タイトル未定 第5話 賢者が現れた事によりミスラの意識が、一瞬、そちらへと逸れる。その隙を見逃すブラッドリーではなかった。
「はっ……」
「……あ」
「ハッックション‼︎」
どこに忍ばせていたのか分からない胡椒の香りが鼻をついた時には、地面に横たわっていたブラッドリーは消えていた。逃げ足の早さに、ミスラは舌打ちを漏らす。
「ミスラ……」
半壊した噴水の横に立つ賢者は、不安そうな、戸惑うような表情を浮かべていた。その姿に、更に苛立ちが募る。
あなたが来たせいで、とどめを刺し損ねた。
そう言い掛けたミスラだったが、ブラッドリーを逃した事よりもそちらの言葉の方が大きく「何か」を損なうような気がして口を無理に閉じる。更に不機嫌な顔つきになったミスラに、賢者は躊躇いながらもう一度「ミスラ」と呼んだ。目線が交わり、二人の間に沈黙が落ちる。ミスラの眼差しの先で、小さな唇がゆっくりと動いた。
しかし。
「賢者様、大丈夫ですかー? あっ、ミスラさん!」
「ルチル」
彼だけではない。その後ろに、シノ、クロエ、ヒースクリフが続く。
「ミスラか」
「あっ、噴水がまた壊れちゃってる!」
「水が漏れてるところだけでも塞いでおこうか」
(……一気にうるさくなった)
先程までの妙な緊張を孕んだ空気も決して好きではなかったが、賑やか過ぎるのはそれ以上に好まない。
「《アルシム》」
あっ、という声を背中で聞きながら、自室へと繋いだ扉を潜る。振り返った隙間は狭過ぎて、もう賢者の顔は見えなかった。
「あいつ、片付けサボったな」
眉を顰めたシノのその一言で、呆然と消えた扉を見つめていた晶は我に返る。気付けば談話室にいた面々が壊れた噴水や、ミスラとブラッドリーが荒らした庭を片付けていた。
「すみません、私も──」
「大丈夫ですよ、賢者様」
手伝います、と言い掛けた晶をヒースクリフが首を横に振って制する。
「もう遅いですし、応急処置は済んだので」
「でも……」
ミスラとブラッドリーが荒らした中庭を晶は見回した。クロエやルチルが散らばった草木を浮かせて端へと避けてくれているが、噴水の修繕は明日になったら強い魔法使いに修理をお願いした方がいいだろう。
(オズや……ミスラ、に)
この場を立ち去った時の、ミスラの様子。苛立ち、憤り……迷子のように揺らいでいた眼差しがまた、晶の心を引き留める。
何があったのか聞きたい。助けになれるなら、なりたい。
(全部、私の我儘だけど……)
「賢者」
逡巡する背を叩くような声に、晶はいつの間にか俯いていた顔を上げた。
いつもと変わらぬ真顔でこちらを見るシノと視線が合う。
「行かないのか? あんたが行かないと、あいつ余計に拗ねるぞ」
「す、拗ねますかね……?」
半信半疑の晶に対し、シノはやや呆れたように、しかしきっぱりと「拗ねる」と断言した。
「構って欲しそうにしてたからな」
「分かる! ミスラさん、そういう小さい子みたいな事する時があるから」
いつの間にか、ルチルもシノの側について同意していた。現役教師であり、ミスラと関わりが深いルチルが言うと真実味が増す。
(確かに、ミスラは子供っぽいところもあるから……でも)
「賢者様!」
迷い始めた晶の肩に手を添えながら、クロエが明るく声を掛けてくれる。
「片付けは大体終わったし、俺達もそろそろ休もうかと思うんだけど」
賢者様はどうする? と菫色の眼差しが柔らかく問いを投げてくれる。
……その優しさに、晶は思い切って甘える事にした。
「私も、ミスラの様子を見てから部屋に戻りますね」
その一言に皆が笑みを溢し、場の空気がふわりと温かくなる。晶も、自然と微笑んでいた。
中庭を後にする足がやけに軽く感じたのは、多分、勘違いではないだろう。
「……構って欲しそうに見えたの?」
賢者の姿が見えなくなってからヒースクリフが零した一言に、シノはあっさり「さあ」と返した。
「さあって、お前…….」
「ああでも言わないと遠慮するだろ、あいつ」
おざなりな返答に眉を顰めたヒースクリフにまたすかさずそう返したシノに、分かる、というようにクロエが深く頷いてから眉を下げて小さく笑う。
「賢者様優しいから、我慢しちゃうところがあるもんね」
