日中朝から晩まで遊び倒しても良かったのだが、「夜は二人だけでゆっくりしたいから」などとダイが言い出したものだから、その意見に素直に従ったのだ。
そんな発言をされれば否が応でも期待は高まるものだが、ダイのことだから、そんなに深い意味はないだろうとポップは思うことにしたのだった。
そんな事を思い出しながらダイと会話をしていれば、あっという間に目的地の駅に到着する。
若者らがぞろぞろと下車していくのに、二人も続く。
改札を出ると、ダイは驚きに立ち止まった。
「わあー!すごいね!人が一杯だ!!」
「さっきからそればっかだな、おまえ」
どこの田舎者だよ、とポップが苦笑した。
「なんか見たい店でもあんのか?」
「おれ、クレープ食べたい」
「ああ……そういうこと」
どうやら色気より食い気らしい。
「んじゃ、どっかの店で並ぶかぁ」
「うん!」
話しながら、人混みの中へ紛れ込んで行く。
「はぐれるなよ?」
「大丈夫だって!あっ!ポップ、あそこにあるよっ!」
「ちょ、ちょっと待てって!」
男女のカップルならば手でも繋いで引き留める所だが、自分達は男同士。
中学生カップルですら出来ることが出来ないことに、歯痒さを感じながら、ポップはダイの後を追った。
ダイの希望通りにクレープに齧りついたあと、だらだらと歩き、隣駅の有名な交差点へと向かう。
「あ!あの交差点!よく見るとこだよね?」
「ああ。そうだな」
「やっぱり!ほらポップ!早く行こ!」
早く早くと急かすダイに、ポップは着いていく。
──ったく。そんなに楽しいかねえ……たかが交差点が。
きっと彼の中ではそれだけではないのだろう、と思うのは自惚れだろうか。
それでもこうして数ヶ月振りにはしゃいだ姿を目にすると、やはりポップもまた嬉しさがこみ上げる。
「おい!ちゃんと前見ろよ!ぶつかるぞ!!」
「分かってるってば!」
何でもない会話も、機械を通さずにこうして出来ることが、楽しい。
周辺の商業施設を冷やかし、適当な店で昼食を済ませると、今度は地下鉄に乗り次の目的地へと向かう。
今いる場所は始発駅。そして下車予定の駅は終点。
乗車時間も長い為、二人は座席に並んで座った。
暫く会話をしていたが、腹も膨れた状態かつ心地良い揺れが眠気を誘うのか、ダイがふわあと欠伸をひとつ洩らした。
「寝ててもいいぞ。着いたら起こしてやっから」
「んー……でもポップともっと話したい……」
「また後でいっぱい聞いてやるよ。ほれ、荷物寄越しな」
「……うん」
愚図るような素振りを見せたダイだったが、眠気には勝てなかったようだ。
彼の膝の上に置かれていたデイパックをポップが自分の方へと移すと、ダイはポップの声に素直に頷き、瞼を閉じた。
──あんだけはしゃげば、そりゃ疲れるわな……。
そのまま眠るダイを見つめていたかったが、周りの目もある為、ポップはスマートフォンを弄る。
暫しの間そうしていると、ダイはこくりこくりと船を漕ぎ始めた。
ちらりと横目でダイを見たその時、カーブに差し掛かった車体がガタンと揺れ──。
その拍子に、ダイの頭はこてんとポップの肩へ凭れる形となった。
先程よりも近づいた距離。肩にかかる重み。仄かに届くシャンプー香り。すうすうと聴こえる寝息。
久方振りの至近距離が、ポップの神経を刺激する。
──おいおい、マジかよ……!終点まで……ずっとこのまま……!?
嬉しくないはずがない。だけど数ヶ月振りに再会してからのこの距離は少々困る。
──クソッ……!平常心、平常心……!!
終点までの約三十分、ポップは悶々とした思いで到着を待つこととなるのだった。
終点に到着し地下鉄を降りると、ダイはぐっと大きく伸びをした。少し寝たことですっきりしたのか、表情は晴れやかだ。
一方のポップは、何故か少し疲れた様子で、こっそりと溜息をついた。
「あれ?ポップどうしたんだ」
「……いや、別に」
「悪かったよ、寝ちゃって。退屈だっただろ」
──退屈ならば、どんなに良かったか。
そんな言葉をポップはぐっと堪え、改札へとダイを促す。
「気にしてねえよ。ほら、あっちだ。行こうぜ」
「う、うん……」
腑に落ちないような顔をしながら、ダイはポップの後を追った。
到着したのは、下町の有名観光スポットだった。土地柄か外国人の姿も目立つ。
その地の象徴ともいえる建造物の辺りまで行くと、そこはやはり大勢の人で溢れかえっていた。
「こっちはどこに行っても人が多いね」
「んなこたねえって。オレたちが人が多いとこばっか行ってるからだろ」
感心したように呟いたダイに、ポップは思わず突っ込む。
人の波に紛れながら、ゆっくりと進んで行く。
途中の店で買い食いなどをしながら歩いて行き、やがて観光地の中心である寺へと辿り着いた。
参拝を済ませ、おみくじを引く。
いっせーのせ、で同時に見ると、二人とも結果は大吉だった。
「やりぃ!」
「良かったね!」
二人してにこにこと顔を見合わせる。
──そりゃそうだ!コイツといて、凶になる訳がねえだろ……!
