とにかくもう、最悪な気分だった。
この世の何もかもが自分の敵で、味方なんて一人もいないのだ、と──実際はそんな事はないとうっすら知っていたけれど、頑ななまでにそんな妄想を信じていた。それを免罪符にしている間は、不機嫌な振る舞いが許されると思っていたから。逆に言えば、そうとでも思わなければお利口になってしまいそうな自分に嫌気が差していたのだ。
のっしのっしと、普段ならしない歩き方で草木を踏み鳴らし(気持ちとしては、踏み荒らし)訪れた湖は、普段通りに静かで、少しだけ腹のうちで燻る怒りが弱まるのを感じる。正気に戻ってしまう前に、慌てて息を深く深く吸った。
何の為に? それは勿論、吐き出す為に。
「ジェイコブのばあぁーかっ‼︎」
遠くにいた水鳥が羽ばたく音がした。一瞬「ごめんね」の気持ちが過ったが、知らんふりして叫び続ける。
「あほ、間抜けっ、根性曲がり! いつもいっつも同じ悪口ばっかり言ってえっ! 物知らず‼︎」
言えばいうほど、薪のように怒りの火がわっと燃え立つ。意地悪くニタニタと笑うジェイコブの表情が湖に映っている気がした。そのひん曲がった唇が開かれると、彼は決まって言うのだ。
「赤さび色、赤さび色、うるさーーい‼︎ 好きでこんな髪になった訳じゃないんだからーっ‼︎」
ひとしきり叫び終えて、もう一度、と息を継ぐ。ちょっと楽しくなってきた、そんな時だ。
「うるさいのはあなたでしょ」
「うひゃあっ」
首根っこを掴まれ、後ろへと引かれる。そのまま地面に倒れ込むかと思いきや、ぼすん、と何かにぶつかった。自然と背後を見上げれば、自分のそれよりもずっと鮮やかな赤い髪が見えて、次に、この場の草木よりも深い緑の瞳と視線が合わさる。同級生に向けた罵倒の代わりに、丸くなった口から「ミスラ!」が飛び出した。
「いたんだ……いつから?」
「あほ、間抜け辺りから」
最初からじゃん! と叫ぶように言えば、喧しいと言うように眉間に皺を寄せる。
「いたなら言ってよ!」
「だってあなた、ずっと一人で喋ってるから……気は済みました?」
昼寝の邪魔なんですよねとはっきり言われ、ぐっと押し黙るしかない。少なくともこの場において闖入者はこちらだ。
ミスラは反論がないのを認めると、掴む手をぱっと離した。そのまま、長い手脚を放り出すようにして地面に座り込む。ぼんやり湖面を眺める横顔は相変わらず恐ろしい程整っていて、何度見ても目に優しくない。思わぬ横槍でぱんと弾けた憤りは、もう萎んでいくばかりだ。
まだちょっと残っていた苛立ちを動力に、ミスラの隣に乱雑に腰を下ろした。
ミスラと初めて会ったのは、もう随分と昔の事になる。今よりもずっと背丈が低く、学校に上がる前だった故に有り余っていた時間を使った「探検」でこの湖を訪れた時の事だ。
人生で初めて遭遇した尋常ならざる美貌に唖然としていた幼子を見下ろしたまま、彼は眠たげな目を瞬かせ「ああ」と吐息混じりに呟いて、ゆっくりとその膝を折った。
「はじめまして。えーと……ミスラです」
そう言って、ミスラは片手を差し出した。絵本で見た、王子様がお姫様をダンスに誘う仕草だと思ったのを覚えている。夢を見ているような心地で、大きな掌に己の若葉ほどのそれを重ねると、ふわ、とあたたかな風が吹いた気がした。
「まあ……ほどほどによろしくお願いします」
ミスラはにこりともしなかったけれど、その時に見た景色は今もなお、思い出の中できらきらと輝いている。
「ふあ……あーあ、目が覚めちゃいましたよ」
記憶の中では輝いていた横顔も、眠気で萎れていては魅力も半減……とはならないのがこの男のずるいところだ。気怠げな様子さえ絵になるとは。ずるい、と口の中で転がした呟きを誤魔化すように「あのね」と声を張る。
「学校に意地悪な子がいるって前に話したでしょ」
「そうでしたっけ」
はて、と首を傾げるミスラ。本当に、見た目以外がなんと王子様から程遠い男である事か。「そうなの!」と唇を尖らせる。
「私の髪の色、馬鹿にしてくる嫌な奴。やめてって言ってもやめないし、うるさいし、本当に最低!」
「へえ……呪い方とか知りたい感じですか?」