自分の事は、尚更。
落とされた囁きに返事は無い。しかし、各々が浮かべた表情を見れば、答えが必要ないのは明白だった。
残された四人は、さて、と誰からともなく歩き出す。
「賢者様に追いついちゃうし、私はもう少ししてから戻ろっかな」
「それなら、俺の部屋でもうちょっとお喋りしない? 賢者様には休むって言っちゃったけど、まだ眠れそうにないや」
はにかむクロエに笑って頷いたルチルの隣で、シノが真顔で目だけを輝かせた。
「俺も行く。ネロから茶菓子を貰ってくるか」
「やめなよ、もう遅いし……メリトロさんの店で貰ったお菓子を持って行くね」
「わ、素敵!」
若い魔法使い達の密やかで賑やかな夜は、まだ始まったばかりのようだった。
ノックの音を、ミスラはベッドにうつ伏せたまま聞いた。
「……」
無言のまま応えずにいると、もう一度扉が叩かれる。さっきより心なしかゆっくりとしたそれからは、ミスラが部屋にいないのではと今更扉の前で弱気になっている賢者の姿を容易に思い描く事が出来た。
「……はあ」
ミスラは軽く溜息をついて、僅かに人差し指を曲げた。寝返りを打ったのと同時に、扉が開かれる。驚いた賢者の声が、背中の向こうから聞こえた。
「お邪魔、します」
声色こそ静かだったが、部屋に踏み入ってきた足どりはしっかりしていた。最初の頃はもう少し、おっかなびっくりというか、雪道を歩くようだったのに。そんな事が妙に気になった。
「……何の用ですか」
「話を、したくて」
背を向けている為、賢者の表情は見えない。それでも物音で、彼女が寝台の傍の椅子に掛けたのは分かった。寝かしつけの時の定位置だ。見なくても分かる。
「何の」
「どうして、ブラッドリーと喧嘩したんですか?」
ミスラが投げ捨てるように放った言葉を、賢者はそっと拾い上げて返事を寄越す。答えてやる義理はない。そう思っているのに、部屋の静寂がミスラの肌をざわつかせて落ち着かなくて、つい口を開いていた。
「いつもしてるでしょう、あれくらい」
ここではっきり理由を言わない事自体が、「いつも通りではない理由」があると言うのと同じだと思い至る事なくミスラはそう返す。しかし当人以外にはあからさまな瑕疵に、賢者は触れなかった。ただただ夜の静寂に馴染む声色で、続ける。
「ちょっと、いつもとは違う気がして……私の勘違いならいいんですけど」
「……そうなんじゃないですか?」
ミスラの返答に、賢者は微笑んだらしかった。僅かに吐息の漏れる音を聞いただけなので溜息の可能性も大いにある。それでも何となく、賢者は笑っている気がした。
「それならよかったです。それじゃあ……」
その言葉と共に、椅子を引く音が響く。
まさか、帰るつもりか?
ミスラが反射的に振り返ると、ベッドに寄り添うよう椅子に掛け直した賢者と目が合った。
「……どうかしました?」
「別にどうもしないです」
微かな苛立ちがミスラの返事を早める。こちらを見下ろす賢者から目を逸らしはしたが、体勢は戻さなかった。ここで背を向けるのは何か、負けのような気がしたから。
賢者は少しの沈黙の後、そっと言葉を落とした。
「ミスラ、今夜は……眠らないですか?」
「……はい。気分じゃないので」
とてもではないが今は賢者の手を借りる気にはならなかったし、借りたところで到底眠れるとは思えない。それならいっそ、起きたままの方がいい気がしていた。一日二日程度眠らなくても、魔法使いは死にはしない。
賢者の膝の上に乗せられた手が、その指先をゆっくりと伸ばしてから、元通りに収まる。適当に放られたミスラの片手は、ベッドの上に置かれたままだ。
「それじゃあ、手伝いもいらない感じ、ですかね」
「まあ、そうですね」
こちらの返答に、賢者は腰を上げる。予想に易い展開に、今度はミスラは動かなかった。
ミスラを覗き込むように見下ろして、賢者は少しぎこちなく微笑みながら口を開く。
「また、ミスラの気が向いたらでいいので……聞かせて貰えたら嬉しいです」
「……何を?」
その問い掛けに、賢者は眉を下げただけだった。仕方がないなと言われているような、或いは、分かってる癖にと言われているような、そんな笑みにミスラは反射的に片手を握り込んだ。シーツの余白以外、そこには何もない。