ダイといれば全てが上手く行く──それが惚気だとしても、今のポップにはそうとしか思えないのだった。
次に二人が向かったのは、このエリアを一望できるタワーだった。ショッピングモールも併設されたその施設は、やはりそれなりに人はいたものの、入場するのにチケットの必要なタワーに上がってしまえばそこまで人も多くなく、二人はゆったりと地上を見下ろすことが出来た。
覗き込むようにして下を見下ろすダイに、ポップは、あの施設は何何だの、あの辺りは何処そこだのと丁寧に解説してやる。
ダイはそんなポップの話をうんうんと聞きながら、眼下の景色を眺めた。
ふと、ダイが遠くの方を見つめ、目を細める。
「どうした?」
ポップが声をかけると、ダイは口を開く。
「あの……ずっと向こうに、おれたちの地元があるんだよね」
そう言って、すっとある方角を指差した。
「ああ……そうだな」
ポップが静かに頷く。
「……遠いね」
ポツリ、と一言ダイが吐き出す。
──本当は、毎日ずっと一緒にいたい……あの頃みたいに。
その気持ちは、ポップもダイも同じだった。
「また……会えるって。すぐに」
──おまえの気持ちは分かってる。
そう伝わるように、ポップは、手摺りを握るダイの左手に、そっと自分の右手を重ねた。
ダイは驚いた様にポップを見つめた後、微笑んでまた前を向く。
「……うん」
黄昏時の街並みを、二人は夕陽が沈むまで眺めていた。
ショッピングモールのレストランで夕食を食べ、ポップのマンションのある最寄り駅に到着したのは、午後9時を少し過ぎた頃だった。
ポップの住んでいるこの辺りは、下町風情を残しながらも、最近はおしゃれなカフェなども増えており、ここ数年注目を浴びている場所だ。
アクセスも良く、ポップの通う大学、そして──これはまあ後から通いやすい場所として選んだのだが──ポップのバイト先にも乗り換え無しで行くことができる。
不動産屋を巡った際、程よく都会で、でも自然の多い地域にあり、しかも相場よりも若干家賃が安かったということで今住んでいるマンションに決めた。
築年数はあるが、リノベーションを終えたばかりの綺麗な物件。
駅徒歩も数分。
都会での生活に多少の不安はあったものの、案外住み心地も良く、ポップはこの土地と今の住まいを気に入っていた。
帰宅前に、最寄りのスーパーへ寄り、飲み物などの買い出しをする。
「お酒、飲んでもいいよ?」
アルコール飲料のコーナーを通りがかり、ダイがポップに声をかけた。
「ん?あー……いや、いいよ」
「なんで?」
「いや……一応未成年の前だし、酔っぱらっちまうのはちょっと……」
「ふーん……」
ダイは納得したのかしていないのか、曖昧な相槌を打つ。
「……何かあったら困るし」
「え?」
「いやっ!何でもねえよ」
ゴニョゴニョと呟いたポップの声は、ダイには聞こえなかったらしい。
「……おれは気にしないのに」
ダイが呟く。
──だから、そういう誤解しそうなことを言うなっつーの!
「ほら、買うもんカゴに入れたらレジ行くぞ」
ダイの言葉には聞かなかった振りをし、レジへと向かう。
会計になり、ポップがポイントカードのアプリを提示したのを見て、ダイが尋ねた。
「ここ、良く来るんだ?」
「ん?ああ、そうだな。食料品買うのはいつもここだし」
袋詰めの台へと移動し、買った品物をエコバックへと二人で詰めていく。
「野菜、割と安いんだよ」
「へえ。自炊頑張ってるんだね」
「まあな。あと、大学の仲のいいヤツらに作れって催促されるんでな」
「え?」
「レポート提出前にな、よく家に来るんだよ。んで、夜食作れって言われる」
「……そうなんだ」
「ったく。男の手料理の何がいいんだか」
「…………」
「ん?どうかしたか?」
「あ、ううん!なんでもない!」
「そっか?よし、帰るか」
カゴを所定の位置に戻すと、マンションへと向かう。
──なんだ?
