タイトル未定 第4話 ミスラは別段、酒好きという訳ではない。昔から大蛇を肴に酒盛りをする魔女に連れ回されていた為美味いか不味いかの判断はつくが、それだけだ。
「……」
そんなミスラが飲み干したグラスで、氷が硬質な音を立てる。北の地で採れたと聞いたが、西の手が入ったそれは水晶のように丸く、透き通っていた。
「おい兄弟。やっと一杯目か?」
「うるさいな……」
すかさず飛んできた揶揄に、ミスラはうんざりしながら眉間に皺を寄せる。そんなこちらの様子などお構いなしに、隣に腰掛けたブラッドリーは歯を見せてにやりと笑った。
「折角俺が奢ってやってるってのによ」
「頼んだ覚えはありませんよ」
殺し合いに雪崩れ込んでもおかしくない会話の流れ。しかしブラッドリーは軽く笑って済ませると、そのままミスラのグラスに新しい酒を注いだ。それをただ眺めるのも何だかおかしい気がして、カウンターの向こうのシャイロックが燻らす煙管の煙へと視線をずらす。
「妙な匂いですね」
「今日は、シトラスとミントです。……お気に召しませんか?」
シャイロックが柘榴色の瞳を細めてそう尋ねるのに、別に、とだけ告げた。ここではない彼の酒場では、葉巻の煙ばかりが肺を満たしていたのを何となく思い出す。ついでに、どうしてそう好まない酒の席に、ブラッドリーと並んで座っているのかも。
ミスラが北の国で腹を満たして戻ったのは、つい先程の事。既に寝支度を終えた者と、まだ夜に留まる者が入り混じった空気の中、ミスラは当てもなく魔法舎を彷徨っていた。否、本当はあったが外れたと言った方が正しい。この魔法舎でただ一人の人間の住まう部屋に、主人の姿はなかった。
魔法で呼びつける程の眠気は、まだない。腹も満ちている。オズを襲いに行く事も考えたが、気分が今ひとつ乗らない。ミスラがシャイロックのバーを訪れたのは、そんな何となくが重なった末の事だった。
「いらっしゃいませ、ミスラ。北の国からお帰りですか?」
何故分かったのだろうと思いシャイロックを見ると、生白い指先が水を掻き分けるようにゆったりと動いて彼自身の頬に触れた。
「食事の跡が残っていますよ」
つられて動かした己の指に着いた赤茶けた色に、北で食した牡鹿の肉を思い出す。ミスラが上着の裾で口元を拭ったのと同じタイミングで、視界の端で数枚のカードが舞った。
「儲けたな、学者先生」
「やった!」
両手どころか両足も上げたムルが宙で踊る。その向かいでソファに掛けていたブラッドリーがこちらを見た。
「ミスラ、ちょうどいいとこに来たな」
賭けに負けたにしてはいやに機嫌が良い。しかしそれはミスラが気にする事でもないので触れずに「何が」とだけ短く問うと「賭けだよ」と分かりきった答えが返ってくる。
「まあ……今夜は俺の奢りって事だ」
「へえ、無様ですね」
「言ってろ」
カウンターへと河岸を変えたブラッドリーが軽く笑った。
「飲んでけよ。どうせ暇だろ?」
いよいよもって気味が悪かったが、他にやりたい事もない。まあいいかとちょうどいい高さのスツールに掛ければ、間を置かずにグラスが目の前に差し出された。
「北の国でしか作られない銘柄です。お口には合うと思いますが」
さっさと自分のグラスに口をつけたブラッドリーが「上物だな」と満足そうに目を眇める。ミスラも一口流し込んだ。喉を焼く感触が他の酒よりも強い気がするそれは、確かに多少、好みではある。カウンターの向こうのシャイロックを見れば、まるでこちらの反応を見透かしているかのように微笑まれた。ミスラは何も言わずに、琥珀色の水面へと視線を落とす。
そんな始まりから、途中酔っ払ったムルが大騒ぎしたり、それをシャイロックが叩き出したりといった騒ぎを経てようやく、最初の一杯を飲み干したのだ。
「次の一杯は何にされますか?」
「同じものを」
そうシャイロックに返すミスラの横で、既に何杯か乾かしたブラッドリーが涼しい顔で口端を釣り上げる。
「今夜は随分大人しいじゃねえか。いつもはオーエンと張る行儀の悪さだってのに」
うるさいなと言い返すより先に、オーエンの名がミスラの脳裏から昼間の些細な出来事を引っ張り出す。それはそのまま、口を突いて出た。
「茶を飲みながら話す事じゃないって言ってましたけど、今ならいいんですか?」
ブラッドリーが片眉をぴんと跳ね上げる。驚いたような表情はすぐに、こちらを試すような不敵な笑みに切り替わった。いつもなら気にならないそれが、今はあまり愉快ではない。
「なんだよ、興味あんのか?」
「別に無いですけど……暇なので聞いてやろうと思っただけです」
ミスラにしては少し早い口調でそう言い捨て、注がれた酒を口にする。ブラッドリーは逆にグラスをカウンターへと戻すと、その傍へ肘をついた。
ミスラが僅かに顔を傾けると、見定めるようにこちらへと向けられた視線とぶつかる。
「分かるんでしょう? オーエンが変だった理由」
問い掛けに、ブラッドリーは軽く肩を竦めてみせた。
「あの野郎が何を考えてるかなんて、俺様の知った事じゃねえが……まあ、今回はな」
「勿体ぶらないで下さい」
「そんなつもりはねえって……分かった分かった。教えてやるから」
そう言ってミスラに向けられた瞳は細く弧を描いていたが、どこか醒めていた。親しげなのか酷薄なのか曖昧な表情のまま、ブラッドリーの唇がゆっくりと開く。
「我慢ならねえのさ、オーエンは。あの『北のミスラ』が、大人しく賢者サマに懐いてるのを見るのがな」
「……はあ?」
懐く? ミスラが? 賢者に?
