その水底で呼吸を分けて【その水底で呼吸を分けて】
満ちる光の気配で意識が鮮明になっていく。俺は此処に堕ちて来るまで、地獄という場所を誤解していたらしい。
魔界の最底辺。そこは朝と夜の区別などなく、陰鬱と、居心地の悪さに満ちた空間だと長らく思い込んでいた。
身体が鉛のように重い。理由ぐらい、言われずとも分かっている。視線を隣の枕へ向けると確かにいたはずの人がもぬけの殻で心臓が止まる。慌てて上半身を起こし目をこすれば、窓際に人影を見て胸を撫で下ろす。
そこには揺れるカーテンの隙間から薄日を浴びる主人の姿があった。光を自ら浴びる吸血鬼などこの人以外にいるのだろうか。羽織っただけのシャツからのぞく素肌は魅惑的と言うよりも、柔い光に包まれ、神秘的なものに思えた。血を吸わなくなったために縮んでしまったその体格には今なお不安を覚え、肉のない肋骨を直視出来ない。腕を掴んでも腰を掴んでも、その華奢な体つきに力を込めるのを躊躇ってしまう。
勿論我が主人のこと、その程度で折れたり壊れたりすることがないのは良く分かっている。しかしこれは精をつけていただかなければ。そんな気持ちでいつも人間の血を摂取してしまえるよう画策しているのに当の本人には中々その想いは伝わらない。
ぱちり目が合って、吸血鬼はおはようと微笑んだ。朝という時間はある種の神聖を纏い、隠し事を、心の内のやましさを暴く。光が見たくないものまでもを人の目に焼き付けんとする。夜に見ていた都合の良い夢も、この眩さの下にすっかり覚めてしまうのだ。
朝が突き付ける現実は中々どうして残酷で。首、胸、内腿……鬱血した痕の数々が否応無しに昨晩の情事を思い起こさせる。目に毒、というよりも主人を前に歯止めのきかなくなった自分を見るようでいたたまれない。色白い肌に痛々しくも見える。俺が今閣下に掛けるべき言葉は──
「どうした、ぼんやりして」
「おはようございます、ヴァル様。お身体は……」
「大丈夫に見えるのか?」
内腿のキスマークを長い爪の指がなぞる。その挑発するような指つきについ喉が鳴り、己の浅はかさに首を振る。悪魔といえ、背徳的なことにはどきりとするものだ。
「責任は取ります」
「良く言う。男同士で、何の責任を取ろうというのだ」
それに、悪魔は責任などとらん。そんなことを言うのはよっぽどの物好きだけだ。お前がその物好きだと言うのなら止めないが。
そう笑った閣下の表情は柔らかい。暴君と呼ばれた頃には見ることのなかった表情に、形容し難い気持ちが込み上げる。
恐ろしいまでの魔力量、鮮やかな身のこなし、惚れ惚れするほどの畏怖。そして、裏切り者の俺に向けられた「俺のために尽くせ」というあの言葉。このお方こそ世界の覇者に相応しい、そんな風に魅せられて俺は400年前、月の下に忠誠を誓ったのだ。吸血鬼ヴァルバトーゼ。こんな辺鄙な地で燻っていて良い方では決してない。そう心の底から思い、日々画策しているのに。
その一方で主人と過ごすこの地の底に、ある種の充足感を覚えてしまっている自分もまた、認めなければならなかった。住めば都とはこのことか。それとも、此処が貴方と堕ちた先だから、なのでしょうか。
「全ては我が主人のために」? そんな口癖のような口上も、心で唱えてみれば嗤えてしまう。何が主人のためか。きっと本当は俺のためなのだ。そんな後悔と自己嫌悪が、主人の穏やかさを前にいつまでも付き纏う。
「朝日がこうも届くこともあるのだな。今日は随分と眩しい」
彼は透けるような紅い目を細めた。地獄に降る、ささやかな光。俺の目には、閣下がこの薄光と重なって見えていた。
閣下の心は光に阻まれ肝心なところがまるで見えて来ない。俺は、主人と従者である以上の気持ちをこの人に抱いてしまっていて、閣下もそのことはもう、気付いているのだろう。けれど、それを主人は否定しない。拒絶しない。それが俺には分からない。「もうやめにしよう」と言われる前に、焦がれる気持ちを一切消して、無かったことにしてしまえと何度も試みた。