ポップより半歩ほど後ろを歩くダイのテンションが、先程と違うことにポップは気づいた。
──さっきまで普通だったのに……。
「ダイ、どうした?疲れたのか?」
「……ううん。大丈夫」
──やっぱ、おかしい……。
暫く二人は無言で歩いた。
「……なんかさ」
ダイが、ぼそぼそと話す。
「羨ましいなぁって思ったんだ」
「羨ましい?」
「うん。ポップの友達」
「……そうかぁ?」
「だって……いつでもポップに会えるし、ご飯だって作ってもらえるし」
「……!」
「……ちょっと、悔しいな」
そう言って、ダイは寂しそうに笑った。
「ーーーっ!早く帰るぞ……!」
人通りが少ないのをいいことに、ダイの手を握ると、早足でポップは歩き出す。
互いに無言のまま、100mほど歩いた所でマンションに着くと、エレベーターに乗り、ボタンを押した。
五階の角部屋、それがポップの部屋だ。
扉の前に立ち、バッグからキーケースを取り出す。
ガチャガチャと、鍵を開ける時間すらもどかしい。
扉を開け、先に中に入ると、暗闇の中、手に持っていた荷物を投げるように置く。
どうせ、割れるような物は入っていない。
まだ外にいたダイの腕をぐいと中へ引き込むと、そのままその身体を玄関の壁に押し付ける。
バタンと扉が閉まるのと同時に──キスをした。
ダイが、いじらしく、また愛おしい。
そんな顔をするなよ、と本当はその場で抱き寄せたかったが我慢した。
電気を点ける間も惜しい。今すぐキスしたい。
完全な二人きりになった途端に、我慢が出来なくなった。
会えなかった月日を埋めるように、数ヶ月振りのダイの唇を貪る。
「……は……ポッ……!ん……ふ……っ……!」
ポップの想いに応えるように、ダイの手がポップの背に回り、ジャケットをぎゅうと掴む。
暗がりのしんとした玄関に、二人の息遣いと水音が響く。
「……っ……浮気……してねぇだろうな……?」
「ん……する訳……ない、だろ……っ!は、ぁ……ポップこそ……!」
「んな暇あったら……バイト代稼ぐっつうの……っ!」
ちゅ、ちゅ、と唇を食みながら、軽口を叩く。
舌を吸い、絡める内に、ポップは下半身に覚えのある熱を感じた。
思わずそのまま自らの下半身をダイの身体に押し付けようとした所で、雑に置いたエコバックの中身がガサリと崩れ、その音に我に返ったポップは唇を離す。
「わ、悪りい……いきなり」
速攻でがっついてしまったことを反省し、電気を点けると、ダイは耳までを紅くしてぽうっとした表情を浮かべていた。
──耐えろ!耐えろ、おれ!!
「は、入れよ。広い部屋じゃねえけどさ」
慌てて視線を外し、施錠をする。
荷物を持つと、先に室内へ上がった。
「あ……う、うん……お邪魔します」
照れたようなダイの声を背に、ポップは早くも己の理性が崩壊しかかっていることを自覚した。
買った飲み物を冷蔵庫に仕舞うと、ポップはダイにシャワーを勧めた。
決してやましい気持ちがあった訳ではなく、朝から一日中動き回って、早くさっぱりしたいだろうと思ってのことだった──ポップ自身、高ぶった気持ちを落ち着けたいという意図もあったが。
「ほら、これ使えよ」
クローゼットから寝間着代わりのTシャツとスウェットパンツを取り出すと、ダイヘ手渡す。
「ありがとう。じゃあ、先にシャワー浴びてくるね」
「ああ。風呂場のモンは適当に使っていいからな」
衣類を持ったダイをバスルームへ見送ると、ポップは頭を抱えた。
──師匠……!やべえって……!!おれ、やっぱ早まったかも……。
何事もなくこの夜を乗り越える自信が、正直ポップにはない。
本番までは行かないまでも、キスだけで終わらせられるとは到底思えなかった。
──どうする……?どうする……あいつが寝落ちするまで何もしないで待つか?いや、無理だ。キスぐらいはしてえ。でもキスだけで満足する自信がねえ。マズい……!非常にマズい……!!
ぐあああ、と声には出さず悶えている内に、がちゃりとドアを開け、ポップの服を着たダイが戻ってきた。
「……どしたの?」
怪訝そうなダイに何でもないと返答し、彼に貸し出す為にドライヤー、消臭スプレーとハンガーを用意する。
手渡そうとダイを見れば、Tシャツの肩口辺りをすんすんと嗅いでいた。
「なっ、なんだよ!ちゃんと洗濯したぞ」
生乾きの臭いでも残っていたかと焦って文句を言えば、ダイはにへらと笑いながら答えた。
「……ポップの匂いがする」
「ーーーーーっっっ!!」
──確かに、服を貸してやると言ったのはおれだがっっっ!!!