「おやすみなさい、ミスラ」
そう言って、一歩、また一歩と扉へと近づいていく背に何故か、ミスラは急き立てられるようにして声を上げていた。
「ブラッドリーが」
賢者が振り返る。扉へと伸ばされていた手が戻るのを目の端で眺めながら、ミスラは言葉を継いだ。
「ブラッドリーが言ったんです。俺が……あなたに懐いているように見えると」
頭の端に引っ掛かっているその台詞を思い出すだけで、また胸がむかむかとしてくる。
「俺が、俺を忘れてるだとか。訳が分からない……」
あなたもそう思うでしょ、と黙ったままの賢者をちらと見上げたミスラは、その場に凍りついたように立ち尽くす姿に目を見開く。そしてすぐ、より剣呑な眼差しで賢者を捉えた。
「……賢者様もそう思うんですか?」
ぶり返した殺意が、行き先を決めないままミスラの手を動かす。しかしそれも、賢者の脆さを思い出してしまってはベッドへと落ちるしかなかった。むしゃくしゃした気分のまま、ミスラはさっきまでの意地をあっさり捨て、もう知るものかとに賢者に背を向ける。
「ミスラ……」
ベッドの傍へと近付く気配を感じ、声を背中で聞きながらも、ミスラは振り返らない。掴んだ抱き枕を力任せに掴んだまま、眠れもしないのにふて寝のような姿勢を取る。
賢者は少し躊躇った後、もう一度椅子へと座り直した。先程までと状況は全く同じになったが、黙り込んだままの賢者によって、静寂が澱のように積もっていく。
ミスラは騒々しいよりも静かな方が好みではあるが、今の部屋の空気は彼の生まれ育った湖畔の持つ静けさとは違い、どうにも落ち着かない。加えて賢者も完全に沈黙している訳でもなく、時折に何かを言おうとしてはやめるのが空気の揺れで伝わってくるのがまたそれに拍車を掛けていた。
(何か言えばいいのに)
聞きたくないという態度をとっておいて、何とも勝手な。
双子やフィガロ、ファウストなどがいればそう評したかもしれないが、今は当人以外知る由もない。そしてミスラが、そんなふうに自らを省みる事は無かった。ただ背後で黙り込んだ賢者への不満を募らせるばかりだ。
そうして膨らんだ堪忍袋が、ぱちんと弾ける直前。ミスラの鼻先を、この部屋のものでなく、それでいて慣れた香りがふわりと掠める。背中に、熱が触れた。
「ミスラ」
ほど近い距離から聞こえる声に合わせて、僅かにベッドが揺れる。首を少し捻れば、ミスラの背に己の背を添うようにして腰掛けた賢者の姿が見えた。
「……さっきは、すぐに返事が出来なくてごめんなさい」
横顔は、髪に隠れて見えない。それでもミスラは、何となく、今そこにどんな表情が浮かんでいるのか分かる気がした。
「ブラッドリーがどう感じたのかは、分かりません。でも少なくとも私は、ミスラを侮ったり、軽んじたりは、していない……つもりです」
「つもり」
短くそう返せば、頷いたのか賢者の頭が揺れた。
「私はそう思っていても、ミスラが、あなたが嫌だと感じたのならそれが全てで、そっちの方が大切ですから」
微かに触れている背から、賢者の体が強張るのを感じた。
「皆と一緒に過ごせる事や、こうしてミスラと話が出来る事に……あなたが思っている以上に、私は救われてます」
でも、と言葉が続く。
「魔法舎にいる皆がそれぞれ我慢したり、譲ってくれているから暮らせているんだって事も、分かってます」
賢者はそこまで言うと、ゆっくりとミスラの方を向く。揺れながらも、真っ直ぐにこちらを見つめる瞳が見えた。
「だから、せめて……皆が、ミスラが嫌な事は、したくないんです。して欲しく、ないんです」
願いのような、訴えのような言葉が、ミスラと賢者だけの空間にしんと響いて消えていく。俯いた賢者の顔はその髪に遮られ、またミスラの視線から隠れた。
──それが、どうにも気に食わなかった。
「ちょっと」
「え……んん⁉︎」
音もなく体を起こし、賢者の顎というかもう頬までをむんずと掴んで引き寄せる。意表を衝かれ見開かれた双眸の奥、眉間に皺を寄せたミスラ自身と目が合った。
「みひゅら……?」
「……いいでしょう、もう」