頭上にひとしきり疑問符を浮かべきってから、ミスラはブラッドリーを睨んだ。
「馬鹿言わないで下さいよ」
そんな事、ある訳がない。
ミスラは賢者の魔法使いだが、賢者に恭順した覚えはない。世界が滅びるのは流石のミスラも困るので、手を貸してやっているだけだ。加えて、ミスラは賢者の力がないと眠れないという厄介な傷も負っている。それ故に多少機嫌を取ってやる事もあるというだけで、懐いたなどと言われるのは心外だった。もっと言うなら殺意が湧いた。ブラッドリーにも、オーエンにも。
隣で膨れ上がった殺意に、ブラッドリーは魔道具を構えもせず涼しい顔をしていた。
「そうか? さっきだって賢者を探してうろついてたんじゃねえのか」
「…………違いますけど」
「図星かよ! マジで骨抜きにされてんな」
否定したのに、ブラッドリーはまるで聞いていないような返事を寄越す。酷く苛立ちながらも、ミスラは続けた。
「探してません。いざとなったら魔法で呼びつけますし、必要ないでしょう」
「じゃあとっとと呼び出せよ。そろそろ酒の相手も飽きたろ」
確かに、と思う。元々乗り気ではなかったのだから、もういいだろう。口論相手の助言を素直に聞き入れたミスラは呪文を唱えようとして──やめた。ブラッドリーが目敏く気付き「どうした」と尋ねてくる。何の事情も知らない若造を、ミスラはじろりと睨め付けた。
「やっぱりやめます」
「なんで」
「……着替え中だったりすると、あの人うるさくて面倒なので」
最初の頃は気にもしていなかったが、以前、賢者の部屋に扉を繋げた時に偶々そういう場面に遭遇した時は散々騒がれた上、繰り返し同じ話を聞かされて閉口した。あれをまたやられるのは御免被る。
ミスラのその返答にブラッドリーは一瞬目を丸くして、それから、弾かれるように笑った。更にはバーカウンターを荒々しく叩く。
「はははっ! こりゃいい、傑作だ!」
シャイロックのバーに響き渡るその声は、ミスラの鼓膜にも突き刺さる。ブラッドリーはひとしきり笑ってから、にやにやとだらしなく口元を歪めたまま続けた。
「お利口に躾けられたもんだな。ええ?」
「面倒だって言ったでしょう。話聞いてました?」
「お前こそ忘れてんじゃねえのか」
ブラッドリーは笑っていた。正しく言えば、嘲笑って、だ。
「──てめえが『北のミスラ』だって事をよ」
わざとらしい親しみを取り払った薄赤の瞳。そうやって油断なくこちらの隙を窺う様は見慣れているミスラだったが、単純に投げかけられた言葉に眉を顰めた。
「はあ? 忘れませんよそんな事。何言ってるんです?」
「いいや? 少なくとも最近のお前は違うね」
己が己である事。そんなものは全ての大前提だ。忘れるなどあり得ない。しかしブラッドリーはミスラの言葉を鼻で笑うと、両手を大袈裟なくらいに広げて見せる。この男らしい、芝居がかった腹の立つ仕草だった。
「双子やフィガロの小言がうるさいから? オズの野郎の雷が鬱陶しいからやらない? 違うだろ」
「『北のミスラ』なら、そんなつまらねえ事は関係なく、望むままにやっただろうさ」
醒めきった瞳は、他者の感情を慮るのが得手ではないミスラにも分かりやすく、蔑みの色を浮かべていた。とてもとても、癇に障る。ブラッドリーには勿論、それをさせているこの空間全てが不快だった。
「なあ、おい」
ミスラの怒気が分からない程、ブラッドリーは鈍い生き物ではなかった筈だ。分かっていてなおふざけた態度が崩れないのなら、それはつまり。
「ミスラ。てめえは今一体『何』のつもりだ?」
──殺されても構わないという事だろう。
「本当に、うるさいな……」
湧いてからぐつぐつと腹で煮立てられた怒りが、形になっていく。
「俺を、貴方風情が、決めつけないで下さいよ」
ミスラが声を発した瞬間、カウンターに置かれていたグラスや小皿が消え失せる。店主の差配だ。閉店だと言われるより先に、呪文を唱える。
「《アルシム》」
憎らしい月が飾られた夜空へと扉を繋げると、ブラッドリーが不敵に笑うのが見えた。本当の本当に、気に食わない。すぐさま箒を出して、ミスラより先に扉の向こうへ飛び込んだ事も。
そこからは、いつも通り。
散々魔法を撃ち合った後、夜空を羽虫のように飛び回るブラッドリーを中庭へと叩き落とした。そこまで思い返してから、ミスラは、噴水の影から姿を現した賢者を視界に入れる。その心配と驚きの入り混じった表情に、何だか落ち着かない気持ちになって、顔を顰めたのだった。