自らが招いた事態とはいえ、そのような返事をされてはポップは何も言えず。
「ふ、風呂入ってくる!!!」
がばっとクローゼットの扉を開き、部屋着と下着を出すと、
「それ、使っていいからな!!」
先程用意した物を指差しながらそう言い捨て、バスルームへと向かった。
──何だ何なんだよ、あいつ誘ってんのか
シャワーを頭から被り、自分に言い聞かせる。
──あいつは子供。あいつは17。手を出したら親父さんに殺される。
自分の父親とはまた違う威圧感を持つダイの父親が、怒り心頭に仁王立ちで目の前に立ち塞がる様を想像すれば、少しだけ冷静さが戻ってきた。
髪を洗い、身体を洗いながら、ある場所で動きを止める。
──ヌいとくか……?いや、変に遅くなっても怪しまれるか……。
油断すると直ぐに元気になろうとする自身に、辛抱しろよと謎の慰めの声をかけると、ポップはバスルームを出た。
部屋へ戻ると、ダイはソファでスマートフォンを弄っていた。
家に到着したことを父親に伝えていたらしい。
「羽目を外しすぎないように」だってさ、と笑いながら言った。
──こえー。おれらの関係に気づいてんじゃねえだろうな……。
恐ろしい想像を軽く頭を振って霧散させると、髪を乾かし、先程購入した菓子と飲み物を用意する。
お疲れ、と言って乾杯し、飲み物を口に含むと、シュワシュワとした炭酸が喉で弾けた。
とりとめも無い話をしながらソファで隣同士くっついていれば、自然と互いの顔が近くなる。
最初はそっと唇を合わせるだけだったキスが、湿り気を帯びたものに変わるのにそう時間はかからなかった。
「ん……ポップ……」
「は……ダイ……ッ」
リップを塗ったように赤く色づいた唇をちゅう、と吸えば、ダイが甘えるような声でポップを呼んだ。
互いに腰を抱き、くちゅくちゅと音をたてながらキスに酔いしれていれば、当然のことながら、一度は治まった熱が蘇る。
「……っっ!あーーーーっっ!!!ダメだダメだっっっ!!!」
両手でダイの肩を掴み無理矢理身体を離すと、瞳を潤ませたダイがきょとんとした顔になる。
「え……どうしたんだ?」
「ダメだっ!やっぱり!!これ以上はダメッッ!!」
いきなりそんなことを言われ、ダイは口をへの字に曲げた。
「ダメって……ポップはおれとこういうことするの嫌なのか?」
先程とは違う意味で瞳を潤ませるダイ。
誤解をさせた、とポップは慌てて弁解する。
「ちっ、違えよ!んな訳あるかっっっ!!!」
「じゃあ何で……」
「……これ以上やると、先に進みたくなるだろ」
「えっ」
ダイから目を逸らしながら、ポップは言った。
「まだ……早えぇだろ。オレはともかく、おまえには」
「…………」
「おまえ、まだ17なんだし、もうちょっと、せめて高校卒業するまでは……」
邪な想いを抱いていたことに、幻滅されたかと思ってダイを見る。
だが彼の予想とは裏腹に、ダイはむうっと唇を突き出しポップを睨んでいた。
「な、なんだよ……」
「あのさぁ……おまえ、おれのことまだちっちゃなガキだと思ってるだろ」
「ガキって……あのなぁオレはおまえのことを思ってだな……」
大人の余裕(実際余裕はないのだが)を見せつけようとしたポップの声を遮ると、ダイは言った。
「そりゃおれは17だし、20のおまえに比べれば子供だけどさ!」
そう言って、デイパックをゴソゴソと漁ると、取り出した物をバン!とローテーブルに叩きつける。
「おれだってこういう物買ってもおかしくない歳なんだよ」
「な……」
ダイの取り出した物を見てポップは固まる。
赤地に0.01とデカデカと書かれた、手に収まるぐらいの、薄い箱。
「おま……!それ……!」
「……言っとくけど、使ったことあるんだからな。おれだって」
「……!!!……いつ……」
「……去年の夏」
ぷいっと目を逸らしながら、ダイが答えた。
顔が、少し赤い。
ああ……と、ポップは思い出す。
ダイは、以前レオナと付き合っていたのだ。
彼女の性格を考えれば納得がいく。
奪っちゃった〜ゴメンナサイね、と脳内の彼女がポップに向かってほくそ笑む。
「そうだよなー……だよなー……」
衝撃的な事実に思った以上に落ち込んだ様子を見せたポップに、ダイは呆れながら言う。
「大体ポップだって前の彼女とシてただろ。お互い様じゃんか」
「それはそうだけどよ……」
自分のことは棚に上げて、「でもよぅ……」とぶつぶつと文句を言うポップ。
ダイはそんな彼に溜息をつくと、ポップの顔を両手で掴み、目を合わせて告げた。
「だから……シよう!ポップ!!」
「は!?え!?いや、ちょっと待てって!」
「ヤダ。待たない。そんなことしてたら朝になっちゃう」
ダイは一方的にそう言うと、ポップの手を掴み、ベッドへ向かおうとする。
「イヤイヤイヤ!だから待てって!!」
ポップがダイの手を振り払うと、ダイはぶすっと頬を膨らませた。
──何だよ、もう!?何でこんな積極的なんだ、こいつ。これじゃまるで、オレがヘタレみてえじゃねえか!?