考えるより先に口から零れ落ちた言葉に、賢者の目が瞬く。
「何を考え込んでたのか知りませんけど……そんな、真に受けなくたっていいでしょう。ブラッドリーが言った事なんて」
数分前の自分を忘れたように、ミスラの口はすらすらと動いた。
「あの人が何を言ってるのか分からない時なんてしょっちゅうだし……ああ、そうですよ。気にする必要なんてない」
声に出してみると不思議なもので、適当に話し始めたつもりが本当にそう思っていたような気がしてくる。
ミスラは、己の手の中の賢者を見下ろす。ちょっと小ぶりなタコか、生まれたての雛みたいに唇を突き出した顔が面白くて、ふっと笑いが口の端から溢れた。そのまま、風船のように賢者の頬をぐにぐにと潰す。
「あはは、変な顔」
賢者は小さく唸り声を上げはしても、抵抗するつもりはないようだった。ミスラの気が変わって握り潰される事など考えてもいないのだろう。流石のミスラも、いくら腹が立ったとしてもそこまでの凶行に走る気はなかったが。
無防備に、困惑しつつも自分から目を逸らさない賢者がどうにも愉快で、ミスラは笑った。気が済んだので手を離せば、賢者は頬をさすりながらおずおずと口を開く。
「えっと、ミスラ、もういいって……?」
「ブラッドリーにどう言われようが、関係無かったなって」
中庭を半壊させたり、ブラッドリーを半殺しにしたりする必要はなかったのだ。否、後者は己に舐めた態度を取った彼に相応の制裁ではあったが、そうでなければ、気にする事ではなかった。
「関係ない……?」
答えを得て身が軽くなったようなミスラと反対に、賢者の頭上から疑問符は去っていないらしい。鈍い人だなあとミスラは呆れた。
「関係ないでしょう。俺と、あなたの事なんですから」
賢者の瞳が大きく開かれる。零れ落ちそうなそれを、ミスラは覗き込んだ。
「他人が何を言おうが、どう思おうが……俺とあなたが分かっていればいいんです」
確かに賢者は時折ミスラに対し、大きな獣や幼児に接するような態度をとる事もある。なんなら、ちょっと失礼な事も平気でしたりする。しかしそれに、侮りや蔑みが混じる事は無かった。もしそんな事をされていたならば、ミスラは反射的にうっかり殺してしまっていただろう。
でも、賢者はただただ、ミスラの名を呼び、話がしたいと傍に寄ってくるだけだった。
そんな事に意味があるのか、ミスラにはよく分からない。分からないが、賢者と過ごす時間は、悪くなかった。故に、許していたのだろう。
「ミスラ、もう……怒ってないんですか?」
いつの間にか表情から惑いの消えた賢者が、僅かに瞳を揺らしながら問うてくる。ミスラはちょっとだけ視線を明後日の方向へ投げ、すぐに戻した。
「ブラッドリーにごちゃごちゃ言われて、むかつきましたけど……あなたがそう思ってなくて、俺もそうじゃないなら……もう別にいいです、どうでも」
そこまで言い切ると、ミスラは再びベッドへと寝転がった。唐突さに賢者が目を丸くしているのも気にせず、ん、と手を差し出す。
「無駄に怒ったり、沢山喋ったりで、疲れました」
それだけ言えば十分だった。一瞬ぽかんとした賢者だったが、すぐに理解したらしく口元を綻ばせる。
「……はい」
放った手に、慣れた温もりが触れた。
疲れのせいもあって、いつもより早足で眠気がミスラの思考を侵していく。ぼやけ始めた視界の中、ベッドに座ったままの賢者が気になった。
「賢者様、は……寝ないんですか?」
「──お風呂、まだなんです。それに、賢者の書もまとめたいので」
「ふうん……別に、いいですけど」
賢者が少し言い淀んだ事に気付きながらも、ミスラは追及しない。今までも散々同じ寝床を共にしているのに、賢者は毎度、地味に抵抗していた。これもその一環だろうと考えていると、欠伸が漏れる。賢者の力が効いている証だ。
「ミスラ、眠れそうですか?」
「ええ……いい感じ、です、ね……」
感覚がおぼろげになっていく中、ミスラは、柔く手が握られるのを感じた。
「おやすみなさい、ミスラ」
返事をしたのか、そもその囁きが夢の外でのものだったのかも、よく分からない。
そんな事を考えたのを最後に、ミスラの意識は消失したのだった。