「……どうせ教えてくれない癖に」
「よく分かってるじゃないですか」
じっとりと睨め付けると、ミスラは感情の起伏の見えない表情のまま肩を竦めてみせた。
「あなた、呪術の才能ないので。時間の無駄です」
「やってみないと分からないでしょ!」
そう言い返すも、ミスラは「分かります」とにべもない。
「あなた達とは、それなりに付き合ってきましたから」
あなた「達」。
ミスラと話していると、時折会話の端に「この場にいない誰か」が現れる事がある。
不思議に思って尋ねた事もあるが「別に、言葉通りの意味ですけど」と彼らしい大雑把な答えしか貰えなかった。
ミスラに誰かと重ねられるのは、不思議と嫌な気はしない。長い時間を共に過ごした訳ではないけれど、彼がそうして心の中に住まわせる誰かがいると知れるのは少し嬉しくさえあった。誰も知らない花が咲く木陰を探し当てた気持ちになれる。
「大体、悪口言われる度に呪ってたらきりないですし……それに」
穏やかな湖面へと注がれていた眼差しと共に、今も自分のそれより大きな手がこちらへと伸ばされた。ときめく間も無く肩まで伸びた髪を一房取られる。
「俺はこの髪、いいと思いますけどね」
「……それ、前も言ってた」
そうでしたっけ、と言いながらミスラは手の中の髪を弄っていた。相変わらず感情の乏しい表情だが、ほんの少しだけ機嫌が良さそうに見えるのは目の錯覚だろうか?
「光の具合で赤にも茶色にも見えて、いい感じですよ」
「……それも前に聞いた」
もっともっと背が低かった頃に、同じようにこの髪色への文句を溢した自分に、同じようにミスラは言っていた。赤と茶色が好きな訳でもないらしいのに何故、と幼心に首を捻ったのを覚えている。あの時は怒りに任せて泣いていたから、すぐに気にならなくなってしまったが。
「なんで、いい感じなの?」
今なら、と思った時にはそう口にしていた。ちょっとだけどきどきしながら見上げると、ミスラは髪から離した手を口元に当て、んー、と軽く唸ってからぽつぽつと言葉を落とし始める。
「別に、似てても似てなくても、俺もあの人も構わないとは思うんですけど」
「え?」
「でも、チレッタに似てるルチルを見るのは変な気分もしたけど、面白かったりもしたし……あとは、そうですね」
茫洋と漂っていた視線が、不意に空へと投げられる。流れる雲しか見えないそこの、更にその先をミスラの眼差しは捉えている気がした。
「繋がってる感じがして、悪くないなって」
「繋がってる……」
言葉が欠け過ぎているけれど、なんとなくその「繋がり」の大元は、ミスラを指しているのだと察する。あと、多分、もう一人。
それが誰かも尋ねたかったけれど「ああ」と声を上げながらこちらを向いたミスラの表情が思いのほか柔らかくて、言葉を継げなくなる。
「呪い方は駄目ですけど、そういう奴へのやり方は教えてやれますよ。多分、あなたにはそっちの方が向いてるし」
「えっ」
「知りたい?」
「し、知りたい!」
唐突に戻った話題に、反射的に飛びついてしまうのは許して欲しい。元々、この湖に来たのはジェイコブへの怒り故なのだから。
ミスラは壊れた人形のように首を縦に振るこちらの必死さを笑う事なく、いいだろうというふうに一つ、頷いてみせた。
「じゃあ、ちゃんと聞いてて下さいね」
授業終わりの帰り際に、おい、という偉そうな、得意げな声が背後から掛かる。
いつもなら「なによっ」と叫びながら反射的に睨みつけながら振り返っているところだが、今日はゆっくり振り返り、声の主──ジェイコブを見つめた。
「なに? ジェイコブ」
こちらの様子がいつもと違う事に少し妙な顔をしたものの、彼はいつも通り、胸を反らしながら口を開く。一体何を誇っているつもりなのか、さっぱり分からない。
「今日もまたひどい赤さび色だな! 俺の家の柵みたいだぞ」
「そう」
「はん、だって本当に赤さび色なんだから……って、え?」
きっと「赤さび色っていうな!」という返しを想像していたのだろう。そこを頷かれた為に、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔になったジェイコブに笑いを堪えつつ、あくまで静かに呼び掛ける。