ダイの剣幕に若干ビビりながらも、これは何もなしには済ませられなさそうだと察したポップは、仕方なくある提案をする。
「よ、よし……!じゃあ、こうしよう。先に進まねえのがイヤだっつうなら、お互いに触ってヌこう。但し、本番はなし。また今度にしよう……な?これならいいだろ?」
先に進むのはまだ早いと言うポップと、早く先に進みたいダイ。
ポップとしては妥協したつもりだった。
「……嫌だ。よくない」
だがダイはまだ納得出来ないらしい。
「ダーイー?おまえいい加減に「だって……!」
せっかく必死に耐えようとしていることを、簡単に覆そうとするダイに、いい加減にしろとポップが言いかけたのを、ダイが遮った。
「また今度って……そんなのいつになるか分かんないじゃん!」
「ダイ?」
俯き加減で、悔しそうに唇を噛むダイ。
「次、いつ会えるのかも分かんないし。会えたとしても、地元じゃこんなこと出来ないし。今回は父さん達も来るのを許してくれたけど、来年おれは受験だから次は来れないかもしれないし」
「…………」
「おれが卒業するまでなんて待てない。おまえ、きっとモテるだろうし、女の子大好きだし、その間に誰かに盗られたりなんてしたら嫌だよ……!!」
「ダイ……」
悲痛な顔をして、ダイはそれきり黙ってしまった。
ポップは考える。
ダイの為と思って、手を出さないように自制したつもりだった。
まだ子供だから、これ以上自身の欲望に付き合わせたら駄目だと思っていた。
でも、ダイは先へ進みたがっている。
自分達の関係が終わるのを恐れ、不安がって。
ポップとて、何もダイを突き放したい訳ではないし、何よりも悲しませたい訳ではないのだ。
──覚悟……決めるっきゃねえだろうがよおっっ……!!
ぐっと拳に力を入れる。
俯いたままのダイの頬に手をやり、上を向かせると、そっとキスをした。
「……分かったよ、ダイ。だから、そんな顔すんな」
「ポップ……」
「……本当に、いいんだな……?」
「……!うん……!!」
へにゃり、とダイが笑った。
******
翌朝──
ポップが目を覚ますと、目の前にはまだ静かに眠るダイの顔があった。
悔しいかな、マトリフの言った通り、ポップの決意などあっさりと覆され、それにより事前の準備も有効的に活用され。
昨夜は結局、若さのままに二人は何度も身体を重ねてしまったのだった。
──ヤッちまったらマズい……って思ってたはずなんだけどなぁ……。
しかしながら、一線を越えたことを反省こそすれ、後悔はない。
この、目の前の、大事な大事な幼馴染を手に入れたのだから。
ぼんやりとダイの寝顔を眺めていると、瞼が震え、ダイが目を覚ました。
「ん……」
「おはよう、ダイ」
寝ぼけ眼でこちらを見つめる彼に微笑んでやると、つられたようにダイもふわりと微笑む。
「おはよ……ポップ」
幸せそうに笑う彼を見ると、こちらも心がじんわりと暖かくなる。
「今何時だ?……ゲッ!?もう昼前!?」
ベッドサイドに置いたスマートフォンを見ると、正午まであと半刻ほどの時間であった。
「もうそんな時間なんだ……全然目、覚めなかったよ」
「ん……まあ、激しい運動……したからな」
「あ……そっか……」
何となく互いに照れくさく、二人の間を微妙な空気が支配する。
「と、とりあえずシャワー浴びて、飯でも食おうぜ。作ってやるから」
「えっ!?ポップが作ってくれるの!?」
空気を変える為にポップが口にした提案は、予想以上の効果があったらしい。
先程までの妙な雰囲気が、あっという間に霧散した。
「ああ。食いたいんだろ、オレの手料理」
「うんっ!食べたいっ!!」
「あいよ。んじゃ、先にオレがシャワー使うぜ。おめえが入ってる間に、作り始めちまうから」
「ふふ。ありがと」
くしゃりとダイの頭を一撫ですると、ポップはバスルームへ向かった。
器にこんもりと盛られたチャーハンが、あっという間に消えていく。
チャーシュー入りのチャーハンと、小葱と生姜を入れただけの中華スープは、冷蔵庫のあり合わせで作った物だったが、ダイを十分に満足させた。
「うん!上手いよ、ポップ!!よくこんなに美味しいの作れるね!」
昨日クレープを食べた時よりもキラキラした瞳で、ダイはポップを見つめた。
「そうかぁ?別に普通じゃねえ?」
「そんなことないって!やっぱりおまえは天才だよ!」