けれど一度生まれた感情の泡は潰してしまおうにもするり俺の拳を避けていく。見て見ぬ振りをしたところでその気泡は消えてくれるはずもなく、むしろ増殖しては纏わりついて、逃げ道を塞いでいく。息苦しさを増していく。
それで、そのまま泡に飲まれ溺れた結末がこのザマだ。水底には魔物が住んでいて、俺の足を掴み、あっという間に引き摺り込んでいく。俺は息が出来なくなって、隣にいる大切な人を離さないよう掻き抱いてしまう。
主人を暗い水底へ道連れなんてこと、従者である自分が望むはずもない。それなのに。思考と行動がちぐはぐで、噛み合わない。自分のことが分からない。
欲をぶつけ、身体を繋ぎ。今更俺たちは清く正しくいられる訳がない。そも、悪魔が正しさなど求めることはないのだから、そんなことはこの魔界において気にかけるほどのことでもないのだろう。取るに足らない良くある話。
しかし、少なくとも。身体の欲が満たされたなら、わざわざ朝まで共にいる必要などないはずだと己の影が囁いた。それもそうだ。けれどもそうしないのは、それはやはり何かが満たされないからで。
このままでは俺の独りよがりのように思えて。この胸の痛みさえ思い上がりのように思えて、あまりにも虚しかった。……きっとそれが、俺を朝までこの部屋に縛り付けた。
「明け方まで申し訳ありません、すぐにでも出て行きます」
俺の心の内を知ってか知らずか。閣下は壁に掛けられていたジャケットを手に取ると、俺の方へと歩み寄った。何を、と俺が発するよりも先に閣下が口を開く。
「まあ、待て。お前が普段してくれることの真似事だ」
ベッドへと膝をついた閣下は俺の背側にジャケットを広げ、袖へ腕を通し、襟を正す。それが終わればベッドの脇へ置いていた両の手のグローブが嵌められいく。そのひとつひとつがぎこちなくも丁寧で、込み上げるこの気持ちを何と言い表すのか、俺は知らない。身体だけではない、心だって見えないけれど確かに自分のものであるはずなのに、その難解な仕組みは自分には分からないことだらけだ。
なされるがまま、満ちていく不思議な心地に随分安い魂だと悪態を吐く。この気持ちを俺が形容することはこの先もないのだろう。想い合う言葉だって満足に交わされることはきっとないけれど。それでも俺は、
不意をつき、主人が俺の目線まで屈んで頬に口付ける。子どものように、擦り合わせて戯れる、触れるだけのキス。けれど一方で、重ねられた手が優しいような、逃げるなと主張するような、そんな意思を持っている。「目を逸らすな」と俺をじっと見据える目が物語る。
ああ、そうやって貴方の瞳はいつも私を見透かす。こんなに情けない心の内を覗き見てなお、拒まない。だから、だから私は期待してしまうのではありませんか。
「そんなに見られると……気恥ずかしいのですが」
「恥ずかしいことを散々したはずのお前が言うのか?」
くすくす笑う閣下はまるで、水底の光だ。
「もう、準備はいいな? フェンリッヒ」
差し出された手を取れば、胸の中で泡が弾け、すっと息が楽になる。貴方の纏う眩さに、地獄にも確かに朝は降るのだと、そんな当然のことを俺は今、ようやく知った。
fin.
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リッヒは幸か不幸か自分のちぐはぐな感情を分析するだけの冷静さを持っていて、それ故に苦しみ、ぐるぐると葛藤するんだと思います。
主人と従者 そんなことあって良いはずもないし 悪魔だから身体の関係ぐらいあっても良いとしたって 俺はとっくに身体だけなんてそんな気持ちじゃなくなっているじゃないか…?! こんな感じに。
その全てを照らし見透かして、お前とならそれでも良いさと口付けるのが閣下。けれど、手を引く先は深く暗い水の底。悪魔ですから。そして共に溺れ沈んでしまった水底で息を分けてやる。それが愛という言葉を使えない悪魔たちにとっての、それなんじゃないか。そんな気持ちで書きました。やまなしおちなしいみなし。