「ねえジェイコブ。あんたはからかってるだけのつもりなんだろうけど、私はそう思ってない」
声は荒げない。怒りに身は任せない。昨日の晩考えに考えた言葉をなぞっていく。
「あんたに赤さび色って言われると、自分の髪がすごく嫌なものに思えて、鏡を見る度憂鬱になった。髪の色を草で染めて変えようとしたけど、手がかぶれて酷い目にあったり……そんな自分が嫌になった」
ジェイコブだけじゃなく、周りにいた生徒も黙ってこちらを見ている。
「私、すごく傷ついた」
一歩一歩、ジェイコブへと近付く。怯んだように足を後ろに退きかけたのが目の端に見えたが、それよりも早く彼の眼前に立った。
「あんたはそれが分かってないから、私がやめてって言っても聞かなかったんだと思う。……でも」
相手の目を、見る。
「これでもまた私の髪を赤さびってからかうなら、許さないから」
「ゆ、許さなかったら、なんだっていうんだよ!」
ジェイコブの、口角泡を飛ばす勢いの震え声を避けるように、ひょいと体を退く。
「別に? あんたが何をしたって、あんたの事を許さないってだけ」
くるりとジェイコブに背を向ける。もう言うべき事は全て言った。ミスラの声が、脳裏で響く。
『あなたがされて嫌だった事を考えて、はっきり言葉にするんです』
『言っても変わらない? 変わりますよ。少なくとも、あなた自身は』
『……伝える事で、変わるものはあります。良いか悪いかは別にして』
『その後どうするかは、相手が考える事です。あなたは、それを待てばいい』
『許すか許さないかは、周りに何を言われてもあなたが全部決めていいんです。あなたの心の中だけの話なんですから』
『あなたの心は、あなたが守ってやるんですよ』
ここ数週間の中で、一番体が軽い気がする。
家に帰ってすぐにお気に入りの鞄におやつを詰めて部屋から飛び出したところで、母とすれ違った。
「出かけてくるー!」
「また湖?」
「いいでしょ別に!」
苦笑混じりの問い掛けに頷いて、玄関を出る。草も、花も、空も、いつも以上に綺麗に見えた。
(ミスラはいるかな?)
いたらいいな、と口の中で言葉を転がしながら、足は止めず、走っていく。
世界が美しくなったのではなく、それを映す自身が変わったのだと教えてもらうのは、まだもう少し、先の事だった。
……駆け出していった少女を見て、母親はほっと息をつく。最近元気がないようだったけれど、今日は調子が良いようだ。
同じように彼女を見ていた祖父が──母親にとっては実父だ──が尋ねてくる。
「どこへ行くって?」
「湖だって……本当に好きね」
「お前さんだってそうだったろう」
ほっほ、と笑いながらリビングの椅子に腰掛けて、父は懐かしむように目を細める。
「お前さんも、お前さんの母親も、その父親も……よく行っていたよ」
「そうだったわね……」
「……さては、あの子も会ったかな。我が家の守り神に」
心の片隅で考えていた事を言われて、少し驚く。父は穏やかに、窓の外を見つめている。
「母さんからよく聞いたよ。うちには昔から守り神がいる、ちょっとぼんやりしているけど、頼りになる神様だって」
己の母のいいようが全く自分の思っていた事と同じで、ふふ、と笑ってしまう。
「そうねえ。……今度、みんなでピクニックでもいきましょうか」
彼は、ミスラは……相変わらず湖の傍で昼寝でもしているのだろうか。
かつて、世界には不思議の力を使う者達が大勢いたのだという。
それが時代と共に減り、最後、厄災と呼ばれる存在を退けたのを境に姿を隠した。
それからもう、数百年。
南の国のとある湖には、言い伝えがある。
気まぐれな神様が住んでいて、気まぐれに訪れた者の願いを叶えてくれるのだという。
その神が、いつかの賢者と結ばれた魔法使いだとか。
この世を去る前の賢者と約束して、己の血族を見守るようになったのだとか。
約束はしていないけど、何となくそうしているのだとか。
真実は、遠い昔と、今も彼と生きる一族の中にだけ、残っている。