「褒めてもなんにも出ねぇぞ……ってもう食ったのか!?量、足りなかったか?」
「ううん!十分だよ!美味しかったぁ!!」
米粒ひとつ残さず綺麗に平らげた皿にレンゲを置き、ダイは「ご馳走様でした」と手を合わせた。
「お粗末様でした。そりゃあ良かったよ」
そう言い、ポップもチャーハンの残りを掻き込むと、食器を置いた。
時計はもうすぐ午後1時になろうかという頃。
TVのバラエティ番組では、連休に合わせたのか近郊のレジャースポットを紹介していた。
「今日、フリーにしといて良かったよな。今から出たんじゃあんまりゆっくり出来ねえもんな」
麦茶をグビリと一口飲みながら、ポップは思い出した。
3日間の予定を一緒に立てている時、この日はフリーにしておこうとダイが提案したのだ。
『1日目で回ってる時に、何処か行きたくなるかもしれないし、予備日だよ』
そう付け加えたダイに、一理あると思いポップも同意したのだが。
「う、うん……そうだね……」
視線を明後日の方へと向けながら相槌を打つダイ。
そんな彼には気づかず、ポップは、昨日から思っていたことを口にした。
「そういえばよぉ……おまえ、無自覚なのも大概にしろよ?」
「え……な、何が?」
「……あんまり期待させるような言動はするなってこと」
「……!」
「オレだって、色々苦労してんだからなー」
ぶつぶつと文句を言いながら、食べ終わった食器を一つに纏める。
「……自覚、ありなんだけどな」
──ガシャン!
届いた声に、持ち上げかけた食器をテーブルに落とす。
──あっぶねぇ!皿割っちまうとこだったぜ……!って、なんかオレは今重大発言を聞いた気がするぞ!?いや、多分オレの勘違いだよな……。うん、ちょっと落ち着こう、オレ。
うんうん、とポップは一人で頷くと、今度こそ食器を持つ。
「皿、洗ってくるな」
「あ!じゃあおれも手伝うよ」
「お、おう。サンキュー……」
二人でキッチンに立ち、ポップが洗った食器を、ダイが受け取り布巾で拭いた。
全てが終わると、また部屋へ戻り、ソファへ並んで座った。
「…………」
「…………」
「あ、あのさぁ……さっき……」
「うん」
「……おめえ、なんつった?」
ちょっと聞き取れなかったわ、とポップは言った。
「……だから、自覚ありなんだけど、って」
「…………は!?」
未だ理解の出来ていないポップの態度に、ダイは呆れたように言った。
「やっぱりおまえ気づいてなかったのか。おれ、すっごく頑張ったのにな」
「は?え!?……!?」
「おまえ、オープンスケベな割に、いざとなったら自分からはそういうことしなさそうだなと思ったから」
「…………」
空いた口が塞がらない。
──ああ、そうだな。オレはおまえとこういう関係になるのは、まだまだ先だって思ってたからな。本当によく分かってるよ、オレのこと。
流石に恥ずかしくなってきたのか、頬をほんのりと赤く染めたダイがぷいとポップから顔を背けた。
「まさかあんなに気づかないとは思わなくて、結局ああなっちゃったけど……」
ああ、とは昨夜の積極的な態度のことだろう。
ダイがあれやこれやと思わせぶりな発言をしてきたのに、ポップは先に進もうとせず、あまつさえそれ以上進む気がないと言う意思を見せたことに我慢が出来なかったらしい。
「自覚ありっつうのはもしかして……」
「うん」
「前に、夜は二人だけで過ごしたいって言ったこととか……?」
「……そう」
「敢えて今日の予定を入れなかったのも……?」
「だって、上手く行ったら早く起きれないかなって」
「まさか、酒飲んでも気にしないっつったのも……」
「酔った勢いでも、おれは気にしないよ」
「…………」
「……ポップ……?」
「……………………そいつは悪かったなぁ」
たっぷりとした沈黙の後、ポップがにやりと不気味な笑みを浮かべ、ダイはぎくりとした。
「そうかそうか。じゃあ地下鉄でオレの肩にもたれかかってきたのも、寂しそうに羨ましいっつったのも、オレの匂いがするってクンクンしてたのも、全部オレを誘ってたっつう訳だな」
「え?いや、それは別に……っていうか、ち、地下鉄って何……?」
「おまえがそんっなにオレとヤりたがってるとは思わなかったぜ」
ガシッとダイの腕を掴むと、ソファから立ち上がり、先程まで寝ていたベッドへと再度向かう。
「いや、悪りい悪りい。じゃあその分の埋め合わせはしとかねえとな」
「いやそれはもう昨夜……」
「ニ ブ く っ て ご め ん な 、 ダ イ」
******
ダイが再び目を覚ますと、部屋の中はシーンと静まり返っており、この部屋にはダイ以外の気配は存在していなかった。
「あれ?ポップ……?」
視線を手近な所へ彷徨わせたダイが見つけたのは、1枚のメモ。
『ちょっと買い出しに行ってくる ゆっくり休んでな』
──なんだ、買い物行っちゃったのか……。
昼間に冷蔵庫を覗いたときロクな物が残ってないと言っていたから、夕飯の為にわざわざ出かけたのだろう。
ぱたりとまたベッドへ倒れこむ。
いつの間にか、ベランダから差し込む陽の光が白からオレンジに変わっていた。
なんの気なしに部屋をぐるりと見渡すと、ベッドの横に置かれたゴミ箱が目に入る。
山盛りのティッシュと、その中に紛れる封の開いた黒い四角形のビニールパッケージ、そして使用済みのティッシュに包まれている為に直接は見えないが、白濁液が入った透明の──。
先程の出来事を思い出し、ダイは思わず枕に突っ伏した。
しばらくそうして羞恥に悶えていると、がちゃりと玄関から音がした。
「お、起きてたか」
グレーのプロオーバーパーカーにデニムパンツという、昨日よりもラフな服装をしたポップは、エコバッグをドサリと降ろした。
「ごめんよ。起こしてくれてよかったのに」
「んにゃ、構わねえよ……少し休めたか?」
「え?あ、うん、多分」
「そっか。そりゃよかった」
別段気にした風もなく、ポップはバッグから小さめの紙袋を取り出すと、それをベッドサイドに置く。
そして再びエコバッグを持つと、食材をしまいにキッチンへと向かった。
ポップの作ってくれた夕食は、豚肉の生姜焼きだった。
昼に使った生姜を使い切ってしまいたかったのだと言う。
付け合せは千切りキャベツと、くし切りのなトマト、皿の端にはマヨネーズも添えられて。
大根と人参のピクルス、そしてほかほかの白米にわかめと豆腐の味噌汁という、男子大学生にしては手の混んだ料理を配膳されて、ダイが喜ばないはずがなかった。
「ふあぁ〜!美味しい〜!!」
「よしよし。たんと食えよ。お代わりいるか?」
「うん!食べる!!」
「はいよ」
にこにこと幸せそうに食べるダイを見て、ポップも嬉しそうに笑う。
こうして2日目の夜は、穏やかに更け──
******
翌日──
昨日よりかは早めに起きた二人は、朝食を軽く食べた後身支度を整え、出発の準備を済ませた。
ダイが帰る予定の電車時間にはまだ随分余裕があるが、帰る前に家にお土産を買っていきたいとダイが言ったからだ。
外出後はどこかで昼食を食べ、その後土産物を調達する予定であった。
「忘れもんはねえか?」
部屋をぐるりと見回し、ポップがダイに声をかけた。
「うん……大丈夫だと思うけど……」
部屋を見つめながら、ダイは歯切れの悪い返事をする。
「ん?どうした?」
「……次は、いつ来れるのかなぁって」
「ダイ……」
「なんかさ……なんか色々あったけど、ずっとおまえといられて楽しかったし……嬉しかったなって」
ヘヘっと照れたような表情でダイは言った。
「そっか……オレも、嬉しかったぜ。オレの当初の予定と大分変わっちまったけどな」
この3日間の出来事を思い出し、ポップも照れながら笑う。
ダイはそんなポップを見つめる。
眉を寄せきゅっと口を噤むと、手にしていたデイパックをドサリと落とし、ポップに抱きついた。
「……帰りたくないな」
「……オレだって……本当は帰したくねえさ」
ダイの背に手を回し、ポップもしんみりと言葉を吐き出す。
「……浮気、するなよ」
「おれのこと信用出来ねえ?」
「信用はしてるけど……おまえ、女の子好きじゃん。特におっぱい」
「うっ……!否定はしねえけど……!けど、女の子よりも!!1番好きなのはおまえだからな!!!」
「本当に?」
「本当だっつの!おまえこそ、オレが言ったこと守れよ!」
「えー!?アレ、本気だったの!?おれ、着替えらんないじゃん!」
「だから、それは妥協しただろーが!背中はしょうがねえ、って」
「いや、おかしいだろ!男がおっぱい隠してたら」
「うるせえな!おまえのおっぱいはオレのなの!見せたらダメッ!!いいな!?」
「分かったよ、もうー……」
ポップの理不尽な主張を、ダイは渋々受け入れた。
******
「あー!!もう!どうしてくれるんだよ、コレ!!」
「あーあ……盛大に汚れちまったなぁ」
ダイとポップが見ているのは、ダイの着ているパーカー。
予定外の運動により、初日に来てきたネイビーのプルオーバーパーカーには、腹の辺りに汚れが付着していた。
例え拭き取ったとしても染みはすぐに消えそうにない。
しかも、一旦汚れが付いたその服をそのまま着続けるには、些か抵抗があった。
「うえぇ……どうしよう……」
ティッシュで汚れを拭きながら、途方に暮れるダイ。
「とりあえず脱げよ、それ」
「ん?……うん」
ポップの言葉に、ダイが従う。
ポップはうーんと考えた末、彼が着ていた服を脱ぐと──
「わっ!?えっ?何?」
パーカーを脱いだダイに、そのまま彼の、グレーのプルオーバーパーカーをすぽんと被せた。
「それ、着てけよ。貸してやる」
「え……!」
「こっちは、オレが預かっとくから。交換。な?」
ダイの、ネイビーのパーカーを持ち上げて見せる。
「返すの、次に会う時じゃなくても……ずっとずっと先でもいいから……。なんなら、返さなくてもいいし……おまえが持っててくれよ、ソレ」
それはポップの願いだった。
単なる服の貸し借りではなく、互いの物を共有するこの関係が、ずっとずっと続けばいいという願いを込めた約束。
そんな意味を、付き合いの長いダイが分からないはずもなく。
「いいの……?そんな事言ったら、おれ、ずっと返さないよ?」
パーカーの襟元を握りながら、ふふっとダイは微笑んだ。
「おう、持っとけ持っとけ!オレも当分返すつもりねえからな」
ポップも、ニカッと満面の笑みを浮かべる。
「……っと、そろそろ出ねえとマズイな!」
「あっ!もうこんな時間じゃん!急ごう!!」
二人は大慌てで再度身支度を整えると、マンションから出発した。
ゆっくりする時間のなくなった彼らは、結局そのままターミナル駅へと向かい、そこでファーストフードを貪ると、お土産の購入を済ませた。
間もなく3時半。まだ夕暮れには早い時間だが、あまり遅くならないうちに地元へ帰してやらねばならない。
2日前に再会を喜んだ改札前で、二人は離別を惜しむ。
楽しげに会話をしながらどこかへと向かう同年代の若者らが、彼らの周囲を通り過ぎていく。
またお互いにいつもの日常に戻るだけだ。
毎日、スマートフォンで連絡を取り合う日常に。
そう理解しているのに、心地良く触れ合っていた時間を1度味わってしまえば、別れがたいのも必然だった。
「約束、守れよ」
「分かってるよ。出来るだけ気をつける」
ポップの言葉にダイが頷く。
代わりにダイはポップに釘を刺す。
「女の子ばっかり見るなよ」
「ああ。ちゃんと昨夜撮ったおまえの……」
「バ、バカッ!そういう意味じゃなくて……!」
「大丈夫だって。心配すんな……端からおまえ以外見ちゃいねえさ」
「……っ!!!」
「ほら、そろそろ行かねえと。間に合わねえぞ?」
口付けたい気持ちをぐっと堪え、ポップはダイの頭をくしゃりと撫でた。
ダイがまだポップの胸の辺りまでしか背丈がなかった頃からの、ポップの癖だ。
「じゃあ……また。着いたら、連絡するから」
頭から離れていく手を名残惜しそうに見つめると、ダイは別れを告げた。
「ああ……またな。気をつけて帰れよ。年末にはそっちに帰るから」
ポップの言葉にこくりと頷き、「じゃあね」と言って、ダイはホームへ続く階段に向かって歩き出す。
階段を上がる直前に振り向くと、来たときと同じようにぶんぶんと大きく手を降るダイ。
ポップはその様子に、やっぱり子犬のようだと苦笑しつつ、軽く片手を上げたのだった。
ダイと別れたポップは、そのまま真っ直ぐマンションへと帰って来た。
部屋に射し込む斜光が、見慣れたはずの部屋を一層物寂しく感じさせた。
その光に照らされセピア色に染まった部屋に残された、ネイビーブルーの洋服。
ポップはその服を手に取ると、音を立ててベッドへ倒れ込んだ。
ぎゅうとパーカーを抱き締め、顔を埋める。
ポップが貸してやった消臭スプレーの香りに混ざる、ダイの匂い。
──また来いよ、ダイ。いつだって……いつまでだってオレは待ってるからさ。
電車に揺られながら、きっと自分のことを想っているであろうダイのことを、ポップもまた想いながら、そっと瞳を閉じた。
終